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2010年9月 7日 (火)

男とうまれ男と交り  その1

     男とうまれ男と交り

     負けてをり

     かるがゆゑにや秋が身に沁む

<ルビ>沁む=しむ。
<ことば>かるがゆゑに=(斯〈カ〉有るが故に)の約で、「だから」の意。

作歌は1910年(明43)9月9日夜。初出「創作」同年10月号。

いつもの4氏の評釈を引かせていただくが、わたくしは「負けてをり」に関して4氏と解釈を異にする。特に今井・岩城両氏との相違は大きい。

今井泰子氏:「負けてをり」は、世に認められず、自分の能力を発揮することもできず、社会的に低い位置や貧窮に甘んじ、生活に追われて生きている意。また負けている激しい屈辱感。

岩城之徳氏:上京後小説家として身を立てることに失敗した啄木は、貧困と新聞社の校正係という低い社会的地位に甘んじなければならなかった。この一首はそうしたかなしみを秋のわびしさの中でとらえなおしたものである。

上田 博氏:人なつかしさを求めて誘い出されたり、深い淋しさにうち萎れてねぐらに舞い戻ってきたり。自分でも扱いかねる、こうした気分の昇降のうちに、とどのつまりは自分は「男とうまれ男と交」っては絶えず打ち負かされているのだとの思いに沈むのである。

木股知史氏:立身出世を原理とする明治社会にあって、自分は敗北者である。そのためか、秋という季節のさびしさが身にしみる、というのである。

職場では校正係に過ぎず不遇だったように今井・岩城両氏は書くが、1910年9月の啄木はおそらく事実上記者扱いだったと思われる。これは以下のような事情を考えた時出てくる推定である。

1909年11月~:普通の校正以外に二葉亭全集の校正も担当。

1910年1月19日:社会部長渋川玄耳に命じられて森鴎外宅へ取材に出かける。

同年3月から東京朝日紙上に新調(啄木調)短歌を乗せ始める。1回5首。以後8月16日まで24回掲載。

同年4月:主筆池辺三山から、二葉亭全集の校訂・編集を全面的に任され、販売方針まで意見を求められる。

同年4月:社会部長渋川玄耳から、新調の短歌を評価され「自己発展をはかるよう」励まされる。

同年7月下旬:評論「所謂今度の事」の記事原稿を当時夜勤編輯主任弓削田精一に渡す。当時とうてい発表できないこの原稿は弓削田の魂を撲ち、弓削田はその死の日まで自宅の筐底に秘め、時が来たら日の目を見せてくれと遺言した。(20年後の1951年に公開された。)

同年8月末=9月初め:近代評論の白眉の一編「時代閉塞の現状」を執筆、原稿をおそらく編集長佐藤真一に提出。佐藤は言論・思想弾圧が極点に達している当時掲載不可能と判断。

同年9月15日:8月までに短歌を24回(1回5首)載せたところで、(当時の歌の大家を尻目に)朝日歌壇の選者に抜擢される(9月9日以前に内示があったであろう)。

以下次回。

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