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2010年7月 5日 (月)

人ありて電車の中なかに唾を吐く  その2

     人ありて電車の中なかに唾を吐く  その2

啄木は後者「貴婦人」に日本のある特徴的な側面を見ているようです。またここで論文を書くのはしんどいので、結論的に書きます。啄木はすでに「林中書」(1906年)の中でつぎのような意味のことを書いています。

「近代文明の特色は……人権の抑圧を否定して個人の自由を尚(たつと)ぶ点に存する。」
「立憲国」の日本人は与えられた自由を「衣服にして纏うふて居る」。つまり外見にまとっているだけで自分の思想としていない。
専制国家のロシア人は世界一不自由だがしかし自由を「深く腹中に蔵して居る」。つまり自分自身の思想としている。

日本と日本人の中身と外見の不均衡を啄木は早い時期から問題にしてきました。したがって啄木自身が東京朝日新聞で校正した夏目漱石の小説「それから」(連載1909年6月~12月)のつぎの叙述などからも深い影響を受けました。

 日本は西洋から借金でもしなければ、とうてい立ち行かない国だ。それでいて、一等国をもって任じている。そうして、むりにも一等国の仲間入りをしようとする。だから、あらゆる方面に向かって、奥行きをけずって、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じことで、もう君、腹が裂けるよ。

市電の中の「貴婦人」も着飾って上流階級ぶっているけれど、言動に顕れる内身は悲惨なくらいに貧弱です。啄木がこの貴婦人に漱石の日本観を想起したということは十分に考えられます。

こうして啄木が「貴婦人」に牛と競争して腹の裂ける蛙をすなわち「日本人の根本的運命」を観たということも考えられるわけです。

さて、掲出歌にもどります。「電車のなかに唾を吐く」人は「貴婦人」ほどにインパクトがあったわけではないでしょう。だから「心がいたんだ」ではなく「いたみそうになった」なのでしょう。しかしこのような
「市井の瑣事も亦、同様に日本人の根本的運命を語るものでなければならぬ」と啄木は言うのですから、ふたたび漱石の日本人観を引く必要があります。先の引用のつづきです。

その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見たまえ。こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、ろくな仕事はできない。ことごとく切りつめた教育で、そうして目の回るほどこき使われるから、そろって神経衰弱になっちまう。話してみたまえ、たいていは馬鹿だから。自分のことと、自分の今日の、ただいまのことよりほかに、なにも考えてやしない。考えられないほど疲労しているんだからしかたがない。精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にしてともなっている。のみならず、道徳の敗退もいっしょに来ている。日本国じゅうどこを見渡したって、輝いてる断面は一寸四方もないじゃないか。ことごとく暗黒だ。

「電車のなかに唾を吐く」にこの文中の「道徳の敗退」を観ている、ととるのはもう深読みかな?

ともあれ「それから」の以上のくだり(角川文庫版から引用)は、「時代閉塞の現状」執筆時にも詩集「呼子と口笛」製作時にも強い影響を示します。

<解釈>人がいて、その人が電車の中に唾を吐く。(そんな市井の瑣事にも日本人の根本的運命が見える気がして)心が痛みそうになったのだった。

以上66ページの2首は「違う環境に救いを求める心」、67ページの2首は「今の環境への違和感」をうたっています。見開きとしては「環境に動く心」とでもなりましょうか。

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