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2010年5月30日 (日)

ぢつとして

     

     ぢつとして

     黒はた赤のインク吸ひ

     堅くかわける海綿を見る

<ことば>海綿=「しつとりと/水を吸ひたる海綿の/重さに似たる心地おぼゆる」(37ページ左)のブログ参照。

初出東京毎日新聞1910年(明43)6月18日。

「しつとりと」の歌の「海綿」は風呂で用いる洗浄用スポンジと想定した。この歌の場合は文房具である。100年前の海綿を入れる器はガラス器か陶磁器か。ともかくそれにスポンジを入れ、水を含ませる。啄木はこれをインクを拭うのに用いたようである。

啄木が家で常備したインクは黒インクと赤インクであった。原稿書きなどには黒インクを常用し、赤インクは詩のタイトル(例:呼子と口笛)や記号(例:暇ナ時の△印)に用いている。赤インクのもっとも特徴的な使用法は「九月九日夜」の歌の場合のように、新しく何かを書き出そうとする時に、インクの色を変える傾向がある(「石川啄木韓国併合批判の歌 5首」参照)。

明治四十四年当用日記の2月4日(腹膜炎で大学病院に入院した日)の条は次の1行から始まっている。

今日以後、病院生活の日記を赤いインキで書いておく。

「九月九日夜」の歌の場合と同様の赤インクの使い方である。

掲出歌を作ったのは10年6月18日より少し前と考えられるから、啄木最後の最高の小説「我等の一団と彼」執筆中であった。その前後に啄木の思想は幸徳秋水の諸著に触れて大飛躍を遂げて行くのである。

啄木はインクの色を変えるときに、水を含んだスポンジでペン先の現使用中のインクを拭きとって、別のインクをつけたらしい。だから「呼子と口笛」の赤いタイトルの初めの字には黒インクがまだ残っていたりする。

したがってスポンジについている黒や赤のインクは、その分だけインクの色を変えたこと(つまり新しい着想が浮かんだのでその着想を実行したことなど)を示しているのである。ある時期の思索や試行の印なのだ。

しかしスポンジは「堅くかわいて」いる。このところずっとあることに集中してインクを変えることなど思いも及ばない時間をすごしてきたことを表す。作歌時期を考えると「我等の一団と彼」の執筆に没頭して黒インクばかりを使い、スポンジに水を含ませる必要が無かったと言うことになる 。

<訳>このところ小説「我等の一団と彼」の執筆と秋水著の読書に熱中して、この海綿を使うこともなかった。じっとして、黒と赤のインクを吸い込んでやがてすっかり乾いてしまった海綿を、このところの嵐のような日々を思いながら見ることだ。

海綿を見る自分に最近の心のドラマを見ている歌。36、37ページの見開きのモチーフはある行為の中に映る心のドラマ、とでも言えようか。

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コメント

大変面白く読みました。特に啄木の黒インク、赤インクの使い分けなど興味深く、「このところ小説「我等の一団と彼」の執筆と秋水著の読書に熱中して、この海綿を使うこともなかった」という先生の解釈、面白いと思いました。この解釈を読んでいますと、「しつとりと」の海綿もやはり机の上の海綿ではないのかなと思えて来ました。水を吸ってる海綿は啄木が机に向かい何かを書いている状態を表し、その時の心のたゆたいのような重さ、などという解釈は無理でしょうか。

S・S様 お心のこもったコメントありがとうございました。「しつとりと」の海綿もやはり机の上の海綿ではないか、との疑問私も湧きました。ただ「しつとりと」の歌は水を吸った海綿の重さを掌上で確かめたことを感じさせます。また机上の海綿は小さい器に入った小さい海綿と思われます。水を吸わせるときは器ごと水のあるところに持って行って注ぐか、鉄瓶などに入っている水を差したのだと思われます。とすると、別の海綿かな、となります。100年前のペン先を拭う海綿を入れておく器についてお分かりになったらぜひご示教ください。

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