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2010年8月

2010年8月29日 (日)

女あり

     

     女あり

     わがいひつけに背かじと心を砕く

     見ればかなしも

これも作歌は1910年(明43)9月9日夜。初出「創作」同年10月号。

「女」は妻の節子と思われる。啄木が「いひつけ」できる相手は妻か子しかない上、その相手は「背かじと心を砕く」のだから、妻ということになる。前々歌「顔あかめ怒りしこと」と関係がありそうだが、確証はない。

節子は10月4日に長男を出産するので、この歌のようなことは妊娠8、9ヵ月の時のことと推定される。

前歌2首では啄木の側から見た妻節子をえがいたが、節子の側が見る夫啄木は様相が異なる。夫婦の思いは相当ちぐはぐである。ちぐはぐは1908年(明41)4月末、啄木が妻子老母を函館に残し上京して以後徐々に大きくなって行った。

09年6月妻子老母が上京してきた時には夫婦の間に深い溝ができていた。節子の上京後の第1信(実母宛)はこういう書き出しで始まる。

 東京はいやだ。さびしかるべき夜汽車も兄さんがいらしたので色々お話して夜を明かしました。

「東京」は夫啄木の記号であろう。その「いやな東京」に対し、反射的に出てきたのは「兄さん」つまり宮崎郁雨である。節子の愛はひそかに郁雨に移り、啄木への愛は冷めてしまっている。

ローマ字日記以後の啄木は09年6月半ばから100日ほどかけてすっかり自己変革する。一家の主として妻子老母のために、自分の文学活動を犠牲にしてもまじめに働こうと決意する。夫の内面の変化に気づく気のない節子は10月2日京子を連れて家出し実家に逃げ帰る。啄木の狼狽は大変なものだった。金田一京助『石川啄木』にその啄木が生き生きと写されている。金田一や盛岡高等小学校時代の恩師新渡戸仙岳らのお蔭で節子は10月26日にもどってくる。

啄木は真に変わった。われわれの石川啄木はこの時に生まれるのである。しかしもどってきた節子の心は基本的には家出前と変わっていなかった。夫婦のことであるからいい日和もあれば、雨風の日もあったことであろうが、基本的には夫婦間の齟齬は1910年にも埋まらなかったと思われる。出産をひかえた9月26日節子は妹ふき子にこう書いた。

  私も十月のはじめには子供が二人になるのでせはしい事だらうと今からいやな心地がしますよ。

こんな夫婦関係のある日、掲出歌のようなことがあったのだろう。啄木は一面で妻を第二の母のように頼っていたこと、前歌の時に書いた。そんな信頼のもとに、なにかをきびしく「いいつけ」たのであろう。妊娠8、9ヵ月の節子は明治の女らしく、その「いいつけ」を守ろうといろいろ気を遣っている。忍従の一場面と言えそうである。

<解釈>ひとりの女がいる(それはわが妻だ)。妻がわたしの言いつけに背くまいといろいろに気を遣っているのを見ると、その健気さがいとおしくなることだ。

2010年8月27日 (金)

いらだてる心よ汝はかなしかり

     

     いらだてる心よ汝はかなしかり

     いざいざ

     すこし呿呻などせむ

<ルビ>汝=なれ。呿呻=あくび。

作歌は1910年(明43)9月9日夜。初出「創作」同年10月号。

前歌からこの「我を愛する歌」の章の終わりまでには計13首あるが、そのうち11首が9月9日夜の作。「いらだてる心」の原因は9月9日という日にちの分析ときりはなしては理会できない。この分析は前歌の「顔あかめ怒りしこと」の背景的事実の解明にもつながって行く。

さて、9月9日とはどういう日か。くわしいことは小著『『一握の砂』の研究』(おうふう)の176ページ~229ページに書いた。ここでは本の53ページ分をつづめて記しておく。

6月初めに大逆事件の衝撃、小説「我等の一団と彼」執筆、執筆中断、事件の思想的背景を知るべく社会主義・無政府主義の研究に没頭。7月半ば、大逆事件の内容と思想的背景を国民に知らせ、あわせて厳重な取り調べを受けている被告たち分けても幸徳秋水を間接的に弁護しようとし、評論「所謂今度の事」を書く。執筆途中で東京朝日新聞に掲載の可否を諮るが、朝日新聞は掲載不可能と判断(7月26日頃)。7月26日夜から歌を作り始める。歌づくりは啄木にあって、全力を尽くして何かをやりついに行き詰まった時の避難所である。作歌の一方でかれは大逆事件を引き起こした真の犯人=国家権力との新たな闘い方を模索し、高い緊張の下で思索を進める。8月29日(推定)啄木はついに「時代閉塞の現状」の執筆に取りかかる。啄木はこの評論で、大逆事件を引き起こした真の犯人として強権(=国家権力)を告発し、これとの闘いを呼びかける。9月8日までには書き上げたと推定される。この近代評論史上白眉の一編もやはり掲載不可能だった。

問題の9月9日にもどろう。おそらくこの日に啄木は東京朝日新聞編集部から掲載の不可能を告げられたのだと思われる。6月以来の啄木の知的奮闘を想起されたい。世界最強の専制権力の1つとの闘いに知力の限りを尽くしたのである。3ヵ月来のどこかの時点で「いらだてる心」になっていて当然であろう。

啄木はその「いらだてる心」に呼びかける。「汝はかなしかり=お前はいとしいよ」と。そしていらだちを和らげてやるためにさあ、欠伸でもしてやろうと言うのである。

<解釈>(大逆事件について調べ、事件の被告たち〈とりわけ幸徳秋水〉を擁護し、事件の真犯人=強権と闘う道を追究してきたが、強権は余りに強く手も足も出ない。そしてこの3ヵ月来の緊張の結果わが心はすっかり苛立ってしまった。)いらだったわが心よ、3ヵ月もがんばったお前はいとしいよ。さあ、さあ、すこし欠伸でもしてやろう。(いらだちを癒やしてくれ。)

前歌「顔あかめ」もまったく同時の作であるから、「さほどにもなき」ことを顔をあからめて怒ったのも、原因は同じと考えていいであろう。前歌も意想外に深いものを蔵していると考えられる。強権に果敢に闘いを挑む戦士も、節子夫人のような「支え=避難所」が必要だったということだ。どんな英雄豪傑にも似たような側面は必ずあるらしい。

2010年8月21日 (土)

顔あかめ怒りしことが  その2

      

     顔あかめ怒りしことが  その2

ようやく「誰に対して」が見えて来た。妻節子の線で考えて行こう。

次ぎに「さほどにもなきを」なぜ「さびしがる」のか? これも考えてみるとへんである。「それほどでもないのを」分かったので、反省したとか、照れくさくなったというのなら分かるが、なぜ「さびしがる」なのか。

岩波古語辞典の「さびし」を引くとこの語の概説的説明の項に「本来あった生気や活気が失われて、荒涼としていると感じる意。そして、もとの活気ある、望ましい状態を求める気持でいる意」とある。新潮現代国語辞典の「さびしい」にも「あるべきものがなくて、物足りない感じである」の語釈がある。この「さびし」の語義を持ち込むと歌の意味が見えてくる。

山下多恵子さんはその著『忘れな草 啄木の女性たち』(未知谷、2006年)で、啄木は節子に「母性」を感じていた、と書いておられる(同書196ページ)。これは貴重な考察であると思う。山下さんはまたこうも言われる。カツは「石川一」を愛し、節子は「石川啄木」を愛した、と(同書121ページ)。これも勘所をつかんだ指摘である。

この指摘に対応して次のように言うことができよう。

幼少年期の啄木にとって母は究極の頼りとする存在だった。どんな自分でも受け入れ庇護してくれた。長じて以後は恋人そして妻になった節子に、啄木は全幅の信頼を托した。天才を実現しようとする啄木のすべてを受け入れ支えてくれる人と信じ込んでいた。つまり節子は山下さんの言う「石川啄木」にとって第二の母のような存在だったのである。だから節子が家出した時、啄木は母がいなくなってパニックに陥る子供のように狼狽したのだ。

先ほどの問い・なぜ「さびしがる」なのか、に戻ろう。昨日確かにあった怒りの激しさが今日は薄らいでしまったので、物足りないのである。
    
<解釈>ある日妻に対して顔を赤くして怒ったのだが、あくる日になるとるとあの怒りの激しさは失われている。 前日のように妻に対し怒ったままで(すねて)いたいのに、これではなんだか物足りないことよ。

2010年8月16日 (月)

顔あかめ怒りしことが  その1

     

     顔あかめ怒りしことが

     あくる日は

     さほどにもなきをさびしがるかな

<ルビ>怒り=いかり。

<語意>さほどにもなきを=それほどでもないのを。

作歌は1910年(明43)9月9日夜。初出は東京朝日新聞同年10月19日。

啄木が顔を赤くして怒った、誰に向かって? これが分からなければこの歌の解釈は始まらない。さしあたり考えられるのは、妻・子・父・母、家主一家や職場のだれかれ、はては強権の横暴、まで結局怒りの対象は無数の対象が浮かんでしまう。

そこで見開き4首全体を見渡してみよう。3首目は妻のことらしい。そうすると4首目の「日の本の女等」の中に妻も入りそう。つまり左ページ2首は妻がらみと考え得る。右ページ2首も妻がらみと考えられないか。さんざん悩んだ末、こう考えてみた。

どうやら、正解のようである。この見開き4首は妻がらみの4首であると考えると整合的に解釈できるから。

では、啄木は妻の節子に対して顔を赤くして怒るような夫だったのか、が問題になる。節子は文字通りの恋女房であるから、啄木とはいい夫婦だった。啄木は時に花を買ってきて妻と仲良く楽しんだり、真夜中に起きだして妻に「書いたつて発表する事が出来ない」悩みを打ち明けたり、いつか出そうとする本のこと表紙の事などを話してみたりしている。明治の夫婦としてはずいぶんいい感じである(ただし夫婦の関係だから後述のようにある時期深い齟齬も生じるけれど)。

夫婦喧嘩ももちろんした。こんな文章がある。「弓町より」という詩論の一節である(1909年12月稿)。「其時、恰度夫婦喧嘩をして妻に負けた夫が、理由もなく子供を叱つたり虐めたりするやうな一種の快感を、私は勝手気儘に短歌といふ一つの詩形を虐使する事に発見した。」

これを読むと啄木が負ける喧嘩もあったようだ。09年10月の節子の家出は節子の完勝と言えそうだが、その後はいろいろあったようで、啄木は節子が堀合家系の親戚と付き合うことをひどく嫌い、妨げた。親戚と図ってまた家出をするかと極度に警戒したようである。だから節子の従兄弟が遊びに来て、今度の正月ご馳走しようなどと言い、節子が「ではぜひ行きます」と答えたら、後で啄木は「大おこり」だった、という(09年12月20日節子の宮崎ふき宛書簡)。

こんな事情を考えると「顔あかめ怒りしこと」もありえたとおもわれる。

以下次回。

2010年8月12日 (木)

庭石に

     

     庭石に

     はたと時計をなげうてる

     昔のわれの怒りいとしも

作歌1910年(明43)9月9日夜。初出『一握の砂』。

「昔」住んだ「庭石」のある家といえば、宝徳寺か盛岡市加賀野磧町の家(結婚後まもなく移り住んだ)であろう。「いとし」は「かわいい」の意味であるから、思い出は宝徳寺時代の、それも少年期のものであろう。

父一禎という人は怒りっぽい人であったらしい。2009年高知駅前に建った「啄木・一禎歌碑」に彫られた歌は「よく怒(いか)る人にてありしわが父の/日ごろ怒らず/怒れと思ふ」である。父の影響を色濃く受けた石川一のかんしゃくである。

「時計」は目覚まし時計であろう。『続続値段の〈明治大正昭和〉風俗史』(朝日新聞社、1982年)によると1904年(明37)で目覚まし時計が1円38銭もする。今の金にするとざっと1万円以上だ。懐中時計(ウォルサム製銀側)だと1906年で16円もする(『完結値段の〈明治大正昭和〉風俗史』)。寒村のお寺の坊さんが懐中時計を必要とはするまいし、買う金もあるまい。宝徳寺にあった時計は目覚まし時計のたぐいであろう。それにしても安いものではない。

「昔のわれ」は何に対して怒ったのであろう。家族に対してか。時計そのものに対してか。自分自身に対してか。どうも見当がつかない。はっり言えるのはその怒りが個人的なものだったということである。

「昔のわれの怒り」の裏側にある「現在のわれの怒り」は作歌が9月9日夜であるから歴史的社会的なものである。わたくしのHP「石川啄木著『一握の砂』を読む」に載せてある「韓国併合批判の歌 5首」の初めの方をご覧いただくと分かるように掲出歌は最初の黒インクグループ(Bグループ)の7首目の歌である。Bグループのテーマは「韓国併合と時代閉塞の現状」であった。

「現在のわれの怒り」はまさに「韓国併合と時代閉塞の現状」への怒りなのである。表現の自由への狂気じみた弾圧の嵐の今、怒りは鬱屈せざるを得ない。

<訳>(韓国併合・時代閉塞の現状に対して何ら有効な行動に出られないで怒りが鬱積する自分を思うと)行動へ何のためらいもなく突き進み、庭石にバシッと時計をたたきつけた昔の自分の怒りがかわいいことよ。

見開きに共通するモチーフとして「鬱屈する心」を取り出してよいであろう。

2010年8月 8日 (日)

放たれし女のごときかなしみを  その2

     

     放たれし女のごときかなしみを  その2

「放たれし女」は意識だけが既成の境遇の中で目ざめたのである。変わらぬ境遇の中で変わってしまった意識はあてどのないまま孤独感にさらされるしかない。これが「かなしみ」であろう。

「よわき男」=啄木はどういう時にそれに似た「かなしみ」を感じたのであろう。

大逆事件の被告たち特に幸徳秋水への共鳴・共感、帯剣政治家の圧制への反抗の念、韓国を亡ぼして浮かれる日本人への批判等、時代閉塞の現状にあって一人時代の最先端に立ってしまい、しかも現状に指一本させぬ自分。

この自分を「よわき男」と言ったのであろう。

<訳>既成の境遇の中で自由に目ざめた女の意識が、あてどのないまま孤独感にさらされているようなかなしみを、一人時代の最先端に立ちながら時代閉塞の現状に指一本させぬ自分もまた感じる日である。
    
別の解釈も可能である。

この歌は10月13日夜の歌となっていることはすでに述べた。その歌稿の終わりの方につぎの4首が並んでいる。
 夜あけまであそびてくらす場所がほし家を思へばこゝろつめたし
 人みなが家を持つてふかなしみよ墓に入るごとくかへりて眠る
 放たれし女のごときかなしみをよわき男の感ずる日なり
 はても見えぬ真直の街をあゆむごとき心をけふも持ちえたるかな
「夜あけまで」「人みなが家を」の2首は妻の家出と関連づけて解釈することも可能であった。3首目つまり掲出歌はこの関連で読むことも可能である。

妻が本当にわが手わが家から「放たれ」てしまい、「かかあに逃げられ」た啄木は「よわき男」として「放たれし女のごときかなしみを……感」じていると言う解釈である。

2010年8月 7日 (土)

放たれし女のごときかなしみを  その1

     

     放たれし女のごときかなしみを

     よわき男の

     感ずる日なり

作歌1910年(明43)10月13日夜。初出「スバル」・「精神修養」同年12月号。

「放たれし女」は束縛から解放されて自由になった女、の意であるが、この語が使われたころの事実上のニュアンスは以下のようなものだったらしい。

『一握の砂』を出版したのは東雲堂の西村辰五郎(啄木より6歳下の青年)だったが、後に生活派の歌人西村陽吉として活躍した。この西村陽吉に『歌と人 石川啄木』(1929年、紅玉堂書店)という本がある。かれの掲出歌に関する評釈が示唆に富む。

 ひところ『放たれし女』といふ言葉がはやつたことがある。放たれし女とは、無自覚で、古い家庭の城壁に囚れてゐた女が、覚醒して自由を意識したことをいふのである。女も一人前の人間である「知らしむべからず従ふべし」といふ掟に縛られて、母の懐から夫の家庭へ送られて一生涯奴隷のやうに送るのは女子の無知と恥辱とを示すものである、と叫んだそれらの放たれた女は、一端覚醒してみたものゝ、さて何処へ向つて進んでいゝかあてど(傍点)が分からなかつた。恰度そのやうなかなしみを覚醒したよわい男(傍点)が感ずる日である、といふ一首。

100年前の日本では女が「放たれ」ること自体が非常にむずかしいうえに、「放たれ」たとしても、恵まれた実家や親譲りの財産があるという希な幸運の持ち主でなければ、生きて行くことはむずかしかった。女の近代的職業は女教師、看護婦などの外はほとんどなかった。それらになれない女が生きるためには、結婚する道以外では妾・芸者・娼婦等になるしかなかった。

だから「放たれ」たとしてもそれからの行き場はほとんどなかったのである。中国の魯迅は「ノラは家出してからどうなったか」という講演でこう言っている(ノラはイプセン『人形の家』のヒロイン)。「ものの道理から考えてみますと、ノラには実際、堕落するか、さもなければ家に帰る、というこの二つの道しかなかったかもしれないのであります」と。

こうなると掲出歌当時の「放たれし女」の現実的な意味は、西村陽吉の言うように「覚醒して自由を意識した」女、ということになるであろう。(女性文芸同人誌「青鞜」の創刊は作歌時より1年後の1911年(明44)9月であった。「青鞜」の下に集まって来た女性たちは「新しい女」と呼ばれた。)

2010年8月 4日 (水)

盗むてふことさへ悪しと思ひえぬ

     

     盗むてふことさへ悪しと思ひえぬ

     心はかなし

     かくれ家もなし

<ルビ>悪し=あし。かくれ家=かくれが。

初出『一握の砂』。作歌は1910年(明43)10月4日~16。

ひどくむずかしい。数十年来わたくしの中で引っかかりつづけた歌である。今も分からない。「盗むてふことさへ悪しと思ひえぬ/心」とはどうして生じた心なのか。その心はなぜ「かなし」なのか。その心にはなぜ「かくれ家もな」いのか。いや1・2行は「……の心はかなし」であるから主語+述語の1文は完結している。3行目も1文をなして完結している。1・2行と3行の関係は?

この歌が置かれているのは70ページ左である。70・71ページの見開き4首に共通するモチーフに当たりをつけてみると、「赤裸の心」となりそうである。一往この当たりを導きの糸として考察をすすめることにした。

今井泰子氏、上田博氏、木股知史氏の解釈はそれぞれ示唆に富んでいるので、何度も読み返し参考にした。3氏の解釈から取り出した要点を集めて訳してみることも何度か試みた。うまくいきそうで最後に今一つ、の感が残った。

3氏の解釈とは別に、この歌は啄木の社会科学的知識と関係があるのではないかとの数十年来の着想もあり、幸徳秋水『社会主義神髄』『帝国主義』、クロポトキン『麺麭の略取』、ゴーリキー「チェルカッシュ」「零落者の群」を調べもした。これらに決定的なカギはなかった。

こうして丸3日かけ、以下のように考え、一往の解釈を得た。まず上記の疑問についてこんな風に考えた。

1、どうして生じた心なのか? おそらく日記を読み返して、ホームレス時代(本ブログ「飄然と家を出でては」「ふるさとの父の咳する度にかく」参照)を想起し、当時の心に現在の時点からの理解を重ねたのだと思われる。1910年(明43)5月に書いた「硝子窓」という文章がある。以前にもこのブログで引いたと思うが、啄木は言う「自分といふ一生物の、限りなき醜さと限りなき愍然(あはれ)さ」と。生物の究極の本能は自己保存であろう。1903年(明36)1月下旬~2月下旬の約1ヵ月は着の身着のままで、食べるものもなく、住むところもない文字通りのホームレス生活またはそれに近い生活があった。100年前の東京の真冬である。その間何度も自殺を考えたことは確実であるが、他方盗みにしか自己保存の道はないという窮乏まで追いつめられたこともあったと思われる(実際に盗みをしたかどうかはどうでもよい)。

2、その心はなぜ「かなし」なのか? 下の3参照。

3、1・2行と3行の関係は? 3行は1・2行の理由を示す1文である。したがって、「……の心」にはなぜ「かくれ家もな」いのか、という問いは正しくない。「かくれ家もな」いから「……の心はかなし」いのである。(今井泰子氏は「かくれ家」は「盗む」との縁語的表現、と言われたが卓見。)

<訳>盗みということさえ悪いと思えない心は痛ましい。窮乏のためそこまで追いつめられた心にはもうほかに行き場はないのだから。(盗人ならば隠れ家に逃げ込めもしようが。)

幸徳秋水『社会主義神髄』『帝国主義』等上記諸著との関係も一考に値するが、後日に回したい。

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