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2010年6月17日 (木)

あたらしき心もとめて

     

     あたらしき心もとめて

     名も知らぬ

     街など今日もさまよひて来ぬ

作歌1910年(明43)8月3日夜-4日夜。初出東京朝日新聞同年8月14日。
『一握の砂』の前身である「仕事の後」を編集するためにこの2夜で24首作りました。「仕事の後」はこの4月にも1度編集し、売り込みに失敗しています。しかし妻節子の出産費用(10月上旬予定)捻出のために再挑戦しています。4月以来新短歌創造にめざましい働きをしてきた啄木ですから、今度は売れるでしょう。

この2夜に作った歌には傑作が多く、『一握の砂』に19首(改作分も含む)採録されます。採録されなかった歌にこんなのがあります。

 木のみうる店に日をへてしなびたる木の実の如き心をうとむ

 かくすべき事なしかくもかくすべき事なきが日頃さびしくなりぬ

なぜこんな心境になっているのか。作歌事情をあまり考えない従来の解釈方法だと、啄木の気質などに帰せられます。しかし作歌の8月3-4日を考察するとこんな事情が浮かんできます。すでに書いたように(「なにもかも行末の事みゆるごとき その2」参照)7月26日頃に「所謂今度の事」が新聞掲載不可と決まりました。啄木の知力と文章力の限りを尽くして書いたものが、人の目に触れることが許されないのです。しかも2年前から始まった自然主義的文学作品への弾圧また弾圧。それに押し被さって大逆事件発覚後の6月初めからの言論封殺。時代は息苦しさのどん底です。

8月7日に東京毎日新聞に載った「紙上の塵(文壇の人気沈滞の事)」に啄木はこう書いています(原稿執筆は作歌直後の5日頃でしょう)。

○自然主義か! 君の話は矢つ張りまだ其奴(そいつ)か? もう彼是(かれこれ)五年越だよ。
○それは戯談
(ぢやうだん)だがね。然しどうも此頃文壇の人気もパツとしないぢやないか、梅雨(つゆ)が明けたと云ふ今日此頃を。
○梅雨に成つて、煙草が湿ると気も湿つて来るよ。つまり理智の眼が疲れて、独手
(ひとりで)に瞼(まぶた)が合ひさうになつて来たんだね。見給へ、何方(どつち)を向いても気の無い面(つら)ばかりぢやないか。なに、陽気な奴もある? あ、例の彼の文学的迷信家の連中か?
○然しこれで可いね。吾輩はさう思つてるよ全くこれで可いね。高が二三年しか生命の無い天才なんか飛び出してくれるより、この儘の方が余つ程可いね。さうして此沈滞は成るべく長く続いてくれた方が可いね。
○何故つてさうぢやないか。周囲
(あたり)が静かになると各自(めいめい)何か考へるだらうぢやないか。ぢつとして皆で考へてみるんだね。さうするとまた何うか成つて行くよ。何を? 戯談ぢやない、それを聞く馬鹿が有るもんか。う? さうさ、ナショナル・ライフの問題も其一つかも知れないね。

「ナショナル・ライフ」は大逆事件の隠喩です。自然主義弾圧と大逆事件後の文壇逼塞(ひっそく)の様が手にとるようです。

<解釈>(政府の無体な弾圧が招いた文学界・思想界の異様な沈滞情況。わたしも言葉を奪われ心がしなびてしまいそうだ。家にいるのも息苦しい。わが心を蘇らせてくれるところはないか。こうして)心の新生をもとめ、名も知らぬ街を今日もさまよった来た。

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