« あたらしき心もとめて | トップページ | 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ  その2 »

2010年6月20日 (日)

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ  その1

     友がみなわれよりえらく見ゆる日よ

     花を買ひ来て

     妻としたしむ

作歌1910年(明43)10月13日夜。初出『一握の砂』。

木股知史氏がこの歌の簡潔な評釈史を書いておられます(木股知史・藤沢全・山田吉郎『一握の砂/黄昏に・収穫 和歌文学大系77』〈明治書院、2004年〉の「一握の砂」補注七)。矢代東村・渡辺順三・橋本威・岩城之徳・今井泰子・本林勝夫・太田登・寺山修司の評釈そして与謝野鉄幹の詩人意識までを引いての考察は重厚です。これらを踏まえた氏ご自身の評釈は以下のようです。

立身出世を基本倫理とした明治社会で、友はみなそれぞれしかるべき地位を得ているように見える日、自分はそうした軌道からはずれた生き方をしているが、花を買ってきて妻と親身な会話をかわす。敗残の気持ちを妻によって慰撫するととらずに、世俗的栄達よりも、妻との親和という日常のほうが価値があるという思想の表明の歌と理解したい。

まず事実の問題から行きますが、啄木の友で立身出世した者はまだいません。盛岡中学時代の友人は「友はみな或日四方に散り行きぬ/その後八年/名挙げしもなし」(103ページ左)と啄木自身が歌っているとおりです。北海道の友は「こころざし得ぬ人人」(176ページ右)ばかり。

考えられるとすれば文学上の「友(特に作家)」ですが、それはどうか。

当時の啄木は短歌に関しては自信をもっていました。与謝野晶子、前田夕暮、若山牧水、吉井勇、北原白秋、土岐哀歌等々を評価し彼らからよい影響も受けていますが、かれらが自分より「えらく見ゆる日」など考えられません。ただひとり詩人としての白秋には一目置いていましたが。

啄木がこの時期に敵わないと認めるのは小説家だけです。

しかし「明治四十四年当用日記補遺」に明治43年の事として次のように書いています。

  文学的交友に於ては、予はこの年も前年と同じく殆ど孤立の地位を守りたり。   

  一はその必要を感ぜざりしにより、一は時間に乏しかりしによる。

これで見ると(この時期にはほとんどいない)作家の友人たちでもないでしょう。

こうして「友がみな」消えてしまいました!

では「友がみなわれよりえらく見ゆる」とはどういう事か、という問題があらためて浮上して来ます。

村上悦也さんの労作に『石川啄木全歌集総索引』(笠間書院)があります。助詞の「の」や「を」を含む全語彙の索引があります。『一握の砂』『悲しき玩具』を研究する上で非常に有用な本です。今「友」を検索すると58箇所に出てくることが分かりました。これらを参考に啄木の「友」の概念を抽出すると「縁あって浅からぬ関係をもっている(あるいはもった)ほぼ対等の立場の人」となります。師弟関係での師や職場で上下関係にある上司は含みません。もっとも小樽日報社で啄木が社から追い出した主筆の岩泉江東や啄木を殴って啄木を社から追い出した事務長小林寅吉のことは「友」と呼んでいます(187、192ページ)。

こうなると掲出歌の「友」は職場の同僚、遊びに来たあるいは音信のある渋民盛岡時代・北海道時代の友、東京の文学仲間などみんなということになります。

« あたらしき心もとめて | トップページ | 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ  その2 »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/533861/48652489

この記事へのトラックバック一覧です: 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ  その1:

« あたらしき心もとめて | トップページ | 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ  その2 »