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2010年9月20日 (月)

秋の風  その1

これから読む「秋の風」のブログでは全く異なる2つの解釈を提示します。

第1の解釈は「彼のふやけたる男」が誰か分からなかった段階でそれを前提にした解釈です。ところがこれを書き上げた後になって、「彼のふやけたる男」の正体が分かりました。全く異なる新釈が突如として出現することになりました。第2の解釈です。

わたくしの解釈・評釈の仕方は、その歌をめぐる資料を考えられるかぎり総動員することから始めます。『石川啄木全集』全8巻が根幹資料です。それから啄木をめぐる諸家による厖大な諸研究(歳をとったので貴重な研究を失念していることがよくありますが)、それからわたくし自身の啄木研究の全て、等々に手がかりを求めます。そうして解釈しても、最善を尽くしたどの解釈でも、いかに不安定を内に抱えているか。それを今回の例でみなさんに見ていただきたいのです。わたくしは不可知論者でありませんから、研究対象の真実に無限に接近できると信じています。

研究とは発見です。しかしその発見(今の場合は解釈)は「もの」の出現によって消え去ったり、訂正されたりします。新しい化石・石器・遺跡等々の出現によって進化の過程や1国の歴史のある局面が塗り替えられて行く様をわれわれはいつも見ています。たった31文字の短歌といえども、似たことが起こりえます。ただしその短歌はそうした研究に値するものでなければなりませんが。わたくしは啄木短歌にそれだけの価値を見ています。>  

「秋の風  第1の解釈」   

     秋の風

     今日よりは彼のふやけたる男に

     口を利かじと思ふ

<ことば>ふやけたる=しまりがなく、軟弱である。

作歌は1910年(明43)9月9日夜。初出「創作」同年10月号。

「彼のふやけたる男」がむずかしい。例によって4氏の解釈を参考にさせていただこう。

今井泰子氏:啄木自身。自分の心の中に起こる種々の不平・未練・自己愛惜・悲しみ等々の感情……
岩城之徳氏:だらしない友人。
上田 博氏:自分の中に住んでいる……
木股知史氏:見知っている誰かと考えるよりは、歌の話者の内部に住んでいると見るほうが面白い。

この歌は9月9日夜の歌稿の2つ目の歌群(小論ではB歌群)に属する(前掲HP上の小論「石川啄木の韓国併合批判の歌 五首」参照)。黒インクで書かれたB歌群のモチーフは「韓国併合と時代閉塞の現状」批判であった。17首からなるこの歌群の最後の5首を引くと以下のようである。
 
 大海のその片隅につらなれる島々の上に秋の風吹く
 下らなき小説をかきてよろこべる男憐れなり初秋の風
 秋の風今日よりは彼のふやけたる男に口を利かじと思ふ
 男と生れ男と交り負けてをりかるが故にや秋が身にしむ
 マチすれば二尺許りの明るさの中をよぎれる白き蛾のあり

「下らなき小説」の歌と「男と生れ」の歌は小説関連の歌であった。この2つの歌に挟まれた「秋の風」の歌は「下らなき小説」の歌の結句「初秋の風」を受けて「秋の風」と読みはじめた気配がある。この歌も小説関連の歌なのではないか。とすると、「彼のふやけたる男」は小説に関係した人物なのではないか、と考えられる。

この男は今井氏等3氏のいうように啄木自身か、岩城氏のいうように他人か。どちらに解釈しても小説関係の人物であり得る。「下らなき小説をかきてよろこべる男」は啄木自身であった。「男と生れ男と交り負けて」いる男も啄木自身であった。となると間に挟まれた歌の「彼のふやけたる男」=啄木説が有力となる。

そう仮定したとき啄木は「彼のふやけたる男」に小説関係のどんな自己を見ていたのかという問題が出てくる。

以下次回。

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