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2010年2月 6日 (土)

何がなしに

     

     何がなしに

     頭のなかに崖ありて

     日毎に土のくづるるごとし

作歌1910年(明43)10月13日。初出「スバル」と「精神修養」の同年12月号。

この歌の2行目、3行目がまったく分かりません。イメージできないのです。

先行の解釈を列記して責めを塞ぐことにします。

山本健吉:「こつこつと」以下三首は前歌と同じ時の作。何か神経の疲労から、ノイローゼ気味になっている状態を詠み取っている。それぞれ頭の中の幻聴、幻想を、具体的な比喩を用いて言い、一つの精神の危機感が鋭く表現されている。

今井泰子:「崖」の険しさに心の険しさをたとえ、その土がくずれて平坦になって行くさまを思い描いて、生活の中で「日毎」に自分らしさがくずれていく思いをいう。「くづるる」の自動の表現が、自分の生命の意ならずしてくずれていくのを感じている彼の心を伝える。

上田三四二:病的な内容であるが、このようにうたう啄木の心は醒めている。そして自分をよく対象化している。自分が崩れてゆくという意識はこの頃の啄木には濃厚にあったようで、「我を愛する歌」の章の特色の一つは、そこに自殺念慮がしばしば取り上げられていることである。この一首は比喩のイメージが鮮明で暗澹とした内容にもかかわらず、歌そのものは濁っていない。(「国文学」1978年6月臨時増刊号)

上田博:頭のなかに「崖」が感じられて、その「崖」が崩落をはじめる。大小さまざまな石が、崩れる土塊と共に落下を続け、体の中へ加速しながら沈んでゆく。この歌の作られた年の九月九日夜に記された「歌稿ノート」には、「何となく頭の中に水盛れる器のある如しぢつとしてゐる」の歌があり、この年四月には、「夏の日に蝋の融くるが如くにも我が道念の融けゆきしかな」の歌が作られている。<観念>の塊のような人間の「頭のなか」に何らか化学反応が起こっていて、いよいよ「頭のなか」の変化が音をたてはじめたのである。頭が「頭のなか」で発生している事態を幻視する。こうした実感を「かなしも」と表現した。「も」に強い感情を含意している。

木股知史:生命の内的な崩壊感覚をとらえた歌。「何がなしに」という言い方で、崩壊を意志でくいとめることができないことを示している。自己の内部を放置して、その崩壊を遠くから眺めているような脱力した感覚が、かえって疎外の深さを感じさせる。

わたくし自身の評釈は、理会でき次第書きます。あえて申しますと上記5氏の評釈中では山本健吉氏のものに近い気がしています。

なにしろ「頭のなかに崖があ」るような、という比喩がまったくイメージできないのです。勘ですが啄木が当時読んだものの中に、鍵があるのではないかと思っています。

掲出歌が解けないので、56-57ページのモチーフについても今のところ何とも言えません。

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