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2010年8月 7日 (土)

放たれし女のごときかなしみを  その1

     

     放たれし女のごときかなしみを

     よわき男の

     感ずる日なり

作歌1910年(明43)10月13日夜。初出「スバル」・「精神修養」同年12月号。

「放たれし女」は束縛から解放されて自由になった女、の意であるが、この語が使われたころの事実上のニュアンスは以下のようなものだったらしい。

『一握の砂』を出版したのは東雲堂の西村辰五郎(啄木より6歳下の青年)だったが、後に生活派の歌人西村陽吉として活躍した。この西村陽吉に『歌と人 石川啄木』(1929年、紅玉堂書店)という本がある。かれの掲出歌に関する評釈が示唆に富む。

 ひところ『放たれし女』といふ言葉がはやつたことがある。放たれし女とは、無自覚で、古い家庭の城壁に囚れてゐた女が、覚醒して自由を意識したことをいふのである。女も一人前の人間である「知らしむべからず従ふべし」といふ掟に縛られて、母の懐から夫の家庭へ送られて一生涯奴隷のやうに送るのは女子の無知と恥辱とを示すものである、と叫んだそれらの放たれた女は、一端覚醒してみたものゝ、さて何処へ向つて進んでいゝかあてど(傍点)が分からなかつた。恰度そのやうなかなしみを覚醒したよわい男(傍点)が感ずる日である、といふ一首。

100年前の日本では女が「放たれ」ること自体が非常にむずかしいうえに、「放たれ」たとしても、恵まれた実家や親譲りの財産があるという希な幸運の持ち主でなければ、生きて行くことはむずかしかった。女の近代的職業は女教師、看護婦などの外はほとんどなかった。それらになれない女が生きるためには、結婚する道以外では妾・芸者・娼婦等になるしかなかった。

だから「放たれ」たとしてもそれからの行き場はほとんどなかったのである。中国の魯迅は「ノラは家出してからどうなったか」という講演でこう言っている(ノラはイプセン『人形の家』のヒロイン)。「ものの道理から考えてみますと、ノラには実際、堕落するか、さもなければ家に帰る、というこの二つの道しかなかったかもしれないのであります」と。

こうなると掲出歌当時の「放たれし女」の現実的な意味は、西村陽吉の言うように「覚醒して自由を意識した」女、ということになるであろう。(女性文芸同人誌「青鞜」の創刊は作歌時より1年後の1911年(明44)9月であった。「青鞜」の下に集まって来た女性たちは「新しい女」と呼ばれた。)

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