« 秋の風  その3 | トップページ | はても見えぬ »

2010年10月 1日 (金)

秋の風  その4

     

     秋の風  その4

「女郎買の歌」とは「創作」1910年8月号に載った近藤元の短歌「黄と赤と青の影画」34首を指す。近藤は当時満20歳の青年歌人。以下に啄木文の核心部分を引く。

  潮なりの満ちし遊廓(くるわ)にかろがろとわれ投げ入れしゴム輪の車
  潮なりにいたくおびゆる神経をしづめかねつゝ女をば待つ
  新内の遠く流してゆきしあと涙ながして女をおこす
といふやうな歌がある、潮鳴りの満ちし遊廓
(くるわ)といふと先づ洲崎あたりだらう、洲崎! 洲崎! 実にこの歌は洲崎遊廓へ女郎買ひに行つた歌だつたのだ。
  寝入りたる女の身をば今一度思へば夏の夜は白みけり
といふのがある。
  やはらかきこの心持明け方を女にそむき一しきり寝る
といふのがある、若し夫れ
  空黄色にぽうつと燃ゆる翌朝のたゆき瞼をとぢてたゝずむ
に至つては何うだ。聞く所によると作者近藤元といふ歌人はまだ下宿住ひをしてゐる廿一二の少年なさうだ、さうして同じ雑誌には又この人の第二歌集『凡ての呼吸』の予告が出てゐる、其広告文の中に次のやうな一節がある。

 狂ほへる酒に夢みる情緒と、あたゝかき抱擁に微睡ろむ官能とは、時来るや突如として眼覚め、振蕩して微妙なる音楽を節奏し、閃めき来つて恍惚たる絵画を点綴す。
 著者は糜爛せる文明が生める不幸児なり。本書は現実に浮かび出でんと藻掻きながらも底深くいや沈みゆく著者の苦しき呼吸なり、凡ての呼吸なり。最も新しき短歌を知らんと欲する人々にこの集を薦む。

糜爛せる文明の不幸児! 最も新らしき短歌! プウ! 『現代人の疲労』といふべらんめえ君の一文を読んだ人は此処に最もよい例を見出したであらう、記者はたヾ記者の驚きを読者に伝へるまでヾある、次の時代といふものに就いての科学的、組織的考察の自由を奪はれてゐる日本の社会に於ては斯ういふ自滅的、頽唐的なる不健全な傾向が日一日若い人達の心を侵蝕しヽあるといふ事を指摘したまでヾある。(△△△)

斎藤三郎によるとこの1文はかなりの反響を呼び6雑誌1新聞で取り上げられた。ほとんどが記者つまり啄木を支持した。それらの批判の要所は近藤の作歌態度の軽佻浮薄という点にある。

啄木の批判にもっともおどろいたのは当の近藤元であった。かれは「創作」9月号に「自己弁護数則」という文章を寄せた。そのふやけた文章中の1箇所を抜いてみよう。全体は推して知るべし。

 僕の歌にデツプスがないと諸君はいふが、女を抱いて客観だなんて馬鹿な真似は出来ない。それより生命限り可愛がり、可愛がられて泣く方がましだ。そこにデップスも何もない。僕はまだ若い。若い生命を飽く迄誇りたい。

「デップス」はdepthで「深み」の意味であろう。ついでにもう1箇所。この近藤元という男、自分の女郎買いの歌と晶子の『みだれ髪』の傑作を並べて見ているらしい。

 詩歌と肉体の関係が、一番よく現はれて居るのはやはり晶子だ、何時も訪ねてゆくと、露台に干してある夜衣の裏の緋金巾、対座するのにだらりと投げ出すやうに座られるところ、笑みを含む唇のあたりのしまりなさ、僕は嬉しくつてたまらない。さう思つて晶子の歌を読んで見給へ、ほんとうにうまいのが解る。

晶子を尊敬し、晶子の歌を了解し評価し愛する啄木にはもはや絶句しかなかったことだろう。

啄木はこの「自己弁護数則」を9月上旬に読み、9月9日に掲出歌を作ったのである。

<解釈>爽やかな秋の風によって心が新たになったぼくは、これを機に青年詩人を称するだらけてしまりのない近藤元のような輩とは縁を切ろうと思う。

第1の解釈と第2の解釈は総合できると思うが、それを考えている時間がない。そのうち「秋の風 その5」で論じたい。次の歌の原稿がすでに以前からできてるのでこれを次回のブログに載せたいと思う。

« 秋の風  その3 | トップページ | はても見えぬ »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/533861/49595472

この記事へのトラックバック一覧です: 秋の風  その4:

« 秋の風  その3 | トップページ | はても見えぬ »