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2010年8月27日 (金)

いらだてる心よ汝はかなしかり

     

     いらだてる心よ汝はかなしかり

     いざいざ

     すこし呿呻などせむ

<ルビ>汝=なれ。呿呻=あくび。

作歌は1910年(明43)9月9日夜。初出「創作」同年10月号。

前歌からこの「我を愛する歌」の章の終わりまでには計13首あるが、そのうち11首が9月9日夜の作。「いらだてる心」の原因は9月9日という日にちの分析ときりはなしては理会できない。この分析は前歌の「顔あかめ怒りしこと」の背景的事実の解明にもつながって行く。

さて、9月9日とはどういう日か。くわしいことは小著『『一握の砂』の研究』(おうふう)の176ページ~229ページに書いた。ここでは本の53ページ分をつづめて記しておく。

6月初めに大逆事件の衝撃、小説「我等の一団と彼」執筆、執筆中断、事件の思想的背景を知るべく社会主義・無政府主義の研究に没頭。7月半ば、大逆事件の内容と思想的背景を国民に知らせ、あわせて厳重な取り調べを受けている被告たち分けても幸徳秋水を間接的に弁護しようとし、評論「所謂今度の事」を書く。執筆途中で東京朝日新聞に掲載の可否を諮るが、朝日新聞は掲載不可能と判断(7月26日頃)。7月26日夜から歌を作り始める。歌づくりは啄木にあって、全力を尽くして何かをやりついに行き詰まった時の避難所である。作歌の一方でかれは大逆事件を引き起こした真の犯人=国家権力との新たな闘い方を模索し、高い緊張の下で思索を進める。8月29日(推定)啄木はついに「時代閉塞の現状」の執筆に取りかかる。啄木はこの評論で、大逆事件を引き起こした真の犯人として強権(=国家権力)を告発し、これとの闘いを呼びかける。9月8日までには書き上げたと推定される。この近代評論史上白眉の一編もやはり掲載不可能だった。

問題の9月9日にもどろう。おそらくこの日に啄木は東京朝日新聞編集部から掲載の不可能を告げられたのだと思われる。6月以来の啄木の知的奮闘を想起されたい。世界最強の専制権力の1つとの闘いに知力の限りを尽くしたのである。3ヵ月来のどこかの時点で「いらだてる心」になっていて当然であろう。

啄木はその「いらだてる心」に呼びかける。「汝はかなしかり=お前はいとしいよ」と。そしていらだちを和らげてやるためにさあ、欠伸でもしてやろうと言うのである。

<解釈>(大逆事件について調べ、事件の被告たち〈とりわけ幸徳秋水〉を擁護し、事件の真犯人=強権と闘う道を追究してきたが、強権は余りに強く手も足も出ない。そしてこの3ヵ月来の緊張の結果わが心はすっかり苛立ってしまった。)いらだったわが心よ、3ヵ月もがんばったお前はいとしいよ。さあ、さあ、すこし欠伸でもしてやろう。(いらだちを癒やしてくれ。)

前歌「顔あかめ」もまったく同時の作であるから、「さほどにもなき」ことを顔をあからめて怒ったのも、原因は同じと考えていいであろう。前歌も意想外に深いものを蔵していると考えられる。強権に果敢に闘いを挑む戦士も、節子夫人のような「支え=避難所」が必要だったということだ。どんな英雄豪傑にも似たような側面は必ずあるらしい。

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