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2010年10月 8日 (金)

はても見えぬ

     

     はても見えぬ

     真直ぐの街をあゆむごとき

     こころを今日は持ちえたるかな

<ルビ>真直(ぐ)=ます(ぐ)。

<語意>街=商店の立ち並んだにぎやかな通り。

作歌1910年(明43)10月13日、4句「心をけふも」。初出「精神修養」同年12月号、3・4句「行くごとき心を今日は」。

「今日は」ですから、いつもは逆だとだと言うのでしょう。閉塞感を覚えることの多い日々だけれど、「今日は」歌のような気分を覚えるというのでしょう。作歌時のように「心をけふも」であっても、「いつも」ではなく「ここ2、3日は」という限定した日々を示唆しているでしょう。

「はても見えぬ真直ぐの街」とはどんな街か。「街」が語意欄にあるような意味であることを前提にすれば、往来する人の多い時間帯では意味をなさなくなります。朝早くとか、人出前のひと時でしょう。

比喩だからそんなにこだわらなくてもいいのですが、城下町江戸から発展した100年前の都市・東京からはイメージしにくい「街」ではあります。でも啄木にこううたわれると、そんな街が世界のどこかきっとありそうな気がしてきます。

「はても見えぬ真直ぐの街をあゆむごとき」とは爽やかで、遠大で、自信の漲る心の比喩となっています。

さて、歌の解釈ですが4句が「今日は」であれ、「けふも」であれ、作歌時に近い10月中のある日の心境ととっていいでしょう。上の比喩に照応するその時期の心境として考えられるのは、創造が完成に近づいた『一握の砂』の手応えではないかと推測されます。

これがいかにすぐれた歌集であるかは、テキストの「まえがき」「『一握の砂』の特質」で述べてあります。ご覧ください。啄木ほどに明敏な人は自分の歌集が空前絶後の歌集であることを直観していたと思います。それが掲出歌のような心を時として抱かせたのでしょう。

<解釈>(いよいよわが第一歌集『一握の砂』の完成も間近だ。歌の1首1首のでき、新しさ、三行書きの意義、編集・割付における仕掛け等々、これは空前絶後の歌集になるだろう。そう考えると時代閉塞の現状下に鬱屈しがちな自分も)今日という日は、はても見えぬ真っ直ぐな市街を一歩一歩あゆんで行くような心を持ち得たことだよ。

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