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2010年6月

2010年6月27日 (日)

何すれば

    

     何すれば

     此処に我ありや

     時にかく打驚きて室を眺むる

<ルビ>何=なに。此処=ここ。打驚き=うちおどろき。室=へや。
<語意>なにすれば=え、どうして。打驚きて=びっくりして。

作歌1910年(明43)7月26日夜。初出東京朝日新聞同年8月4日。

「かうしては居られずと思ひ」(5月23日)のブログに書きましたが、啄木には常人を遙かに超える空想癖がありました。そのブログの

「羞(はずか)しくて言えない言えない」と尻込みしてから話したのは(以下略)、の略した分を書きましょう。

 丁度桂首相が大命を拝して閣員を物色しつつある最中の頃の事であつた。なぜか自分に今にも桂首相から 使が来る様な気がしてならず、その間にたうとう使が来て、その次にはもう衆議院の大臣席に眉をあげて 自分が内務の施政方針を演説してゐた。其所へ私が突然障子をあけたといふのであつた。或時は又自分で 東洋の歴山大王に成り済まし、自ら皇太子軍を督して父王と世界の征服に出かけた。可笑しい事には東方 から南北二道に分れて、父王は天山南路から、自分は印度の大広原に馬を進めて、それから西の方欧羅巴 を席巻した、其の帰るさ、不幸、父王の陣歿に遭ひ、自ら三軍を希臘のオリンプス山上に会して一場の演 説をした。そして最後に「あとは世界を挙げてお前たちにやるから、どうでも勝手にしろ」と云ひすてて 突然民衆の中へ姿を没した、その刹那に私が障子を明けて其れを醒まして了つたといふ事であつた。

以上はおそらく1908年(明41)の思い出だろうと思われますが、作歌時にも同様の空想はあったのでしょう。空想の内容は激変しているはずですが。掲出歌を作ったのが7月26日夜、翌27日朝に作った歌にこんなのがあります。

 ことさらに灯火を消してまぢまぢと革命の日を思ひつづくる

「打驚きて室を眺」めた時までに空想していたのはこんな所でしょう。空想の源になったのは当時読み直していたクロポトキン著・幸徳秋水訳『麵麭(パン)の略取』。

<解釈> (クロポトキンを読んで革命の日をまじまじと空想してしまい、急に空想から現実に戻った時など自分の今いるところが分からなくて)え、どうしてここに自分がいるんだ? と時にはびっくりしてぼくは自分の部屋を眺めるのだ。

2010年6月24日 (木)

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ  その2

     友がみなわれよりえらく見ゆる日よ  その2

逆転の発想が必要です。従来は、友がみな自分よりすぐれて見えるから、啄木が落ちこんだと解釈してきました。逆です。啄木が落ち込んだので、友が自分よりすぐれて見えるのです。

「えらい」の意味も立身出世は関係なく、〈りっぱだ〉という一般的な意味です。

どうして落ち込んだのか。大きく2つ考えられます。

1、歌集「仕事の後」の売り込みに失敗した(明43年4月)、今度こそと自信をもって執筆した小説「我等の一団と彼」もまた失敗に終わった(同年9月)、「所謂今度の事」がボツになった、「時代閉塞の現状」も掲載不可だったなど。
2、大逆事件への人並みはずれた関心、たった一人の韓国併合批判など、あまりに先んじた時代認識に自分が異端で「友はみな」正統、のような倒錯した気持ちになった、など。

「どんよりと その2」でも書きましたが、作歌の10月13日とは次のような日です。
10月4日から12日までの間に240首もの秀歌を作ってきれいに編集し『一握の砂』はほぼできあがっていたはずなのに、啄木は13日になってまたしても26首も作り『一握の砂』の原稿を再編集します。「我を愛する歌」には明治41、42年の歌が多く、43年の歌の比重が比較的大小さいので、43年10月現在作の比重を大きくしようとしたのです。掲出歌はそのうちの1首です。

9月上旬に「時代閉塞の現状」を書き上げた啄木は、間もなく朝日歌壇の選者にもなり、今『一握の砂』完成の直前にいます。10月13日は啄木の文学上・思想上の絶頂期です。

歌の内容が作歌時に近接していれば2の公算が大きく、離れているほど1の公算が大きいでしょう。

1首の解釈のためにどちらかにしぼりこむ必要はないでしょう。啄木にも落ち込んで友達がみんな自分よりも立派に見える日があった、それが分かればいいことです

<解釈>(ひどく落ち込んでいるので)普通に生活している友がみなかえって立派に見える日よ。(そういう日は友とは一緒にいたくないし会いたくもない。)花を買い求めて家に帰り、妻と花を愛でて睦まじく過ごすのだ。

この歌のようなことは年齢性別時代等を問わず誰もが経験していることと思われます。

予備校に入って来年の晴れの志望校合格を目指して横一線に並んだはずの友。最初の模擬試験で自分は惨憺たる成績。がっくり来た途端に「友がみなわれよりえらく見」える。友を避けて家に帰る。母と顔を合わせるのもつらい。そこで近所の少年のキャッチボールの相手をする、とか。

突然リストラされた人にとっては、リストラされない同僚(=友)がみな突然「えらく」見えるでしょう。同僚のだれとも顔をあわせたくない。家に帰って妻になんと言おう。とりあえずケーキを買って帰ると幼子が腕の中に飛び込んできた。抱きしめてそれからケーキを食べさせて……

66ページの2首は、環境変化に救いを試みる心、をうたっています。

2010年6月20日 (日)

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ  その1

     友がみなわれよりえらく見ゆる日よ

     花を買ひ来て

     妻としたしむ

作歌1910年(明43)10月13日夜。初出『一握の砂』。

木股知史氏がこの歌の簡潔な評釈史を書いておられます(木股知史・藤沢全・山田吉郎『一握の砂/黄昏に・収穫 和歌文学大系77』〈明治書院、2004年〉の「一握の砂」補注七)。矢代東村・渡辺順三・橋本威・岩城之徳・今井泰子・本林勝夫・太田登・寺山修司の評釈そして与謝野鉄幹の詩人意識までを引いての考察は重厚です。これらを踏まえた氏ご自身の評釈は以下のようです。

立身出世を基本倫理とした明治社会で、友はみなそれぞれしかるべき地位を得ているように見える日、自分はそうした軌道からはずれた生き方をしているが、花を買ってきて妻と親身な会話をかわす。敗残の気持ちを妻によって慰撫するととらずに、世俗的栄達よりも、妻との親和という日常のほうが価値があるという思想の表明の歌と理解したい。

まず事実の問題から行きますが、啄木の友で立身出世した者はまだいません。盛岡中学時代の友人は「友はみな或日四方に散り行きぬ/その後八年/名挙げしもなし」(103ページ左)と啄木自身が歌っているとおりです。北海道の友は「こころざし得ぬ人人」(176ページ右)ばかり。

考えられるとすれば文学上の「友(特に作家)」ですが、それはどうか。

当時の啄木は短歌に関しては自信をもっていました。与謝野晶子、前田夕暮、若山牧水、吉井勇、北原白秋、土岐哀歌等々を評価し彼らからよい影響も受けていますが、かれらが自分より「えらく見ゆる日」など考えられません。ただひとり詩人としての白秋には一目置いていましたが。

啄木がこの時期に敵わないと認めるのは小説家だけです。

しかし「明治四十四年当用日記補遺」に明治43年の事として次のように書いています。

  文学的交友に於ては、予はこの年も前年と同じく殆ど孤立の地位を守りたり。   

  一はその必要を感ぜざりしにより、一は時間に乏しかりしによる。

これで見ると(この時期にはほとんどいない)作家の友人たちでもないでしょう。

こうして「友がみな」消えてしまいました!

では「友がみなわれよりえらく見ゆる」とはどういう事か、という問題があらためて浮上して来ます。

村上悦也さんの労作に『石川啄木全歌集総索引』(笠間書院)があります。助詞の「の」や「を」を含む全語彙の索引があります。『一握の砂』『悲しき玩具』を研究する上で非常に有用な本です。今「友」を検索すると58箇所に出てくることが分かりました。これらを参考に啄木の「友」の概念を抽出すると「縁あって浅からぬ関係をもっている(あるいはもった)ほぼ対等の立場の人」となります。師弟関係での師や職場で上下関係にある上司は含みません。もっとも小樽日報社で啄木が社から追い出した主筆の岩泉江東や啄木を殴って啄木を社から追い出した事務長小林寅吉のことは「友」と呼んでいます(187、192ページ)。

こうなると掲出歌の「友」は職場の同僚、遊びに来たあるいは音信のある渋民盛岡時代・北海道時代の友、東京の文学仲間などみんなということになります。

2010年6月17日 (木)

あたらしき心もとめて

     

     あたらしき心もとめて

     名も知らぬ

     街など今日もさまよひて来ぬ

作歌1910年(明43)8月3日夜-4日夜。初出東京朝日新聞同年8月14日。
『一握の砂』の前身である「仕事の後」を編集するためにこの2夜で24首作りました。「仕事の後」はこの4月にも1度編集し、売り込みに失敗しています。しかし妻節子の出産費用(10月上旬予定)捻出のために再挑戦しています。4月以来新短歌創造にめざましい働きをしてきた啄木ですから、今度は売れるでしょう。

この2夜に作った歌には傑作が多く、『一握の砂』に19首(改作分も含む)採録されます。採録されなかった歌にこんなのがあります。

 木のみうる店に日をへてしなびたる木の実の如き心をうとむ

 かくすべき事なしかくもかくすべき事なきが日頃さびしくなりぬ

なぜこんな心境になっているのか。作歌事情をあまり考えない従来の解釈方法だと、啄木の気質などに帰せられます。しかし作歌の8月3-4日を考察するとこんな事情が浮かんできます。すでに書いたように(「なにもかも行末の事みゆるごとき その2」参照)7月26日頃に「所謂今度の事」が新聞掲載不可と決まりました。啄木の知力と文章力の限りを尽くして書いたものが、人の目に触れることが許されないのです。しかも2年前から始まった自然主義的文学作品への弾圧また弾圧。それに押し被さって大逆事件発覚後の6月初めからの言論封殺。時代は息苦しさのどん底です。

8月7日に東京毎日新聞に載った「紙上の塵(文壇の人気沈滞の事)」に啄木はこう書いています(原稿執筆は作歌直後の5日頃でしょう)。

○自然主義か! 君の話は矢つ張りまだ其奴(そいつ)か? もう彼是(かれこれ)五年越だよ。
○それは戯談
(ぢやうだん)だがね。然しどうも此頃文壇の人気もパツとしないぢやないか、梅雨(つゆ)が明けたと云ふ今日此頃を。
○梅雨に成つて、煙草が湿ると気も湿つて来るよ。つまり理智の眼が疲れて、独手
(ひとりで)に瞼(まぶた)が合ひさうになつて来たんだね。見給へ、何方(どつち)を向いても気の無い面(つら)ばかりぢやないか。なに、陽気な奴もある? あ、例の彼の文学的迷信家の連中か?
○然しこれで可いね。吾輩はさう思つてるよ全くこれで可いね。高が二三年しか生命の無い天才なんか飛び出してくれるより、この儘の方が余つ程可いね。さうして此沈滞は成るべく長く続いてくれた方が可いね。
○何故つてさうぢやないか。周囲
(あたり)が静かになると各自(めいめい)何か考へるだらうぢやないか。ぢつとして皆で考へてみるんだね。さうするとまた何うか成つて行くよ。何を? 戯談ぢやない、それを聞く馬鹿が有るもんか。う? さうさ、ナショナル・ライフの問題も其一つかも知れないね。

「ナショナル・ライフ」は大逆事件の隠喩です。自然主義弾圧と大逆事件後の文壇逼塞(ひっそく)の様が手にとるようです。

<解釈>(政府の無体な弾圧が招いた文学界・思想界の異様な沈滞情況。わたしも言葉を奪われ心がしなびてしまいそうだ。家にいるのも息苦しい。わが心を蘇らせてくれるところはないか。こうして)心の新生をもとめ、名も知らぬ街を今日もさまよった来た。

2010年6月13日 (日)

人間のつかはぬ言葉

     

     人間のつかはぬ言葉

     ひよつとして

     われのみ知れるごとく思ふ日

初出は『一握の砂』。したがって作歌は同年10月4日~16日。

ある日突然動物の言葉が分かるようになり、動物のしやべるのが聞こえてくる、といった内容の童話や民話は洋の東西を問わずたくさんあったような気がしますが、それは何であったか。宇野浩二の小説に雄鶏が雌鶏に向かって「よっく聞け、おれはあんなだらしのない男じやないぞ。」と怒鳴るのを、そのだらしのない男が聞き分け、自分の考えを変えたというのがあったように思いますが。あれは何という作品だったか。60年近く前に読んだ記憶があります。

ところでわれわれがヒンズー語を「知っている(=知れる)」という場合、それはヒンズー語を耳で聞いて分かるというだけでなく、話すことなどもできることを意味するでしょう。

だから歌の「知れる」は「(動物語を)聞き分けられる」というのとはちがいます。

啄木は、「われのみ」は「人間のつかはぬ言葉」を「知れる(=知っている)ごとく」とうたっています。
「人間のつかはぬ言葉」をもし知っているとすれば、その人は人間であると同時にその言葉をつかう存在→人間以外の存在それも動物ではなく人間を超えた存在でもあることになります。岩城之徳氏はその存在を「たとえば神」と言っていますが、示唆的です。

ここで思い出したことがあります。啄木は1901年(明34)1月号の「太陽」に載った高山樗牛の評論「文明批評家としての文学者」を中学3年の1月に読み、これに傾倒します。

「文明批評家としての文学者」で樗牛が説いた内容の1つにニーチェの超人(ユーベルメンシュ)」の思想があります。樗牛は「超人」と「天才」を同一意義として熱烈にこれを賞揚します。以後1908年(明41)4月の(北海道からの)上京まで、啄木はその影響(とくに天才主義)から抜け出せず苦しみました。

1908年(明41)3月啄木はエッセー「卓上一枝」で釧路新聞にこう書きます。

進化論を是認する者は、啻(ただ)に過去に於ける進化を是認するに止まらずして、又当(まさ)に未来に於ける進化をも是認せざるべからず。猿猴(えんこう)の化して人類となる事或は望むべからざらん。然も人間が人間以上たらんとする希望は、如何なる力を以てしても之を滅却する事能(あた)はじ。然らば即ち、吾人がニイチエと共に超人の理想に行くも何の不可かあらん。

これを読むと啄木はこのエッセーの頃までは、人間が「進化」して「人間以上」になった存在としての「超人」を夢想していたようです。人間は「猿」から進化してきて「猿」語は使わなくなっていますから、人間から進化した「超人」はもはや人間語を使わないのでしょう。きっと今の「人間のつかはぬ言葉」を使っているのでしょう。

掲出歌はこうして「超人」を導入することで解釈可能になりました。その場合「われのみ知れるごとく思ふ日」の後ろを補うのは「(思ふ日)がある」ではなく、「(思ふ日)があった」でしょう。

<解釈>人間の使わぬ言葉すなわち超人の言葉を、ひょっとして、私だけが(超人なので)知っているかのように思う日があったものだ。(その頃は自分もニーチェのいう超人を妄想していたので。)

64、65ページの見開きは、孤独からの脱出願望一変身願望→気分転換の試み→超人の妄想、となりました。「別の自分を求める心」の歌々とくくることができるでしょう。

2010年6月10日 (木)

いつも睨むラムプに飽きて

     いつも睨むラムプに飽きて

     三日ばかり

     蠟燭の火にしたしめるかな

<ルビ>睨む=にらむ。蠟燭=らふそく。

初出は『一握の砂』。したがって作歌は同年10月4日~16日。

わたくしのもっとも好きな現代詩人茨木のり子さんはエッセー集『一本の茎の上に』(筑摩書房、1994年)で「ものに会う ひとに会う」という文章を書いています。ソウルの「阿園工房(アウオンコンバン)」という店で気に入った燭台を買います。その店は魅力的な廬(イ)さん姉妹が製作・経営しています。このときに買った燭台をめぐって書かれた次のようなくだりがあります。

「昔ながらの蝋燭の灯は、ひとを落ちつかせる何かがあるようで、レストランでも夕食時には電気を消し、蝋燭の灯りだけで食べさせる店も多い。」
「これを書いている今、電燈を消して、買ってきた燭台に火を点じてみる。炎をみつめていると、廬姉妹のたたずまいが手の届きそうな近さでよみがえってくる。」

啄木が大好きだったらしい茨木さんですから、掲出歌を念頭においていたのかも知れません。

啄木は「真白なる……笠」のついた卓上ランプを使用していました(テキスト222ページ左、273ページ左)。そして原稿を書きながら、歌を作りながら、朝日歌壇の選をしながら、時に仕事の手を休めてそのランプを見つめつつ思索するくせがあったようです。この歌の内容が作歌の時期と近いなら、その時期の啄木の仕事ぶりは、2つ前のプログ「誰が見ても」でその片鱗に触れましたが、真に超人的でした。

かれの超高速・超高感度の頭脳も働きすぎて、過労・過敏状態になったでしょう。ランプを消して蝋燭に火を点じ、炎をみつめ、過労・過敏状態の頭脳を落ちつかせていたのではないか、と想像されます。

<解釈>いつもは、仕事の手を休めてはランプを見つめものを考えるのだが、そのやり方に飽きが来て、3日間ほどは気持ちの落ちつく蝋燭の炎に親しんでいることだ。

気分転換の歌です。自分の現状からの変化の願望に関わるという点で、前2歌と通底しています。

2010年6月 8日 (火)

うすみどり

     

     うすみどり

     飲めば身体が水のごと透きとほるてふ

     薬はなきか

<語意>てふ=という(読み方は、ちょう)。

初出は「スバル」1910年(明43)11月号。したがって作歌は同年10月4日~16日。

上田博氏は「透明人間願望の歌である。イギリスの田舎町の物理教師が薬品によって変身する話、H・G・ウェルズのSF小説『透明人間』がすでに一八九七年(明30)に現われ、世界中の人びとに異常な空想を与えていたことを、歌意の理会のために想起しておいてよい」と指摘しています。

まだ邦訳されてはいないまでも、透明な人間の物語がイギリスで読まれている、くらいのことを啄木は耳にしていたかも知れません。

木股知史氏はつぎのように書います。「透明になることは、<見られる自己>を消滅させるという願いを意味している。前歌(64p右の歌)では、他者との関係を求めながら、この歌では、他者のまなざしからの自由を希求している。『うすみどり』と『透きとほる』が呼応して、空想にふさわしい軽く明るいイメージを作っている」と。

<解釈>うすみどりで、それを飲むと身体が水のように透きとおるという薬はないものか。あればしばしの間透明人間を楽しめるのだが。

この歌と前の歌とは、木股氏の言われるような関係にあると同時に、自分の現状からの変化の顧望という点では、通底の関係にあります。

2010年6月 3日 (木)

誰が見ても

     

     誰が見ても

     われをなつかしくなるごとき

     長き手紙を書きたき夕

<ルビ>誰=たれ。夕=ゆふべ。

<64ページ右から67ページ左までの8首分は、以前事情があって先に原稿をつくりました。したがって文体・形式は元に戻ります。>

<語意>見ても=読んでも。なつかしく=親しみたく。
初出は「スバル」1910年(明43)11月号。したがって作歌は同年10月4日~16日。
作者は今、だれかれの区別なく多くの人が自分に親しみをもってほしいと願っていいます。逆に言うと、かれは今孤独の中にあります。
しかし1910年10月前半の啄木が、俗な意味での孤独のなかにいるはずがありません。職場ではその才能が認められ、「一日ゆつくり寝てみたいといふ外に希望がない」という忙しさ(郁雨宛書簡10月20日)。朝日歌壇の選者にも抜擢され、その歌壇は「莫迦に景気が」よく(郁雨宛書簡10月4日)投稿が相継いでいます。かれ自身にも名歌・秀歌は湧くがごとくに生まれています。生涯でもっとも充実した時期を生きています。
したがってかれの孤独は、普通の人のような孤独ではないことになります。10月13日につくった26首の歌が歌稿ノートに記されていますが、その最後につぎの2首があります。

人がみな恐れていたく貶す(おとす)こと恐れえざりしさびしき心

雄々しくも死を恐れざる人のこと巷にあしき噂する日よ

1首目の上3句は日本人のほとんどすべてが恐れ、悪く言う(貶す)明治天皇暗殺計画発覚事件(大逆事件)を指しています。ところがかれは人々とはまったく逆の評価をしています。だから「さびしき心」つまり孤独の中にいる、とうたいます。
2首目の「雄々しくも死を恐れざる人」は幸徳秋水を指しています。1首目と同様の孤独を感じています。(くわしくは小著『啄木短歌に時代を読む』の「幸徳秋水の闘い」参照)
つまり啄木は先覚者のおそろしいほどの孤独の底にいるのです。だからこそ、多くの人につながりたいと夢想します。
孤独からの脱出願望、これが掲出歌のモチーフと思われます。

<解釈>(わたしは大逆事件をめぐってほとんどすべての日本人とは逆の評価をしている。そのため孤独の底に沈んでいるような気もする。そこで)誰が読んでもわたしと親しくなりたいと思ってくれるような長い手紙を書きたいと夢想した。もしそんなことができるなら、たくさんの人とのつながりができて、この孤独から脱出できるのに。そんな気のする夕方だ。

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