« 顔あかめ怒りしことが  その1 | トップページ | いらだてる心よ汝はかなしかり »

2010年8月21日 (土)

顔あかめ怒りしことが  その2

      

     顔あかめ怒りしことが  その2

ようやく「誰に対して」が見えて来た。妻節子の線で考えて行こう。

次ぎに「さほどにもなきを」なぜ「さびしがる」のか? これも考えてみるとへんである。「それほどでもないのを」分かったので、反省したとか、照れくさくなったというのなら分かるが、なぜ「さびしがる」なのか。

岩波古語辞典の「さびし」を引くとこの語の概説的説明の項に「本来あった生気や活気が失われて、荒涼としていると感じる意。そして、もとの活気ある、望ましい状態を求める気持でいる意」とある。新潮現代国語辞典の「さびしい」にも「あるべきものがなくて、物足りない感じである」の語釈がある。この「さびし」の語義を持ち込むと歌の意味が見えてくる。

山下多恵子さんはその著『忘れな草 啄木の女性たち』(未知谷、2006年)で、啄木は節子に「母性」を感じていた、と書いておられる(同書196ページ)。これは貴重な考察であると思う。山下さんはまたこうも言われる。カツは「石川一」を愛し、節子は「石川啄木」を愛した、と(同書121ページ)。これも勘所をつかんだ指摘である。

この指摘に対応して次のように言うことができよう。

幼少年期の啄木にとって母は究極の頼りとする存在だった。どんな自分でも受け入れ庇護してくれた。長じて以後は恋人そして妻になった節子に、啄木は全幅の信頼を托した。天才を実現しようとする啄木のすべてを受け入れ支えてくれる人と信じ込んでいた。つまり節子は山下さんの言う「石川啄木」にとって第二の母のような存在だったのである。だから節子が家出した時、啄木は母がいなくなってパニックに陥る子供のように狼狽したのだ。

先ほどの問い・なぜ「さびしがる」なのか、に戻ろう。昨日確かにあった怒りの激しさが今日は薄らいでしまったので、物足りないのである。
    
<解釈>ある日妻に対して顔を赤くして怒ったのだが、あくる日になるとるとあの怒りの激しさは失われている。 前日のように妻に対し怒ったままで(すねて)いたいのに、これではなんだか物足りないことよ。

« 顔あかめ怒りしことが  その1 | トップページ | いらだてる心よ汝はかなしかり »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/533861/49144188

この記事へのトラックバック一覧です: 顔あかめ怒りしことが  その2:

« 顔あかめ怒りしことが  その1 | トップページ | いらだてる心よ汝はかなしかり »