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2011年7月16日 (土)

「我を愛する歌」の研究 40

76―77ページ

     はても見えぬ
     真直ぐの街をあゆむごとき
     こころを今日は持ちえたるかな

【解釈】(いよいよわが第一歌集『一握の砂』の完成も間近だ。歌の1首1首のでき、新しさ、三行書きの意義、編集・割付における仕掛け等々、これは空前絶後の歌集になるだろう。そう考えると時代閉塞の現状下に鬱屈しがちな自分も)今日という日は、はても見えぬ真っ直ぐな市街を一歩一歩あゆんで行くような心を持ち得たことだよ。

     何事も思ふことなく
     いそがしく
     暮らせし一日を忘れじと思ふ

【解釈】(閉塞状況に息が詰まる日本の日常だけれど)『一握の砂』を創り出す、これ以外のことは何にも思わず、ただひたすら忙しくその仕事に集中したこの一日があったことを、忘れまいと思う。

     何事も金金とわらひ
     すこし経て
     またも俄かに不平つのり来

【解釈】「世の中のことは何事も金だ、金」と不平を鳴らして笑ってみたものの、笑って済ますには現実はあまりにむごい。少し考えているとまたしても、私に二重生活を強いる現実への不平がつのって来ることだ。

     誰そ我に
     ピストルにても撃てよかし
     伊藤のごとく死にて見せなむ

【解釈】(「何事も金金」の不平ではないけれど、わたしは近頃かなりの「危険思想」の持ち主になって来た。この調子で進んで行くと将来国事に奔走するようになるかも知れない。そして誰かに狙われるかも知れない、あの伊藤公のように。こんなことに空想が及んでふと思った。)だれかわたしにピストルか銃を向けて撃ってみろよ。そのときはきっと伊藤のように美事に死んで見せよう(と)。

注解】p.76の2首は「ある日の壮快な心」。p.77右は「不平」をうたい→危険思想→伊藤暗殺という連想の下、左の伊藤博文歌を登場させる。この歌はエピローグ「桂首相」の歌を導き出すための仕掛けとなる。

   <ブログをお読みいただくに際してのお願い>

このブログの勘どころは【注解】にあります。いつも【注解】にご注目の上、次の2点を実行してください。

朝日文庫版のテキストに帰って啄木の編集・割付の巧緻を、さらに組版(字体を含む)の妙を味わってください。

【解釈】は【注解】の理解に必要最小限の内容です。【解釈】をほんとうに理解するためには右のマイリストから「石川啄木著『一握の砂』を読む」に行き、「『一握の砂』全歌評釈」の当該歌に当たってください。

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