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2010年7月

2010年7月31日 (土)

叱られて

     

     叱られて

     わつと泣き出す子供心

     その心にもなりてみたきかな

<ルビ>叱られて=しかられて。

作歌1910年(明43)9月9日夜。初出東京朝日新聞同年10月19日。

叱られたことと泣くことの間に、なんのおもんぱかりも挟まない子供の心。それは周囲への顧慮の一切ない率直な心の発現である。3行目はそんな心とは遠く隔たった自分を反省しつつ、その心への羨望を表明する。

この歌は9月9日夜の作であって、わたくしのホームページ「石川啄木著『一握の砂』を読む」に掲載の論文「韓国併合批判の歌 五首」のなかで、この歌に以下のようにふれてある。(なお、引いた4首は最初の赤インクグループの第3~6首である。)

 いらだてる心よ汝はかなしかりいざいざ少し欠伸などせむ
 叱られてわつと泣き出す子供心その心にもなりてみたきかな
 顔あかめ怒りしことが翌日はさほどにもなきをさびしがるかな
 何事も金々といひて笑ひけり不平のかぎりぶちまけし後

 1つのテーマで連作しようとするのではなく、思いつくまま、あるいは連想にも誘われて、「とぎれとぎれに」うたっている。しかしいらだつ心・子供とちがって屈折した心・つまらぬ事に怒る心、には通底するものつまり最近の心境ということがある。

わたくしがそこで「通底するものつまり最近の心境」と言ったのは、大逆事件・韓国併合・言論抑圧・発禁の嵐等の下で、表現の鬱積とともに鬱屈が募る一方という今の心境である。

7月「所謂今度の事」を書いてボツ、最近書いたばかりの「時代閉塞の現状」は掲載不可。ああ、この子のように心を率直に表せるならどんなに快いだろう! まさに「ダイナモの/重き唸りのここちよさよ/あはれこのごとく物を言はまし」だ。こんな心の姿をうたった歌である。

<訳>叱られてわっと泣き出す京子(満3歳と9ヵ月)の、周囲への顧慮など一切ない率直な心。そんな心持ちで、思うことをかのダイナモの重い唸りのように力強く、率直に表現したいものだ。

2010年7月27日 (火)

人いふ人のこころに

     

     人といふ人のこころに

     一人づつ囚人がゐて

     うめくかなしさ

作歌=1910年(明43)8月28日。初出『一握の砂』。作歌時の最初の形は「人といふ人の心に一人づゝ良平がゐて常にうめけり」で、それをのちに掲出歌の形(一行書き)に推敲した。

「囚人」は何を意味するのだろう。管見に入ったこれまでのどなたの解釈にも納得できない。

「それ」は誰の心の中にもあって、誰もが「それ」を押さえ込んでいて、押さえ込まれた「それ」は表に飛び出したくてうめいている。そういう「それ」は1つしか考えられない。利己心である。

「利己心」は自我に目ざめた盛岡中学校4年生あたりから、作歌時の今に至るまで啄木をほとほと困らせている。24ページ右、26ページ左にそれをうたう歌をすでに見た。「明治四十三年歌稿ノート」によると10月13日ころにもまた「何よりもおのれを愛し生くといふさびしきことにあきはてにけり」とうたっている。

利己心は自己保存という動物の本能に起源を持つので、人間という動物にあっても他のどんな心よりも本源的である。食欲も性欲も命欲しさも死の恐怖も金銭欲も名誉欲も自己保存の本能に発しないものはない。利己心はこの本能の人間的表現である。だから誰の心にもある。しかし人間社会では利己心は自制を求められる。誰もが自分の利己心を押さえ込んでいる。押さえ込まれた本能は表に飛び出したくてうめく。

<訳>およそ人間であるかぎり誰もが持っているエゴは、野放図に表面化しないよう社会と自分自身によって心の奥に押し込まれている。表に飛び出したいと、囚人のようにうめくエゴのどうしようもない切なさ。

岩城之徳氏はこの歌の最初の形にある「良平」に着目し、これは徳富蘆花の小説「寄生木」の主人公篠原良平であろうか、と言われた。一考に値する着眼である。そこで岩波文庫版の古本『寄生木』全3冊を注文した。これを読み終わると掲出歌の解釈はいっそう正確になるかも知れない。

68、69ページの見開き最初の2首は、居どころの無さをうたい、3首目は例の起承転結の「転」に相当する歌で日常の居どころからの脱出願望、4首目は利己の心の居どころの無さをうたう。

2010年7月24日 (土)

何かひとつ不思議を示し  余談

     

     何かひとつ不思議を示し  余談

1967年(昭42)10月だっただろうか。私は北星学園余市高校の教師であった。修学旅行の生徒を引率して東京の旅館に来ていた。夜になると男生徒どもは、見回りに来る教師を「フトン蒸し」にしようと盛り上がっていた。

教師の1人の伊藤英博さんは元警視庁第三機動隊の隊員・柔道4段・体重90キロの猛者だった。部屋は大部屋だった。十数人の髙2の男ども(私のクラス)が一斉に飛びかかった。

伊藤先生は強かった。文字通りちぎっては投げちぎっては投げ、足にしがみついてきたクラス屈指の力持ちを、しがみついた格好のままボイーンと足で放り飛ばした。生徒どもはそのうちに呆れてしまい、蒸すのをあきらめた。ははあ、このつぎは私を蒸しにくるな、とその時覚悟した。

しばらくしてその部屋に見回りに行った。部屋の真ん中で「早く寝ろよ」と声をかけた途端に誰かが「電気を消せ」と叫んだ。一斉に飛びかかってきた。その頃の私は剣道も居合も現役だったから、1人か2人の生徒を暗闇で投げるか転ばすかして、飛びかかってくる群れをくぐり抜け、床の間に上がった。そしてドスンバタンを見物していた。そのうち「やめれ! 誰かケガしたぞ! 電気つけれ!」という叫び声があがった。男どもの下からいつもは元気なNが口のあたりを両手で押さえてよろよろ立ち上った。「あれ!先公は?」 生徒どもはおどろいた。

わたしは床の間の柱に寄りかかって笑っていた。生徒どもは2度おどろいた。「バカめ」と言いながらそこを降り、群れの中に入っていった。そこで逃げると襲いかかってくるのは必定だ。敢えて群れの中に入った。「もう寝ろ」と言ってヤツらの真ん中を突っ切り、廊下に出た。今思い出しても笑ってしまう楽しい思い出である。生徒どもはふたりの教師の布団蒸しに失敗しておとなしく寝た。

27歳の伊藤さんの武勇伝と28歳の私の「人みなのおどろくひまに消え」た話である。

後日談がある。その時泊まった旅館は本郷の高木旅館だった。その頃の私は完全に無知だったが、実はすぐ近所に啄木の住んだ喜之床(新井方=本郷弓町2-17)があるのだ。あのときなら、区画整理前の啄木在住時の位置関係に建つ喜之床が見られたのに。こんな私が啄木を研究するようになるなんて。

今でも人を案内してバーバーアライの前に立つと、あの横通りの奥に高木旅館が見える気がするのである。

2010年7月21日 (水)

何かひとつ不思議を示し  

     

     何かひとつ不思議を示し

     人みなのおどろくひまに

     消えむと思ふ

<言葉>不思議=よく考えても原因・理由のわからないこと。ひま=すき。(消え)む=(消え)たい。

初出『一握の砂』。作歌は1910年(明43)10月4日~16日。

「消えむ」の解釈がカギ。「消える」をこの世から消えるの意味に解する向きもあるが、文脈からすれば「人みな」の前から消える、のである。

「不思議」はどんな種類の「不思議」でもいいらしい。それも「ひとつ」でいいと言う。ともかくその場にいる「ひとみな」があっと驚くようなことであればいい。それでも啄木の言う「不思議」を具体的に知りたいと思うが、不可能だろう。

「消えむと思ふ」は、消えたいものだと思う、の意。「消え」た時何が起こるのか。「ひとみな」が再度おどろくのである。どうやって「消えて」どこへ行くのか。そんなことは当人にも分からないだろう。いたずら好きの啄木だから、「ひとみな」が驚き騒ぐのを透明人間にでもなって見ていたいのではないか。

こう空想する啄木は相変わらず「ひとみな」→いつもと同じ人間関係、の中に暮らしている。「消える」ことはできない。

<訳>なんでもいい何か1つ不思議なことを人々に見せてその場にいるみんなが驚きさわいでいる隙に、姿を消してみたいもんだ。ぼくが消えたので人々は2度驚くだろう。姿を消したぼくはその騒ぎを見て楽しんだりして。(やれやれ、現実のぼくはいつもと同じ人間関係をのがれられないよ。)

次回は掲出歌余談です。

2010年7月17日 (土)

人みなが家を持つてふかなしみよ  その2

     

     人みなが家を持つてふかなしみよ  その2

参考までに家出と関連させて、この歌を読んでみよう。

前歌の評釈で郁雨あての手紙を引いたが、母と妻子が郁雨に付き添われて上京したのは、この手紙を書いた時から約3週間前にさかのぼった6月16日であった。函館での姑と嫁と京子の3人暮らしの約1年間は2人の間を険悪にした。節子の心は啄木を離れ、郁雨に傾いた。そのことも嫁姑の確執の原因の1つになったのではないかと、推測される。2人の上京・同居後啄木は確執をあつかいかねて、母と妻の双方をとがめた。心が啄木から離れていた節子は、10月2日家出して盛岡の実家に戻った。実家では郁雨と10月26日に結婚する予定の妹ふき子がその日を待っていた。

妻家出の日の啄木の様子を金田一京助はこう記す(『石川啄木』〈文教閣、1934年〉209~212ページ)。

 『かかあに逃げられあんした』と頭を掻いて、坐ったなり、惘然(ぼうぜん)として、すぐには、あとの口を利かなかった……やがて君が、重い口調で、しみじみと始めて母堂と(妻と)の不和のいきさつを詳しく話し、『あれ無しには、私は迚(とて)も生きられない』と自白し、焦燥と悲歎と懊悩(あうなう)を搗(つ)き交ぜて……

自分のもとに戻ってくるよう、妻宛に手紙を書いてくださいと金田一に懇請した。妻の返事が来るまでの啄木の懊悩は大変だった。金田一は記す。
 
 何でも、食べ物も咽を通らず、食べなくっても腹も空かず、……夜中になって、迚
(とて)もやり切れなくなっては、『お母さん酒だ、酒が無いか』と怒鳴ると、おどおどして腰の曲ったおっ母さんが、起きて危い、真暗な、急な梯子を降りて、……通りの酒屋を……叩き起して、何れ、泣くようにして頼んで、貧乏徳利を下げて帰ると、石川君はそれを、冷のままで、飲めもしないのに、がぶがぶあおって、酔の上で『おっ母さんが追ん出したも同じだから、おっ母さんが連れてお出で』などと、駄々を捏ねて泣かせ、おっ母さんの泣き声を聞いて吾に返っては又がぶがぶあおる。
 
 十月七日にまた、葉書で私へ、『……帰るでせうか。帰らぬでせうか。私には新しき無言の日が初まりました。私はこの、一寸のひまもなく冷たい壁に向かつてゐるやうな心持に堪へられません。然しこの心持をそらすやうないかなる方法もとりたくありません。誰とも話はしたくないが、あなたには逢ひたい』とあった……

この日頃なら勤めに出ている毎日が「墓に入るごとく/かへりて眠る」日々だったであろう。そうすると前歌もこれに関連させて読むことができるというわけである。

2010年7月13日 (火)

人みなが家を持つてふかなしみよ  その1

     

     人みなが家を持つてふかなしみよ

     墓に入るごとく

     かへりて眠る

<ことば>てふ=という(読み方は、ちょう)。

作歌1910年(明43)10月13日夜。初出「精神修養」同年12月号。

この歌は前歌を受けていると考えられる。「夜明けまであそびてくらす場所」=「金」が無いので家に帰るしかない、とうたうのである。

1行目がむずかしい。人みなが家庭を持つ、これは制度である。この制度の下で苦しむのは旧民法時代の日本で広く見られた現象であるが、幸福な家庭もあったはずである。「人みなが家を持つ」ことが即「かなしみ」なのではない。「人みなが家を持つ」という制度なので自分も家庭を持っているのだが、そのために自分の場合には「かなしみ」が生じているというのである。

どうしてどんな悲しみが生じているのだろうか。やはり前歌と同様母と妻の確執であろう。せめて「金」→「夜明けまであそびてくらす場所」があれば帰らないこともできる。金がないので帰るしかない。

<訳>人がみな家庭を持つという制度から生ずるこの悲しみよ。家に帰りたくない。せめて「夜明けまであそびてくらす場所」にゆく金があれば帰らないこともできる。しかし金がないから帰るしかない。思うだけで心が冷たくなる家に、墓に入るような気持ちで帰って、蒲団に潜り込むのだ。

啄木の家庭がいつも前歌やこの歌のようであったとしたら、地獄であろう。啄木の心の姿が千変万化であるように、啄木の家庭の姿も千変万化であったということであろう。母と妻の確執がすごかっただけにこの両歌のような日もあったということであろう。

「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ」という日もあった。ひょっとすると掲出歌の「家」には妻も子もいなかったかもしれない。母1人しか待っていない「家」だったかも知れない。妻の家出という啄木にとっての大事件が『一握の砂』で全くうたわれていないのも不自然である。そう考えると68ページの2首は妻の家出をめぐる歌ということになりうる。

以下次回。

2010年7月 9日 (金)

夜明けまであそびてくらす場所が欲し

     

     夜明けまであそびてくらす場所が欲し

     家をおもへば

     こころ冷たし

作歌1910年(明43)10月13日夜。初出「精神修養」同年12月号。

68ページの2首は分かりやすいようでむずかしい。この2首に表れているような家庭の情況は作歌時に近い時期のこととは考えられない。10月4日から20日の間に書いた手紙が8通残っているが、作者と家庭の間にこのような関係を暗示するものは皆無である。10月4日大学病院産婦人科分室で妻が長男真一を出産。この日以後啄木の超人的に精力的な生活が始まる。11日には妻が退院してきたらしい。20日頃節子と真一の健康にかげりが出はじめるが啄木自身の忙しさは壮絶。

歌は作歌時よりもずっと前の時期の自分をうたったものと考えられる。10月13日、「我を愛する歌」の章における明治43年作歌の比重を増すために啄木は26首も新作し、章の補充をしたことはすでに述べた(どんよりと その2)。この際にも啄木は作歌のヒントを得るために日記を読み返している。この13日作の2首目に

神のごと遠く姿をあらはせる阿寒の山の雪のあけぼの

があるがこれは釧路時代の日記をヒントにした歌であると推定される。

10月13日夜の歌によまれた啄木の「心の姿」は当時の姿ばかりではなく、08年、09年のかれをうたったものもある。したがって掲出歌にうたわれた「心の姿」もいつ頃のものかを考えてみなければならない。

普通啄木が家=家庭のことで最も悩んだのは母と妻の確執とされる。1909年(明42)7月9日に宮崎郁雨にあてて書いた手紙にこんな箇所がある。
 
 それで僕の仕事の方はどうかと言ふと
、(小説が-引用者)書けぬ。毎晩書かう書かうと思つてるが書けぬ。下宿になれぬせいだらう。京子には手こずつてる。そしてそれ、御存知の通り感情の融和のちつとも無い家庭なんだからね。一昨晩だつたか、母と妻に散々小言を言つて見たが、それでも不愉快が消えツこはない。十時頃フイと飛出したが、浅草に行くにしても宿屋へとまるにしても金がない。こんな時金のないのが一番癪に障るよ。そして回数券だけはあるから一時間半許りアテなしに電車に乗つて方々廻つて歩いた。しまひに日比谷公園へ行つて、雨の降る真暗な中で小便して来た。

「金」を「場所」と置き換えると、まるで掲出歌の解説である。こころが冷たくなるような家とは、やはり母と妻の確執が始末に負えなくなった時の家、ととってよいであろう。

<訳>(母と妻の確執はもう手に負えない。)家に帰らずに夜明けまで遊んで暮らす場所が欲しい。家に帰ることを考えると、心が冷たくなる。

2010年7月 5日 (月)

人ありて電車の中なかに唾を吐く  その2

     人ありて電車の中なかに唾を吐く  その2

啄木は後者「貴婦人」に日本のある特徴的な側面を見ているようです。またここで論文を書くのはしんどいので、結論的に書きます。啄木はすでに「林中書」(1906年)の中でつぎのような意味のことを書いています。

「近代文明の特色は……人権の抑圧を否定して個人の自由を尚(たつと)ぶ点に存する。」
「立憲国」の日本人は与えられた自由を「衣服にして纏うふて居る」。つまり外見にまとっているだけで自分の思想としていない。
専制国家のロシア人は世界一不自由だがしかし自由を「深く腹中に蔵して居る」。つまり自分自身の思想としている。

日本と日本人の中身と外見の不均衡を啄木は早い時期から問題にしてきました。したがって啄木自身が東京朝日新聞で校正した夏目漱石の小説「それから」(連載1909年6月~12月)のつぎの叙述などからも深い影響を受けました。

 日本は西洋から借金でもしなければ、とうてい立ち行かない国だ。それでいて、一等国をもって任じている。そうして、むりにも一等国の仲間入りをしようとする。だから、あらゆる方面に向かって、奥行きをけずって、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じことで、もう君、腹が裂けるよ。

市電の中の「貴婦人」も着飾って上流階級ぶっているけれど、言動に顕れる内身は悲惨なくらいに貧弱です。啄木がこの貴婦人に漱石の日本観を想起したということは十分に考えられます。

こうして啄木が「貴婦人」に牛と競争して腹の裂ける蛙をすなわち「日本人の根本的運命」を観たということも考えられるわけです。

さて、掲出歌にもどります。「電車のなかに唾を吐く」人は「貴婦人」ほどにインパクトがあったわけではないでしょう。だから「心がいたんだ」ではなく「いたみそうになった」なのでしょう。しかしこのような
「市井の瑣事も亦、同様に日本人の根本的運命を語るものでなければならぬ」と啄木は言うのですから、ふたたび漱石の日本人観を引く必要があります。先の引用のつづきです。

その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見たまえ。こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、ろくな仕事はできない。ことごとく切りつめた教育で、そうして目の回るほどこき使われるから、そろって神経衰弱になっちまう。話してみたまえ、たいていは馬鹿だから。自分のことと、自分の今日の、ただいまのことよりほかに、なにも考えてやしない。考えられないほど疲労しているんだからしかたがない。精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にしてともなっている。のみならず、道徳の敗退もいっしょに来ている。日本国じゅうどこを見渡したって、輝いてる断面は一寸四方もないじゃないか。ことごとく暗黒だ。

「電車のなかに唾を吐く」にこの文中の「道徳の敗退」を観ている、ととるのはもう深読みかな?

ともあれ「それから」の以上のくだり(角川文庫版から引用)は、「時代閉塞の現状」執筆時にも詩集「呼子と口笛」製作時にも強い影響を示します。

<解釈>人がいて、その人が電車の中に唾を吐く。(そんな市井の瑣事にも日本人の根本的運命が見える気がして)心が痛みそうになったのだった。

以上66ページの2首は「違う環境に救いを求める心」、67ページの2首は「今の環境への違和感」をうたっています。見開きとしては「環境に動く心」とでもなりましょうか。

2010年7月 2日 (金)

人ありて電車のなかに唾を吐く  その1

     

     人ありて電車のなかに唾を吐く

     それにも

     心いたまむとしき

<語意>人ありて=人がいて、その人が。
作歌1910年(明43)7月26日夜。初出東京朝日新聞同年7月28日。
100年前の東京なら電車の中で床につばを吐くのは珍しいことではないように思われます。それなのになぜ啄木はそんな瑣事に心を痛めそうになるのか。今でいう公衆道徳のなさをなげいているのか。これまたむずかしい問題です。

次の文は「我が最近の興味」という啄木のエッセーの一部です。この文章は大逆事件発覚直後の、1910年(明43)6月4日朝に書いたものです。事件発覚後最初の啄木の文章です。
 
 私は毎日電車に乗つてゐる。此電車内に過ごす時間は、色々の用事を有つてゐる急がしい私の生活に取つて、民衆と接触する殆ど唯一の時間である。私は此時間を常に尊重してゐる。出来るだけ多くの観察を此の時間にしたいと思つてゐる。――そして私は、殆ど毎日のやうに私が電車内に於て享ける不快なる印象を回想する毎に、我々日本人の為に、並びに我々の此の時代の為に、常に一種の悲しみを催さずには居られない。――それらの数限りなき不快なる印象は、必ずしも我々日本人の教化(カルチユア)の足らぬといふ点にばかり原因してはゐない、我々日本人が未だ欧羅巴(ヨーロツパ)的の社会生活に慣れ切つてゐないといふ点にばかり原因してはゐない。私はさう思ふ。若しも日露戦争の成績が日本人の国民的性格を発揮したものならば、同じ日本人によつて為さるゝそれ等市井の瑣事も亦、同様に日本人の根本的運命を語るものでなければならぬ。

これによると、「電車のなかに唾を吐く」行為も「日本人の為に、並びに我々の此の時代の為に」「一種の悲しみを催」させるのであり、しかもそうした瑣事が「日本人の根本的運命を語」っているのだということになりそうです。

しかし「日本人の根本的運命」という言葉で啄木が言おうとするのはどのような「運命」なのか。これはなかなか難しい問題です。カギをまず「我が最近の興味」に求めてみましょう。啄木がこの文章の大半を費やすのは2つのエピソードです。

1つはポール・ミリューコフの『ロシアとその危機』(全600ページ)という英書を読んでそこから引いたロシアの純朴で心やさしい農民のエピソード。

もう1つは、東京の市電の中で実際に見た、見栄と俗物性と虚栄の塊のような「貴婦人」のエピソード。

以下は次回に。

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