« 何かひとつ不思議を示し  余談 | トップページ | 叱られて »

2010年7月27日 (火)

人いふ人のこころに

     

     人といふ人のこころに

     一人づつ囚人がゐて

     うめくかなしさ

作歌=1910年(明43)8月28日。初出『一握の砂』。作歌時の最初の形は「人といふ人の心に一人づゝ良平がゐて常にうめけり」で、それをのちに掲出歌の形(一行書き)に推敲した。

「囚人」は何を意味するのだろう。管見に入ったこれまでのどなたの解釈にも納得できない。

「それ」は誰の心の中にもあって、誰もが「それ」を押さえ込んでいて、押さえ込まれた「それ」は表に飛び出したくてうめいている。そういう「それ」は1つしか考えられない。利己心である。

「利己心」は自我に目ざめた盛岡中学校4年生あたりから、作歌時の今に至るまで啄木をほとほと困らせている。24ページ右、26ページ左にそれをうたう歌をすでに見た。「明治四十三年歌稿ノート」によると10月13日ころにもまた「何よりもおのれを愛し生くといふさびしきことにあきはてにけり」とうたっている。

利己心は自己保存という動物の本能に起源を持つので、人間という動物にあっても他のどんな心よりも本源的である。食欲も性欲も命欲しさも死の恐怖も金銭欲も名誉欲も自己保存の本能に発しないものはない。利己心はこの本能の人間的表現である。だから誰の心にもある。しかし人間社会では利己心は自制を求められる。誰もが自分の利己心を押さえ込んでいる。押さえ込まれた本能は表に飛び出したくてうめく。

<訳>およそ人間であるかぎり誰もが持っているエゴは、野放図に表面化しないよう社会と自分自身によって心の奥に押し込まれている。表に飛び出したいと、囚人のようにうめくエゴのどうしようもない切なさ。

岩城之徳氏はこの歌の最初の形にある「良平」に着目し、これは徳富蘆花の小説「寄生木」の主人公篠原良平であろうか、と言われた。一考に値する着眼である。そこで岩波文庫版の古本『寄生木』全3冊を注文した。これを読み終わると掲出歌の解釈はいっそう正確になるかも知れない。

68、69ページの見開き最初の2首は、居どころの無さをうたい、3首目は例の起承転結の「転」に相当する歌で日常の居どころからの脱出願望、4首目は利己の心の居どころの無さをうたう。

« 何かひとつ不思議を示し  余談 | トップページ | 叱られて »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/533861/48958470

この記事へのトラックバック一覧です: 人いふ人のこころに:

« 何かひとつ不思議を示し  余談 | トップページ | 叱られて »