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2010年10月

2010年10月24日 (日)

やとばかり

     

     やとばかり

     桂首相に手とられし夢みて覚め

     秋の夜の二時

<ことば> や=かけ声やはやし声。また、気合いの声。ばかり=「…とばかり」の形で、言葉ではいわないが、様子でそれを示していることを表す。(以上新潮現代国語辞典) したがって「やとばかり」はものも言わず力を入れて。桂首相=時の首相桂太郎。手=両肩から指先に至る間の総称。

作歌は1910年(明43)9月9日夜。初出「創作」同年10月号。

「や」について。1908年6月25日夜に啄木の作った歌に「やよ柱力角(ちからづく)せむや(や=傍点あり)といひて汗出づるまで推せど動かず」とあり、ここの「や」は気合いの声。掲出歌の「や」も同じく気合いの声である。したがって「やとばかり」によって強い力でつかむすごい目つきをした桂首相が表現されている。

「桂首相」は1908年(明41)7月14日、山県有朋による西園寺公望内閣「毒殺」の後を受けて、第2次桂内閣を組閣(~1911年8月25日)。桂は日本軍国主義の始祖ともいうべき山県を継ぐ軍人で現役陸軍大将でもあった。かれこそ大逆事件という国家テロ・韓国併合・思想言論に対する猛烈な弾圧の、つまり強権政治の、最高責任者であった。啄木は桂を「帯剣政治家」とよび平出修は桂の政治を「軍政政治」と呼んだ(啄木の修あて書簡1911.1.22)。

「手」は手首か腕であろう。「手とられし」は「腕をつかまれた」ととっておこう。

<解釈>いきなり強い力で桂首相に腕をつかまれた。びっくりして目が覚めた。秋の夜の2時だった。(「強権」との闘いを呼びかける文章を書いたばかりだからだろうか。強権政治の親玉が怖い目をして夢に現れたのだった。)

「我を愛する歌」のプロローグ「東海の小島の磯の」は2つの意味を持つのであった。その第2の意味こうだった。「世界の極東に位置する日本の、東京のとある片隅で、時代閉塞の現状の下、意に満たぬ日々を送るぼくは、心の遣り場を歌作りに求めるのだ。」

これに対して掲出歌は、時代閉塞の現状下強権との有効な闘いもできず、こんな夢を見る自分を歌う。

こうして両歌は照応する。

2010年10月20日 (水)

誰そ我に  その2

     

     誰そ我に  その2

わたくしは次のように解釈します。

伊藤がハルビン駅頭でアンジュングンに狙撃されたのは1909年10月26日午前9時。午前10時に絶命します。このニュースは午後3時には日本に伝わりものすごい衝撃を与えます。

「百回通信」16、17、18において、啄木は伊藤の死を哀悼し、伊藤の政治家としての生涯・業績を誉め讃え、人柄の魅力を語ります(資料参照)。他方で暗殺者アンジュングンに篤い同情を表明します。

東京朝日新聞に歌を「読人不知」との署名で投稿し9首が載ります。そのうち最後の1首はつぎの歌です。 
  しかはあれ君のごとくに死ぬことは我が年ごろの願ひなりしかな

掲出歌と「地図の上」の歌の関係は、「百回通信」16、17、18の構造と本質的に変わりありません。したがって掲出歌は「しかはあれ」の歌を内容的に受けついでいると見なし得ます。

1909年(明42)10月の啄木と1910年(明43)の啄木とでは社会認識において、飛躍的な変化があります。大逆事件が間にはさまるからです。たとえば桂太郎首相に対しては親愛的態度からきびしい批判的態度へと変わります。

しかし、伊藤に関しては、幕末における志士・明治期における最大の政治家という認識に変わりはなかったと思われます。そしてその認識は21世紀の現代にあっても基本的に正しいでしょう。(仮に伊藤の朝鮮政策に対して批判的になっていたとしても、伊藤の死に方に対する賛嘆の念の変わらなかったことは、掲出歌が逆に証明している、とも言えます。)

<解釈>(「何事も金金」の不平ではないけれど、わたしは近頃かなりの「危険思想」の持ち主になって来た。この調子で進んで行くと将来国事に奔走するようになるかも知れない。そして誰かに狙われるかも知れない、あの伊藤公のように。こんなことに空想が及んでふと思った。)だれかわたしにピストルか銃を向けて撃ってみろよ。そのときはきっと伊藤のように美事に死んで見せよう(と)。

2010年10月16日 (土)

誰そ我に  その1

     

     誰そ我に

     ピストルにても撃てよかし

     伊藤のごとく死にて見せなむ

<ルビ>誰=た。

<語意>かし=助詞で、念を押し意味を強める。伊藤=伊藤博文。

作歌は1910年(明43)9月9日夜。初出「創作」同年10月号。

歌稿ノート9月9日夜の39首中6首目が「何事も金金とわらひ」で7首目がこの歌です。

つまり作歌時の順序と『一握の砂』における順序が同じ、というめずらしい例です。
前歌の評釈をしてみて思ったのですが、この2つの歌は内容でもつながっているようです。

この歌理解のキーワードは「伊藤」です。

伊藤博文(1841~1909)は木戸孝允・大久保利通亡き後の、近代日本最大の政治家です。これが伊藤の主要な側面ですが、他方で韓国に対しては帝国主義者として高圧的威嚇的に相対しました。日本帝国主義の代表として韓国に乗り込み韓国の主権を絞め殺した張本人です。韓国・朝鮮の人々にとっては当時も今も伊藤は不倶戴天の敵です。

ところが啄木は掲出歌のように伊藤を英雄的にうたいます。他方で
  地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く
という名歌もつくります。朝鮮国が植民地化されたことを悼み、朝鮮の人々の苦難に篤い同情を寄せます。

このような両面性が掲出歌の解釈を困難にしてきました。木股知史氏が解釈史を簡潔にまとめています(『和歌文学大系 77』明治書院、415~416ページ。資料参照)。

以下次回。

2010年10月13日 (水)

何事も金金とわらひ

     

     何事も金金とわらひ

     すこし経て

     またも俄かに不平つのり来

<ルビ>金金=かねかね。俄か=にはか。来=く。
<語意>不平=心が満たされず、おだやかでないこと。

作歌は1910年(明43)9月9日夜。初出「創作」同年10月号。

作歌時は「何事も金々といひて笑ひけり不平のかぎりぶちまけし後」

「何事も金金」は「世の中のことは何事も金だ、金」ということでしょう。ことわざの「金の世の中」とか「いずこの沙汰も金次第」などを思い出させます。

啄木の「貧乏」は有名で誰でも知っていますが、2つの時期に分けてその「貧乏」を考えてみる必要があります。

1、金を稼ぐことよりも自分の文学活動を優先した時代。1902年(明35)11月~1909年(明42)8月。

2、家族のために働くことを第1とし、自分の文学活動を第2の位置においた時代。1909年(明42)9月~1912年(明45)4月(つまり没年まで。ただし11年2月不治の病に倒れ以後病床にあり。)

2の時期に当たる10年(明43)12月21日づけ宮崎郁雨あての手紙から引きましょう。

 昨日社から賞与を五十四円貰つた、子供の葬式、野辺地の老僧が死んで父が行つて来た時のおくれ(先延ばしにしてきた支払い)、それから例の君も知つてる筈の下宿屋(蓋平館)ののこり(月賦5円)、そんなのを払つたら今朝はもうない、この歳暮の財政は何う勘定しなほしてみても二十五円許り足らない、僕の頭は暗い、つくづく厭になつた、来年から家計の独立を謀らうと思つて、月十円の金が欲しさに夜勤もやつた、然しもう厭になつた、年でも改まればまた元気も出るかも知れないが、少くとも今の所では僕は何もかも厭だ、一年間保険付といふ枕時計を去年の十月買つたつけが、一年過ぎたら正直にも先月から狂い出した、止つて止つてしやうがないので、シコタマ石油を注(さ)してやつたところが、今度は一時間に十五分から二十分位進む、狂つた時計に対して僕には悲しい思ひがある、油! 油! 油!

もう1年以上啄木は孜々として働いてきました。そしてボーナスが54円(これは当時としては高額)も入ったのに一夜にして消えています。無駄づかいの形跡は見えません。砂地が水を吸い込むようにただ消えています。(12月初めに出た『一握の砂』は今日なら大ベストセラーになり、何億円も入るところですが、東雲堂に20円で買い上げられ、それはもう妻の出産費用に消えています。)
歌の内容はこの手紙よりはやい9月か8月のことでしょう。でも本質的な事情は手紙の12月と変わらないでしょう。まったく「はたらけど/はたらけど猶わが生活楽にならざり」です。

掲出歌で啄木は貧乏を嘆いているのではありません。父母への孝行にも金、妻への愛情にも金、子を養うにも金、子供が死んで金、世話になった伯父が死んで金、妻が病気で金、母が病気で金、原稿用紙やインクに金、机上のランプに金・・・・。

自分のほとんど全活力は金を稼ぐことに費やされ、残るのはひどい徒労感のみ。

啄木は先に述べた「家族のために働くことを第1とし、自分の文学活動を第2の位置にお」く生活を「二重の生活」と呼んでいます。そして第二歌論「歌のいろいろ」にこう書いています。

 (現状に)忍従し、それに屈服して、惨(いた)ましき二重の生活を続けて行く外に此の世に生きる方法を有(も)たないではないか。自分でも色々自分に弁解しては見るものの、私の生活は矢張り現在の家族制度、階級制度、資本制度、知識売買制度の犠牲である。

「またも俄かに不平つのり来」の「不平」の基底には社会科学研究によって培われ社会認識があるのです。

<解釈>「世の中のことは何事も金だ、金」と不平を鳴らして笑ってみたものの、笑って済ますには現実はあまりにむごい。少し考えているとまたしても、私に二重生活を強いる現実への不平がつのって来ることだ。

2010年10月 9日 (土)

何事も思ふことなく

     

     何事も思ふことなく

     いそがしく

     暮らせし一日を忘れじと思ふ

<ルビ>一日=ひとひ。
初出『一握の砂』、したがって作歌は同年10月4日~16日。

歌の中の「一日」はいつの一日なのか。前歌と同じく、作歌時に近い10月中のある日なのか、あるいは記憶の中の過去の一日なのか。

ちょっと迷うところですが、72ページからは1910年10月現在に近い歌ばかりを並べていますから、この歌も同様と見なせましょう。

ところでこの歌から受ける印象は次のどちらでしょう。

1、朝起きてから午前中一仕事して、昼から出社・勤務・退社、夜帰宅して食事そしてまた仕事といったように、「いそがしく暮ら」した1日。

2、休日に家で『一握の砂』の歌々を作ったり、編集したりして同じ仕事内容に没頭して「いそがしく暮ら」した1日。

わたくしは、仕事の時間も内容も途切れることなく続いた1日つまり2の方をとります。

テキストの解説中の「『一握の砂』ができるまで」(315ページ)をご覧下さい。出勤日も休日もものすごい仕事をしていますが、休日の「仕事」の集中・持続は超人的であったと推定されます。

<解釈>(閉塞状況に息が詰まる日本の日常だけれど)『一握の砂』を創り出す、これ以外のことは何にも思わず、ただひたすら忙しくその仕事に集中したこの一日があったことを、忘れまいと思う。

2010年10月 8日 (金)

はても見えぬ

     

     はても見えぬ

     真直ぐの街をあゆむごとき

     こころを今日は持ちえたるかな

<ルビ>真直(ぐ)=ます(ぐ)。

<語意>街=商店の立ち並んだにぎやかな通り。

作歌1910年(明43)10月13日、4句「心をけふも」。初出「精神修養」同年12月号、3・4句「行くごとき心を今日は」。

「今日は」ですから、いつもは逆だとだと言うのでしょう。閉塞感を覚えることの多い日々だけれど、「今日は」歌のような気分を覚えるというのでしょう。作歌時のように「心をけふも」であっても、「いつも」ではなく「ここ2、3日は」という限定した日々を示唆しているでしょう。

「はても見えぬ真直ぐの街」とはどんな街か。「街」が語意欄にあるような意味であることを前提にすれば、往来する人の多い時間帯では意味をなさなくなります。朝早くとか、人出前のひと時でしょう。

比喩だからそんなにこだわらなくてもいいのですが、城下町江戸から発展した100年前の都市・東京からはイメージしにくい「街」ではあります。でも啄木にこううたわれると、そんな街が世界のどこかきっとありそうな気がしてきます。

「はても見えぬ真直ぐの街をあゆむごとき」とは爽やかで、遠大で、自信の漲る心の比喩となっています。

さて、歌の解釈ですが4句が「今日は」であれ、「けふも」であれ、作歌時に近い10月中のある日の心境ととっていいでしょう。上の比喩に照応するその時期の心境として考えられるのは、創造が完成に近づいた『一握の砂』の手応えではないかと推測されます。

これがいかにすぐれた歌集であるかは、テキストの「まえがき」「『一握の砂』の特質」で述べてあります。ご覧ください。啄木ほどに明敏な人は自分の歌集が空前絶後の歌集であることを直観していたと思います。それが掲出歌のような心を時として抱かせたのでしょう。

<解釈>(いよいよわが第一歌集『一握の砂』の完成も間近だ。歌の1首1首のでき、新しさ、三行書きの意義、編集・割付における仕掛け等々、これは空前絶後の歌集になるだろう。そう考えると時代閉塞の現状下に鬱屈しがちな自分も)今日という日は、はても見えぬ真っ直ぐな市街を一歩一歩あゆんで行くような心を持ち得たことだよ。

2010年10月 1日 (金)

秋の風  その4

     

     秋の風  その4

「女郎買の歌」とは「創作」1910年8月号に載った近藤元の短歌「黄と赤と青の影画」34首を指す。近藤は当時満20歳の青年歌人。以下に啄木文の核心部分を引く。

  潮なりの満ちし遊廓(くるわ)にかろがろとわれ投げ入れしゴム輪の車
  潮なりにいたくおびゆる神経をしづめかねつゝ女をば待つ
  新内の遠く流してゆきしあと涙ながして女をおこす
といふやうな歌がある、潮鳴りの満ちし遊廓
(くるわ)といふと先づ洲崎あたりだらう、洲崎! 洲崎! 実にこの歌は洲崎遊廓へ女郎買ひに行つた歌だつたのだ。
  寝入りたる女の身をば今一度思へば夏の夜は白みけり
といふのがある。
  やはらかきこの心持明け方を女にそむき一しきり寝る
といふのがある、若し夫れ
  空黄色にぽうつと燃ゆる翌朝のたゆき瞼をとぢてたゝずむ
に至つては何うだ。聞く所によると作者近藤元といふ歌人はまだ下宿住ひをしてゐる廿一二の少年なさうだ、さうして同じ雑誌には又この人の第二歌集『凡ての呼吸』の予告が出てゐる、其広告文の中に次のやうな一節がある。

 狂ほへる酒に夢みる情緒と、あたゝかき抱擁に微睡ろむ官能とは、時来るや突如として眼覚め、振蕩して微妙なる音楽を節奏し、閃めき来つて恍惚たる絵画を点綴す。
 著者は糜爛せる文明が生める不幸児なり。本書は現実に浮かび出でんと藻掻きながらも底深くいや沈みゆく著者の苦しき呼吸なり、凡ての呼吸なり。最も新しき短歌を知らんと欲する人々にこの集を薦む。

糜爛せる文明の不幸児! 最も新らしき短歌! プウ! 『現代人の疲労』といふべらんめえ君の一文を読んだ人は此処に最もよい例を見出したであらう、記者はたヾ記者の驚きを読者に伝へるまでヾある、次の時代といふものに就いての科学的、組織的考察の自由を奪はれてゐる日本の社会に於ては斯ういふ自滅的、頽唐的なる不健全な傾向が日一日若い人達の心を侵蝕しヽあるといふ事を指摘したまでヾある。(△△△)

斎藤三郎によるとこの1文はかなりの反響を呼び6雑誌1新聞で取り上げられた。ほとんどが記者つまり啄木を支持した。それらの批判の要所は近藤の作歌態度の軽佻浮薄という点にある。

啄木の批判にもっともおどろいたのは当の近藤元であった。かれは「創作」9月号に「自己弁護数則」という文章を寄せた。そのふやけた文章中の1箇所を抜いてみよう。全体は推して知るべし。

 僕の歌にデツプスがないと諸君はいふが、女を抱いて客観だなんて馬鹿な真似は出来ない。それより生命限り可愛がり、可愛がられて泣く方がましだ。そこにデップスも何もない。僕はまだ若い。若い生命を飽く迄誇りたい。

「デップス」はdepthで「深み」の意味であろう。ついでにもう1箇所。この近藤元という男、自分の女郎買いの歌と晶子の『みだれ髪』の傑作を並べて見ているらしい。

 詩歌と肉体の関係が、一番よく現はれて居るのはやはり晶子だ、何時も訪ねてゆくと、露台に干してある夜衣の裏の緋金巾、対座するのにだらりと投げ出すやうに座られるところ、笑みを含む唇のあたりのしまりなさ、僕は嬉しくつてたまらない。さう思つて晶子の歌を読んで見給へ、ほんとうにうまいのが解る。

晶子を尊敬し、晶子の歌を了解し評価し愛する啄木にはもはや絶句しかなかったことだろう。

啄木はこの「自己弁護数則」を9月上旬に読み、9月9日に掲出歌を作ったのである。

<解釈>爽やかな秋の風によって心が新たになったぼくは、これを機に青年詩人を称するだらけてしまりのない近藤元のような輩とは縁を切ろうと思う。

第1の解釈と第2の解釈は総合できると思うが、それを考えている時間がない。そのうち「秋の風 その5」で論じたい。次の歌の原稿がすでに以前からできてるのでこれを次回のブログに載せたいと思う。

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