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2011年4月26日 (火)

「我を愛する歌」の研究 2

前回の「ブログを再開します」を、「『我を愛する歌』の研究 1」とし、今回を2とします。

1首1首の評釈を積み重ねてゆくうちに、驚くべき事が見え始めた。
多くの場合見開き4首毎にまたは見開き各頁の2首毎に啄木はなんらかの編集上の工夫を用意しているのだった。たとえば、
1、見開き2ページ4首(または各1ページ2首)の歌を共通の主題で編集する。
2、見開き2ページ4首(または各1ページ2首)の歌を主題の、流れ・対照性・構造性を考慮して編集する。
3、孤立した1首が出てそれを捨てかねる時は、あたらしく歌を作って補充し、あたらしい見開き2ページ4首をつくる。
等。

これらを【注解】として、各見開き2ページ4首(または各1ページ2首)分の【解釈】の最後に示した。

【注解】の内実は多様で複雑である。11ページ以後の135首は1908~1910年の3年間のいろいろな時期に思いつくままに作られたのである。歌論「一利己主義者と友人との対話」に啄木は次のように書いた。

 人は歌の形は小さくて不便だといふが、おれは小さいから却つて便利だと思つてゐる。さうぢやないか。人は誰でも、その時が過ぎてしまへば間もなく忘れるやうな、乃至は長く忘れずにゐるにしても、それを言ひ出すには余り接穂(つぎほ)がなくてとうとう一生言ひ出さずにしまふといふやうな、内から外からの数限りなき感じを、後から後からと常に経験してゐる。多くの人はそれを軽蔑してゐる。軽蔑しないまでも殆ど無関心にエスケープしてゐる。しかしいのちを愛する者はそれを軽蔑することが出来ない。
 …………
 さうさ。一生に二度とは帰つて来ないいのちの一秒だ。おれはその一秒がいとしい。たゞ逃がしてやりたくない。それを現すには、形が小さくて、手間暇(てまひま)のいらない歌が一番便利なのだ。実際便利だからね。歌といふ詩形を持つてるといふことは、我々日本人の少ししか持たない幸福のうちの一つだよ。……おれはいのちを愛するから歌を作る。おれ自身が何よりも可愛いから歌を作る。

最後の「おれはいのちを」以下の2つのセンテンスをつづめたのが「我を愛する歌」という章題なのである 。そして歌論の引用部分をもっとも典型的に実践したのが「我を愛する歌」の歌々なのである。

こうしてできた(しかも3年にわたる)歌々を4首4首にきっちりと分類できるはずはなかろう。しかし啄木は「我を愛する歌」を編むにあたって見開き4首(または1ページ2首)毎になんらかの関連性を持つ歌々を配置しようとした。それも常人の何十倍も高速に回転する例の頭脳で瞬時に編集した場合もあったであろう。すこし時間がかかった場合もあったであろう。それどころかこの章に残したいが互いに関連性をもたない(同じ見開きには配列できない)歌々を生かすために、『一握の砂』編集の最後の最後に26首も作りその大部分をこの章の10の見開きに割り振ったりもした 。

そうした時に啄木の頭脳に働いた編集意識あるいは編集意図を【注解】で示そうとしたのである。

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