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2010年9月

2010年9月27日 (月)

秋の風  その3

「秋の風  第2の解釈」    

     秋の風

     今日よりは彼のふやけたる男に

     口を利かじと思ふ

<ことば>ふやけたる=(心が)だらけてしまりがない(広辞苑)。

作歌は1910年(明43)9月9日夜。初出「創作」同年10月号。

歌の主語は「利かじと思ふ」人すなわち作者である。「彼のふやけたる男」は近藤元という若い歌人。

啄木は1910年(明43)8月6日の東京朝日新聞に「女郎買の歌」(副題『悪少年』を誇称す 『糜爛せる文明の子』)という評論を載せた。ただし筆者名は「△△△」。

この資料を発見し、筆者を石川啄木と特定したのは斎藤三郎であった(斎藤三郎『文献 石川啄木』〈青磁社、1942年〉206~221ページ)。そして『啄木全集 第十巻』(岩波書店、1954年)にこれを収録した。しかし岩城之徳は「啄木の作と断定するにはなお一抹の不安が残る」として筑摩版の『啄木全集』『石川啄木全集』ではこれを参考文献としてあつかった。しかし斎藤三郎の考証はほぼ完璧であり、のちにこれを補った清水卯之助の論考(「『女郎買の歌』を叩く」〈「啄木と賢治」1976年初夏号〉)も合わせ、さらに資料の文体・内容・思想等を綿密に検討するなら、これが啄木の作品であることに疑いの余地はない。機会を得てこれを実証したい。今はこれを前提として評釈を進める。読者諸氏は『石川啄木全集 第四巻』(筑摩書房)437~439ページで直接これにあたられたい。

ついでに言うとこの「女郎買の歌」は、8月29日(推定)に執筆を開始する「時代閉塞の現状」の一部内容を先駆的に示している。またこの「女郎買の歌」に触発されて、魚住折蘆がさっそくトンチンカンな評論「自己主張の思想としての自然主義」を書く(論中で折蘆は近藤元を支持している!)。この折蘆の評論への反論を装って書かれるのが「時代閉塞の現状」である。

「女郎買の歌」とは「創作」1910年8月号に載った近藤元の短歌「黄と赤と青の影画」34首を指す。近藤は当時満20歳の青年歌人。

以下次回。

2010年9月23日 (木)

秋の風  その2

     

     秋の風  その2

思いここに至って浮かんできたのが、小著『『一握の砂』の研究』(おうふう)第Ⅱ部第三章「我等の一団と彼」から『一握の砂』へ、であった。ひもとくと198ページに、1910年(明43)6月13日岩崎正あての書簡のある箇所を引いたあとで、こう記述した。

 ……しかし啄木はその日の手紙(上記の岩崎宛)で「運命」「境遇」「社会の状態」等に対して「反抗する気力を無くした。長い間の戦ひではあつたが、まだ勝敗のつかぬうちに僕はもう無条件で撤兵して了つた」と言い、「透徹した理性」によってそれらを傍観すると言う。まさに高橋彦太郎を地で行くと言っているのであある。

大逆事件発覚後約10日。啄木は事件の衝撃を受けながらも、逡巡している。そして前月5月に結論を下したように、自分は現代に対して傍観者になる、というのである。そしてそのような人物として造形したのが「高橋彦太郎」すなわち「我等の一団と彼」の主人公的人物「彼」であった。しかしその直後(おそらく6月15日)から啄木は思想家として飛躍する。ホームページ「韓国併合批判の歌 五首」の「3、大逆事件の衝撃」を参照いただきたい。

啄木自身が6月上旬までの自分自身と決別するやいなや、小説の中の高橋彦太郎に対する作者啄木の目も厳しく批判的なる。作品に歪みが生じる。執筆を一時中断する。

そして7月下旬には「所謂今度の事」を書き、8月20日ころ(推定)「我等の一団と彼」に再挑戦するが直ぐに中断。29日ころから「時代閉塞の現状」の執筆にとりかかる。こうして作歌時には、6月上旬までの啄木とは反対の、時代閉塞の現状と相対し、強権と真っ向から対峙する啄木になっているのである。

このように見てくると全てが符合し整合してくる。「彼のふやけたる男」とは高橋彦太郎的な自分であろう。その自分への決別宣言、それが掲出歌であろう。

<解釈>秋風の快さが身に沁み心を洗う。今日からはわが小説の主人公高橋彦太郎と同様しまりがなく、軟弱な自分とは決別しよう、と思う。

2010年9月20日 (月)

秋の風  その1

これから読む「秋の風」のブログでは全く異なる2つの解釈を提示します。

第1の解釈は「彼のふやけたる男」が誰か分からなかった段階でそれを前提にした解釈です。ところがこれを書き上げた後になって、「彼のふやけたる男」の正体が分かりました。全く異なる新釈が突如として出現することになりました。第2の解釈です。

わたくしの解釈・評釈の仕方は、その歌をめぐる資料を考えられるかぎり総動員することから始めます。『石川啄木全集』全8巻が根幹資料です。それから啄木をめぐる諸家による厖大な諸研究(歳をとったので貴重な研究を失念していることがよくありますが)、それからわたくし自身の啄木研究の全て、等々に手がかりを求めます。そうして解釈しても、最善を尽くしたどの解釈でも、いかに不安定を内に抱えているか。それを今回の例でみなさんに見ていただきたいのです。わたくしは不可知論者でありませんから、研究対象の真実に無限に接近できると信じています。

研究とは発見です。しかしその発見(今の場合は解釈)は「もの」の出現によって消え去ったり、訂正されたりします。新しい化石・石器・遺跡等々の出現によって進化の過程や1国の歴史のある局面が塗り替えられて行く様をわれわれはいつも見ています。たった31文字の短歌といえども、似たことが起こりえます。ただしその短歌はそうした研究に値するものでなければなりませんが。わたくしは啄木短歌にそれだけの価値を見ています。>  

「秋の風  第1の解釈」   

     秋の風

     今日よりは彼のふやけたる男に

     口を利かじと思ふ

<ことば>ふやけたる=しまりがなく、軟弱である。

作歌は1910年(明43)9月9日夜。初出「創作」同年10月号。

「彼のふやけたる男」がむずかしい。例によって4氏の解釈を参考にさせていただこう。

今井泰子氏:啄木自身。自分の心の中に起こる種々の不平・未練・自己愛惜・悲しみ等々の感情……
岩城之徳氏:だらしない友人。
上田 博氏:自分の中に住んでいる……
木股知史氏:見知っている誰かと考えるよりは、歌の話者の内部に住んでいると見るほうが面白い。

この歌は9月9日夜の歌稿の2つ目の歌群(小論ではB歌群)に属する(前掲HP上の小論「石川啄木の韓国併合批判の歌 五首」参照)。黒インクで書かれたB歌群のモチーフは「韓国併合と時代閉塞の現状」批判であった。17首からなるこの歌群の最後の5首を引くと以下のようである。
 
 大海のその片隅につらなれる島々の上に秋の風吹く
 下らなき小説をかきてよろこべる男憐れなり初秋の風
 秋の風今日よりは彼のふやけたる男に口を利かじと思ふ
 男と生れ男と交り負けてをりかるが故にや秋が身にしむ
 マチすれば二尺許りの明るさの中をよぎれる白き蛾のあり

「下らなき小説」の歌と「男と生れ」の歌は小説関連の歌であった。この2つの歌に挟まれた「秋の風」の歌は「下らなき小説」の歌の結句「初秋の風」を受けて「秋の風」と読みはじめた気配がある。この歌も小説関連の歌なのではないか。とすると、「彼のふやけたる男」は小説に関係した人物なのではないか、と考えられる。

この男は今井氏等3氏のいうように啄木自身か、岩城氏のいうように他人か。どちらに解釈しても小説関係の人物であり得る。「下らなき小説をかきてよろこべる男」は啄木自身であった。「男と生れ男と交り負けて」いる男も啄木自身であった。となると間に挟まれた歌の「彼のふやけたる男」=啄木説が有力となる。

そう仮定したとき啄木は「彼のふやけたる男」に小説関係のどんな自己を見ていたのかという問題が出てくる。

以下次回。

2010年9月17日 (金)

くだらない小説を書きてよろこべる

     くだらない小説を書きてよろこべる

     男憐れなり

     初秋の風

<ルビ>憐れ=あはれ。

作歌は1910年(明43)9月9日夜。初出「創作」同年10月号。

「くだらない小説」は「男とうまれ男と交り」でふれた「我等の一団と彼」。この小説を高く評価する人は多い。例として加藤周一と井上ひさしの評価を引こう。

先ず加藤周一『日本文学史序説 下』より。
 歌人としての啄木のこの面(時代の状況に対する「宣戦」の態度-引用者)は、社会主義的な社会を遠い将来に期待しながら新聞記者生活をしている仲間外れの男を主人公とした小説、『我等の一団と彼』にもつながる。その主人公は、さしあたり革命の条件が日本社会にないことを見破るほどに聡明で、みずから「利己的な怠け者」と称している。しかし他方では、毎日発生する事件のなかに一種の関連をみとめ、その方向が社会体制の変革の方へ向っていることに、自己の立場の正しさの証拠を見ている。そういう皮肉で辛辣な男は、当時の小説の主人公としては他に例がなく、そういう人物を主人公としては活活と描きだしたことは、啄木の小説家としての独創性である。

次は井上ひさし「前口上」「季刊the座」第7号(1986年6月)より。
 「啄木の歌はいいが、小説は下手、まるでなってない」などと訳知り顔でいう連中がおりますが、よく読まないからそういう脳天気なことが云えるので、この作品
(「我等の一団と彼」-引用者)などは啄木が小説を書く才能にも大いに恵まれていたことを立証する第一級の証拠でしょう。

しかし啄木自身は前記でふれたような事情で当面中断することにした。啄木の思想と社会認識の歩みが小説の最初の構想はおろかその後の訂正・変更をも次々に乗り越えてゆき、ついには、「時代閉塞の現状」を書き上げた啄木から見るとその原稿のままでは「くだらない小説」となってしまったらしい。構想をあらためて書き直せば文学史上に輝く傑作になったと思われるが、啄木の人生にその時間は残されていなかった。(啄木は1910年12月30日宮崎郁雨宛書簡で「売るべく書きかけてある原稿もある」と書いているがこれはまちがいなく「我等の一団と彼」である。)

<解釈>大逆事件・韓国併合という歴史的事件の渦中で「時代閉塞の現状」を書き上げたばかりの私の目から見ると、書きかけの「我等の一団と彼」はくだらない小説だ。こんなものを書いてよろこんでいる私はみじめというほかない。みじめさを際立たせるかのように、快い初秋の風が吹いている。

2010年9月12日 (日)

わが抱く思想はすべて  その2

     わが抱く思想はすべて  その2

ところでわたくしのHPに載せた小論「石川啄木の韓国併合批判の歌 五首」に書いたが、掲出歌は4つ目の歌群(小論ではD歌群)に属する。この歌群のテーマは「大逆事件と時代閉塞の現状」批判なのであった。啄木が大逆事件発覚を契機に思想上の大飛躍を遂げたのは周知のことである。

この点で今井氏が評論「時代閉塞の現状」と結びつけてこの歌を解釈しようとしたのは卓見である。しかし「『時代閉塞の現状』に展開されたような思想」と言われるのであれば、展開の大本になった「思想」があるはずである。大本の「思想」がたくさんあろうとは思われない。また同じアポリアに陥る。

4、5日間の苦悶の末、目からウロコが落ちた。①系で解釈すれば良かったのである。「思想」とは「考え」あるいは「意見」の意なのである。

「わが抱く思想はすべて」は「大逆事件や時代閉塞の現状等に対して私がこの日ごろ抱いているさまざまな意見はすべて」の意だったのである。

「金なきに因する」はわが石川家の貧しさに原因する、の意。この句の解釈がまたむずかしい。

啄木イコール貧乏の公式が全日本人の頭の中に確立しているので、作歌当時も低収入と思ってしまうがそれは違う。しかしそれは正確ではない。このことをきちんと論じようとすれば『全集』⑥-226~227および⑦-316~320から大量に引かねばならぬ。さらに、美土路昌一の証言もある(太田愛人1996,p38)。それらの作業はここでは割愛する。

少し触れておけば、収入は決して少ないとは言えなかった。「明治四十四年当用日記補遺」(『全集』⑥-226~227)から啄木の語るところを引いておこう。

(収入は必ずしも)「少からざりしも、猶且前年来の疲弊及び不時の事によりて窮乏容易に緩和せざりき。」(ちなみに1910年(明43)12月ひと月の収入総額は165円65銭である。これは貧乏と言うには大きすぎる額である。しかし年末の)「残額僅かに一円二十一銭に過ぎず。不時の事のための借金及び下宿屋(蓋平館)の旧債、医薬料等の為にかくの如し。猶次年度に於て返済を要する負債は協信会の四十円及び蓋平館に対する旧債百円余也。」

同年12月30日宮崎郁雨宛書簡から少しだけ引くと、「生活の不安は僕には既に恐怖になつた、若しかうしてゐて老人でも不意に死んだらどうして葬式を出さう、そんな事を考へて眠られない事すらある……」

収入があっても貧しいのは、一家(3人ではなく)5人の生活費、家族の病気(病院代・薬代)、長男の出産・病院・葬式代、蓋平館の借金返済等々のせいである。

そして啄木は「金なき」ことを「考へて眠られない事すらあ」ったのだ。

こうしたことから逆算してゆくと「金なきに因する」と思われる意見=「思想」はたくさん考えられる。

<解釈>
私が抱く日本の社会制度、経済制度、政治制度等に関するもろもろの見解はすべて金のないことに原因するようだ。(家の内は相変わらずの貧乏。戸外には私に多くのことを考えさせる明治43年の)秋の風が吹いている。

2010年9月11日 (土)

わが抱く思想はすべて  その1

     わが抱く思想はすべて

     金なきに因するごとし

     秋の風吹く

<ことば> 「思想」=(後述) 「因する」=もとづく。原因する。(新潮現代国語辞典) 「ごとし」=はっきりと断定しないで、婉曲・不確実にいうのに用いられる。…ようだ。…ようである。(大辞林)

作歌は1910年(明43)9月9日夜。初出「創作」同年10月号。

「思想」は「①考え。意見。②〔哲〕思考作用の結果として生じた意識の内容。学理的統一の体系を備えた思考内容。」(新潮現代国語辞典)という2つの意味に大別される。

1910年末に「明治四十四年当用日記補遺」の「前年(四十三)中重要記事」の中に啄木はこう記している。

 思想上に於ては重大なる年なりき。予はこの年に於て予の性格、趣味、傾向を統一すべき一鎖鑰(さやく)を発見したり。社会主義問題これなり。予は特にこの問題について思考し、読書し、談話すること多かりき。

この場合の「社会主義(問題)」は②の「学理的統一の体系を備えた思考内容」の意味である。掲出歌の「思想」を岩城之徳氏が「ロシアのクロポトキンの無政府社会主義」であると言われる場合がまさにこの解釈である。しかしそれでは「わが抱く思想はすべて」が解けなくなってしまう。「社会主義」の外にもたくさんの「思想②」があって、それらのすべて、となってしまうからである。

上田博氏が「『思想』は人間の内面的秩序の別名」であると言われる場合も「思想②」系であることは明らかで岩城氏の解釈と同様のアポリアにはまってしまう。

木股知史氏は「思想の内容が、貧困を生み出す制度に対する批判であるとしても……」、と言われるので、氏の解釈される「思想」も②系のようである。

今井泰子氏は「『わが抱く思想』は、現実に反逆しそれを壊そうと願う気持ち。『思想』という堅い表現が、その憤怒の激しさと、それが作者の中ですでに論理化されていることを示唆」と言い(今井泰子-掲出歌頭注10)、さらに「『時代閉塞の現状』に展開されたような思想の意」と言われる(同-補注12)。今井氏の「思想」もあきらかに②系である。

わたくしも②系の「思想」だと思い、解釈に苦しんだ。「わが抱く思想はすべて」であるから「思想」はたくさんあるのである。それらの「すべて」なのである。②系の「思想」がたくさんあるわけがない。しかしそれらの「思想」を探り当てねばこの歌の解釈はできない。解釈の前提と解釈の内容が水と油のように相離反する。ついにこの歌を見るのも苦痛になって来た。

以下次回。

2010年9月 8日 (水)

男とうまれ男と交り  その2

     男とうまれ男と交り  その2

ここで今井・岩城両氏の評釈に返っていただくと、事実から遠いことがお分かりいただけるであろう。

職場では悪い待遇ではなかった。日増しに良くなっている。それに啄木にとって職場の地位など大した関心事ではなかった。啄木が当時競争心を燃やしていた関心事は小説だけと言ってよい。啄木最後の最高の小説「我等の一団と彼」も啄木自身の思想と社会認識の歩みが余りに早すぎて、執筆中に中断や構想の変更を何度か余儀なくされる。そしてこの秋には当面の中断を決意する。またしても執筆はうまくゆかなかった。詳しくは小著『『一握の砂』の研究』(おうふう)第Ⅱ部第三章「我等の一団と彼」から『一握の砂』へ、参照。

掲出歌にもどろう。誰に「負けて」いるのか。「友」にではない。「男」と交り負けていると言うのである。当時小説を書くのは男と相場が決まっていた。したがって「男」とは文壇(これは後にできた言葉であろうが)のめざましい作家たちのことであろう。鴎外・漱石・荷風・藤村・花袋・蘆花等がおり、岩野泡鳴、正宗白鳥等々当時一流の作家たちが含まれるであろう。かれらはみな原稿料で暮らせる人たちだ(鴎外は役人、荷風は大学教授でもあるが)。作家としての現状はかれらに後れることはなはだしい。作家として「男と交り」「負けてをり」なのである。

<訳>男としてこの世に生を受け、作家を志し、作家たちの中に入って行って抜きん出たいと思ったのだが、未だに会心作はできず、この度は最も自信をもって執筆した「我等の一団と彼」も失敗した。また負けた。作家としての自分の後れははなはだしい。そのせいだろうか、この秋が身に沁みる。
     

2010年9月 7日 (火)

男とうまれ男と交り  その1

     男とうまれ男と交り

     負けてをり

     かるがゆゑにや秋が身に沁む

<ルビ>沁む=しむ。
<ことば>かるがゆゑに=(斯〈カ〉有るが故に)の約で、「だから」の意。

作歌は1910年(明43)9月9日夜。初出「創作」同年10月号。

いつもの4氏の評釈を引かせていただくが、わたくしは「負けてをり」に関して4氏と解釈を異にする。特に今井・岩城両氏との相違は大きい。

今井泰子氏:「負けてをり」は、世に認められず、自分の能力を発揮することもできず、社会的に低い位置や貧窮に甘んじ、生活に追われて生きている意。また負けている激しい屈辱感。

岩城之徳氏:上京後小説家として身を立てることに失敗した啄木は、貧困と新聞社の校正係という低い社会的地位に甘んじなければならなかった。この一首はそうしたかなしみを秋のわびしさの中でとらえなおしたものである。

上田 博氏:人なつかしさを求めて誘い出されたり、深い淋しさにうち萎れてねぐらに舞い戻ってきたり。自分でも扱いかねる、こうした気分の昇降のうちに、とどのつまりは自分は「男とうまれ男と交」っては絶えず打ち負かされているのだとの思いに沈むのである。

木股知史氏:立身出世を原理とする明治社会にあって、自分は敗北者である。そのためか、秋という季節のさびしさが身にしみる、というのである。

職場では校正係に過ぎず不遇だったように今井・岩城両氏は書くが、1910年9月の啄木はおそらく事実上記者扱いだったと思われる。これは以下のような事情を考えた時出てくる推定である。

1909年11月~:普通の校正以外に二葉亭全集の校正も担当。

1910年1月19日:社会部長渋川玄耳に命じられて森鴎外宅へ取材に出かける。

同年3月から東京朝日紙上に新調(啄木調)短歌を乗せ始める。1回5首。以後8月16日まで24回掲載。

同年4月:主筆池辺三山から、二葉亭全集の校訂・編集を全面的に任され、販売方針まで意見を求められる。

同年4月:社会部長渋川玄耳から、新調の短歌を評価され「自己発展をはかるよう」励まされる。

同年7月下旬:評論「所謂今度の事」の記事原稿を当時夜勤編輯主任弓削田精一に渡す。当時とうてい発表できないこの原稿は弓削田の魂を撲ち、弓削田はその死の日まで自宅の筐底に秘め、時が来たら日の目を見せてくれと遺言した。(20年後の1951年に公開された。)

同年8月末=9月初め:近代評論の白眉の一編「時代閉塞の現状」を執筆、原稿をおそらく編集長佐藤真一に提出。佐藤は言論・思想弾圧が極点に達している当時掲載不可能と判断。

同年9月15日:8月までに短歌を24回(1回5首)載せたところで、(当時の歌の大家を尻目に)朝日歌壇の選者に抜擢される(9月9日以前に内示があったであろう)。

以下次回。

2010年9月 3日 (金)

ふがひなき

     

     ふがひなき

     わが日の本の女等を

     秋雨の夜にののしりしかな

<ルビ>秋雨=あきさめ。
<語意>日の本=日本。
これも作歌は1910年(明43)9月9日夜。初出「創作」同年10月号。
啄木が日本の女等を不甲斐ないという時、まずどんな点を念頭においているのか、これを見る必要がある。

この年9月号の「ムラサキ」に啄木は「知己の娘」という小文を載せている。知人が田舎から上京してきて、啄木に相談する。娘をどこの学校に入れるとよいのか、と。当の娘は目指す大学も、大学に進みたい理由も、なにか特別の才能もない。「つまりたゞ東京の大学に入りた」いだけなのである。啄木は絶望的な筆致で書く。
   女!女!私は今日の女の状態について考へる毎に、何が無しに周囲が見る見る暗くなつて行くやうな気がする。

この文章を書いたのは8月中旬か下旬と思われるが、その前の6月半ばに啄木は幸徳秋水の『平民主義』を読んでいる。啄木がその生涯でもっとも影響を受けた本のうちの1冊である。その中の「婦人と政治」という1文で秋水は要旨次のような論陣を張る。

<日露戦争が始まると、急にみんなが婦人たちも国家のために尽くせと言い始めた。しかしこれまでの日本社会は婦人を政治から完全に排除してきたではないか。政談演説を聴くことさえも禁じているではないか。その結果婦人たちもまた政治に完全に無関心である。男が女に、政治に関わるなと言えば「はい」と従い、今度は国家のために尽くせと言えばまた「はい」と従う。日本の婦人はまさに「茫(ぼう)々昏(こん)々として命是従ふのみ」である。それではいけない。国家とは何か、政治とは何か、婦人の権利利益とは何か、等を考えて為すべきことがあろう。欧米では多数の婦人が婦人参政権を要求してすでに立ち上がっている。参政権を獲得した国もある。われわれは日本の婦人たちが政治の戦場に進出し、奪われた権利・踏みにじられた利益を回復して日本社会の一勢力とならんことを望む。>

秋水がこれを書いたのは1904年(明37)5月、それから6年後、秋水は獄中にあり、世の女性たちは秋水にも秋水の呼びかけにも大逆事件にも全く無関心。「我が日の本の女等」の現状はまさに「知己の娘」のレベルだ。

啄木が「秋雨の夜にののし」ったのはこの現状だったと思われる。節子も「我が日の本の女等」の1人と啄木は見ているのであろう。たしかに当時の節子は啄木の思想上の巨歩にまったくついて行けないまま、日常生活に埋没している。

<解釈>欧米の女性たちとくらべると政治意識・権利意識が無惨に低く、男どもの作った体制に唯々諾々と従う日本の女たち(わが妻も含む)を、秋雨の夜友人との談論でののしったことだった。

啄木は21歳の時、釧路新聞(08年1月28日)に「新時代の婦人」というすぐれたフェミニズム論を書いている。これも合わせ読むと掲出歌はいっそう面白くなる(資料参照)。

「わが日の本の女等」の中に妻節子を含めて「ののし」った啄木だが、そしてそれは確かに節子にも当てはまるのだが、しかし、すでに書いたように節子は自律心のしっかりした女性である。「知己の娘」とはちがう。彼女の心の中に動いていることを、明察の人啄木は気づいていない。1年後に事件が起こる。

以上の見開き4首のモチーフは「妻をめぐる心」と言えよう。

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