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2010年2月25日 (木)

一隊の兵を見送りて  その3

     一隊の兵を見送りて  その3

1931年(昭6)、朔太郎の言う「この重量のある機械」は満州の大地を侵略します。反戦と革命の詩人槇村浩(1912~38)の「生ける銃架――満州駐屯軍兵卒に――」の1節を引きましょう。ついでに言えばプロレタリア詩人槇村浩は作家の中でいえば小林多喜二のような位置にある人です。

白樺と赤楊(はんのき)の重なり合ふ森の茂みに銃架の影はけふも続いて行く

お前の歴史は流血に彩られて来た

かつて亀戸の森に隅田の岸に、また朝鮮に台湾に満州に

お前は同志の咽を突き胸を抉り

(うずたか)い死屍の上を血に酔ひ痴れて突き進んだ

生ける銃架。おう家を離れて野に結ぶ眠りの裡に、風は故郷のたよりをお前に伝へないのか

愛するお前の父、お前の母、お前の子、そして多くのお前の兄妹たちが、土地を逐はれ職場を拒まれ、飢えにやつれ、歯を喰い縛り、拳を握って、遠く北の空に投げる憎しみの眼は、かすかにもお前の夢に通はぬのか

この皇軍(関東軍)は満州侵略では飽きたらず、1933年2月華北地方へ侵略を開始(熱河作戦)。あの悪逆無道の日中全面戦争の序曲です。宮沢賢治はその1933年8月30日、満州派遣歩兵第三一連隊第五中隊にいる伊藤与蔵にこんな手紙を書いています。「味読」されたし。

いろいろそちらの模様に就いては、弟への度々の手紙また日報等に於ける通信記事、殊に東京発刊の諸雑誌が載せた第二師団幹部とか、座談会記録に仍て読んで居りますが、実に病弱私のごときただ身顫ひ声を呑んで出征の各位に済まないと思ふばかりです。

然しながら亦万里長城に日章旗が翻るとか、北京(昔の)を南方指呼の間に望んで全軍傲らず水のやうに静まり返つてゐるといふやうなことは、私共が全く子供のときから、何べんもどこかで見た絵であるやうにも思ひ、あらゆる辛酸に尚よく耐えてその中に参加してゐられる方々が何とも羨しく(と申しては僭越ですがまあそんなやうに)感ずることもあるのです。

殊に江刺郡の平野宗といふ人とか、あなたとか、知つてゐる人たちも今現にその中に居られるといふやうなこと、既に熱河錦州の民が皇化を讃えて生活の堵に安じてゐるといふやうなこと、いろいろこの三年の間の世界の転変を不思議なやうにさへ思ひます。(中略)

十月は御凱旋の趣、新聞紙上にも発表ありましたが、そちらとしてもだんだん秋でもありませうし、どうかいろいろ心身ご堅固に祖国の神々の護りを受けられ、世界戦史にもなかつたといはれる此の度の激しい御奉公を完成せられるやう祈りあげます。

ナチズム、ファシズムとならんで世界史上に悪名高い天皇制軍国主義を賛美するこの賢治を見よ。幸徳-啄木-朔太郎-槇村とは正反対の賢治がここに見えるでしょう。この手紙を書いて3週間後の9月21日賢治は亡くなります。賢治の天皇崇拝と天皇制軍国主義賛美は、田中智学の法華経と結びつきつつ、青少年時代から死にいたるまで一貫しています。

賢治研究者はわずかの例外を除いてこの事実には完全に眼を塞ぎます。賢治研究分野には、あってはならないことですが、いろいろタブーがあります。

わたくしは賢治の作品が総じて好きです。宮沢賢治の全作品を整合的に読み取る堂々たる研究の出現を強く望みます。

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