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2010年6月10日 (木)

いつも睨むラムプに飽きて

     いつも睨むラムプに飽きて

     三日ばかり

     蠟燭の火にしたしめるかな

<ルビ>睨む=にらむ。蠟燭=らふそく。

初出は『一握の砂』。したがって作歌は同年10月4日~16日。

わたくしのもっとも好きな現代詩人茨木のり子さんはエッセー集『一本の茎の上に』(筑摩書房、1994年)で「ものに会う ひとに会う」という文章を書いています。ソウルの「阿園工房(アウオンコンバン)」という店で気に入った燭台を買います。その店は魅力的な廬(イ)さん姉妹が製作・経営しています。このときに買った燭台をめぐって書かれた次のようなくだりがあります。

「昔ながらの蝋燭の灯は、ひとを落ちつかせる何かがあるようで、レストランでも夕食時には電気を消し、蝋燭の灯りだけで食べさせる店も多い。」
「これを書いている今、電燈を消して、買ってきた燭台に火を点じてみる。炎をみつめていると、廬姉妹のたたずまいが手の届きそうな近さでよみがえってくる。」

啄木が大好きだったらしい茨木さんですから、掲出歌を念頭においていたのかも知れません。

啄木は「真白なる……笠」のついた卓上ランプを使用していました(テキスト222ページ左、273ページ左)。そして原稿を書きながら、歌を作りながら、朝日歌壇の選をしながら、時に仕事の手を休めてそのランプを見つめつつ思索するくせがあったようです。この歌の内容が作歌の時期と近いなら、その時期の啄木の仕事ぶりは、2つ前のプログ「誰が見ても」でその片鱗に触れましたが、真に超人的でした。

かれの超高速・超高感度の頭脳も働きすぎて、過労・過敏状態になったでしょう。ランプを消して蝋燭に火を点じ、炎をみつめ、過労・過敏状態の頭脳を落ちつかせていたのではないか、と想像されます。

<解釈>いつもは、仕事の手を休めてはランプを見つめものを考えるのだが、そのやり方に飽きが来て、3日間ほどは気持ちの落ちつく蝋燭の炎に親しんでいることだ。

気分転換の歌です。自分の現状からの変化の願望に関わるという点で、前2歌と通底しています。

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