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2011年8月

2011年8月30日 (火)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 19

「ぢつとして寝ていらつしやいと」の歌以後の表記に注目されたい。

先に述べた第2次表記(3行中の1行または2行の頭を1字下げる表記)がこの歌集ではこの歌から始まるのである。

ちなみにこのような表記を創始したのは啄木ではない。土岐哀果である。

土岐は1910年(明43)の「創作」11月号に「書斎と市街」35首を載せた時、この斬新な三行書きを実践している(ただし土岐の三行書きには啄木のように明確な目的・目標がない)。

さて、啄木は3月19日以降6月初めまで歌を作らない。その間のかれを瞥見しておこう。

2011年8月28日 (日)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 18

2月26日は終日40度の熱が下がらない。「夜氷嚢のお蔭にて眠る」と日記にある。

3月1日の日記には「夜は氷嚢をあてゝ眠るを例とす」とある。

3月3日「右の肋膜に水がたまつたといふことだ」。結核性胸膜炎であろう。

3月15日退院。

「寝つつ読む本の重さに」(120)までが入院中の歌、「今日は、なぜか、」(121)以下「氷嚢のとけて温めば、」(128)までが退院後の在宅療養中の歌と考えられる。

(以後も平癒することなく在宅療養生活がその死まで続くことになる。)

2011年8月26日 (金)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 17

2月17日、当時大逆事件の余波で国会は南北朝正閏問題で紛糾していたが、政府攻撃するはずの藤沢元造代議士が桂太郎に籠絡されて、行方をくらました。啄木は藤沢に同情し、事件に憤慨する。

ここもすべて入院中の作歌で、「創作」に送られた。病気は小康状態にある。

「ぢつとして寝ていらつしやいと」(113)~「氷嚢のとけて温めば、」(128)は2月20日~3月18日の間の作。

病院ではドイツ語の勉強を再開したり、P.クロポトキンの『一革命家の手記』(英書)を読みはじめたり、歌を作ったり、見舞いの友人と議論したり、朝日歌壇の仕事をしたり、と活動的だが、2月25日夜発熱。

2011年8月24日 (水)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 16

「ふくれたる腹を撫でつつ、」(97)~「何か一つ」(112)は2月19日の作。

2月13日「体重十一貫六百五十八匁(内三百五匁九分は衣服、以下皆同じ)一週間前に比し百瓦(二十六匁六)の増加」などと記す。衣服無しの体重は換算すると42.5キロ。

ちなみに啄木の身長は158センチ、健康時の体重は45キロ。

妻子が、友人たちが、見舞いに来る。あちこちに手紙を書く。青山博士の回診で(慢性腹膜炎以外の)「余病がない」との診断があり、結核室をでて12人もの患者のいる5号室にはいる。

ちなみに青山胤通博士は当時の日本における内科学の権威である。その診断で結核患者ではないと診断されたのである。

2011年8月22日 (月)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 15

1月24日幸徳秋水等に死刑執行。夜帰宅後「日本無政府主義者隠謀事件経過及附帯現象」をまとめる。

「生まれたといふ葉書みて」と「そうれみろ、」(83、84)は金田一京助長女の誕生を祝う歌。
「ドア推してひと足出れば、」(86)~「何となく自分をえらい人のやうに」(96)は2月4日~12日の間に作られた。

2月1日東大病院で診察してもらったところ「慢性腹膜炎」と診断される(症状・経過から見て現代の専門家は結核性腹膜炎であったと推定)。

2月3日若山牧水が啄木宅を初訪問。

2月4日施療患者(貧しくて入院費を払えない病人)として東大病院に入院。部屋は青山(胤通)内科の18号室。結核病棟である。

いよいよ病床詠がはじまる。おそらく最初の1首も含め、すべてが入院生活の歌である。

以上の歌々は「文章世界」(博文館)と「早稲田文学」に送られた。

2011年8月20日 (土)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 14

1月8日東京朝日新聞に「このごろ」8首が載る。

「手を打ちて」(49)~「ひと晩に咲かせてみむと、」(66)は1月17日に作られた。

うち16首に前作4首を合わせ20首を「創作」に送稿。

1月13日土岐哀果と初対面、自宅に伴って歓談。文芸思想雑誌「樹木と果実」発刊を相談。

大逆事件の影響の表れた歌(55、56)、議会を批判した歌(65)など思想家啄木の表出した作品が含まれている。

1月18日幸徳事件の被告たちに対し残忍苛酷な判決が下る。

「あやまちて茶碗をこはし、」(67)~「『石川はふびんな奴だ。』」(85)は1月22日~2月3日の間に作られた。

「樹木と果実」発刊に向けて土岐・丸谷喜市・並木武雄らとの相談活発。

2011年8月18日 (木)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 13

1911年(明44)になった。     

  過ぎゆける一年のつかれ出しものか、
  元日といふに
  うとうと眠し。                45            

まだ心身の疲れは抜けないらしい。

「精神修養」「早稲田文学」「秀才文壇」「創作」4誌の1月号に啄木の歌々が載る。

東京朝日新聞紙上の「啄木歌壇」の盛況といい雑誌からの注文の多さといい、啄木短歌は今花開いたことを知らせている。

正月の3日、幸徳事件の法廷で12月下旬に大弁論を展開した弁護士平出修と与謝野家に年始の挨拶に行く。

平出の家で幸徳事件の裁判に関する生々しい情報を聞く。

東京朝日新聞社に出社し、鈴木文治(のちの大物労働運動家)と無政府主義に関する議論をする。この日から疲れも「風邪」の後遺症も吹っ飛んだらしい。

そして幸徳が獄中から弁護士に宛てた手紙を平出から借りてきて筆写する。

歴史の証言者石川啄木の活動が活発化する。

2011年8月16日 (火)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 12

1910年(明43)の10月と11月、啄木は『一握の砂』創造のために壮絶な仕事をした。

出版した12月も、10日か15日ころまではその精気を持続したが、とうとう精根尽きたらしい。

北海道では、激流をものともせずに全力を尽くして遡上し、上流で産卵を終えるやウロコは剥がれ、身は脂肪を失い、ぼろぼろになって流れに身を任せて下って行く鮭を「ほっちゃれ」という。この頃の啄木は「ほっちゃれ」のようだ。

超人的な仕事で弱り切った啄木の体内では、今結核菌が猛威を振るっていると推定される。    

  ぢりぢりと、
  蠟燭の燃えつくるごとく、
  夜となりたる大晦日かな。     43

この歌とその次の「青塗りの瀬戸の火鉢によりかかり 44」の2首は、先にこの大晦日に作ったと推定しておいたが、明けて44年1月に作ったのかも知れない

2011年8月14日 (日)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 11

 さうしてゐる間(うち)に、何時しか風邪が抜けかけて来た。

 或朝私は咳も洟も少くなつてゐるのを不思議に思つた。……「よしよし、今夜はうんと書いてやるぞ。」そんな風に思つて定めの時間に家を出た。

 夕方に帰って来ると、咳はもう忘れたやうに出なくなつてゐた。が、頭だけは矢つ張り可(い)けなかつた。重いばかりでなく、少し疼(うづ)くやうでもあつた。

 耳の熱(ほて)つてゐるので上気してゐた事が解つた。出窓に出て冷たい風に当つてみたが、耳が冷えると共に却つて疼き方が強くなつた。

 「あゝ今夜も駄目だ。」私は机の上の書きさしの原稿を横目に見やりながら、火鉢に手を翳(かざ)して凝然(ぢつ)としてゐた。

 其処へ一人の友人が訪ねて来た。高商の専攻科で経済学の研究をしてゐる人で、私とは北海道の旅の間に相知つた。

 私は「やあ」と言つて迎へた。さうして自然のその声の、恰度(ちやうど)腹に一物((いちぶつ)もなく飢ゑた時に出るやうな力ない声であつた事に気が付いた。……

2011年8月12日 (金)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 10

『一握の砂』が出版されたのは12月初めであるが、次の描写は同じ12月の中・下旬頃の啄木自身である。

 今度の風邪(かぜ)は却々(なかなか)抜けなかつた。……

 十日ばかりといふもの、咳をしながら焦々(いらいら)した不愉快な気持を抱いて過した。朝には左程でもない頭が、夕方になつて勤め先の仕事の済む頃には、腐れかゝつた西瓜のやうに重かつた。

 余り咳が続いて出る為に、左の腹に懐中時計ほどの瘤が出来て、それを揉んで散らさない事には身体を反(そ)らされないこともあった。電車の中で二度ばかりもそんな目に逢つた。家(うち)に帰ると、家には又色々の用が待つてゐた。

 約束の期限が切れて催促を受けた原稿の、まだ書き上げかねてゐるのもあつた。

 殊に歌の原稿には弱つた。いくら努めて見ても、妙にふやけた頭からは一首の歌も浮んで来てくれなかつた。洟(はな)をかむと、洟が頭の中から流れて来るかのやうな厭な感じがした。
   ……… (以下次回)

2011年8月10日 (水)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 9

歌の背景 

以下しばらく、「一握の砂以後(四十三年十一月末より)」の歌々の作歌時期、その背景にある啄木の生活、文学上・思想上の営み等を見ておこう。鑑賞上の参考にされたい。
(便宜上歌番号をつけた。冒頭の2首を最後に回したので『悲しき玩具』の番号より2番ずつ数字が若くなっている。)

「途中にてふと気が変わり」(1)~「青塗りの瀬戸の火鉢によりかかり」(44)の歌々は、この11月末から12月半ばまでの約半月間に作られたと推定される。
 

勤め人の日常(出勤、サボり、家庭生活、夜勤帰り等)の歌から始まっている。正月の歌々(33~39)も実はこの間に(つまり正月前に)作られている。

この約半月も啄木は精力的に仕事をした。選者石川啄木の朝日歌壇は大盛況でほぼ連日東京朝日紙上を賑わした。

12月上旬には「幸徳等所謂無政府共産主義者の公判開始は」に始まる無題の評論を途中まで書いた。

10日、12日、13日には啄木の第二歌論「歌のいろいろ(一)~(三)」を発表した。

しかしまもなく歌が作れなくなった。

2011年8月 8日 (月)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 8

そして「一握の砂以後(四十三年十一月末より)」にもこの方式が適用されたらしい。

第二歌集では歌稿ノートは作らず、歌は原稿用紙(おそらく二百字詰)に記入し、それらの歌稿を基に四首単位に編集しては、ノートに清書する方式をとったと推定される。

したがってこのノートは初めから手製の歌集=ノート形式の歌集なのである。もちろん出版に当たっては、ノート歌集を基に最後の推敲・編集を施しつつ、新しく原稿用紙に書き写したうえで、出版社に渡すつもりだったであろう。

復刻版のノート歌集は最後の歌の記載されているページまでが五二葉、そのうしろの余白は一二葉、計六四葉の薄いものであるが、日本近代文学館所蔵のノート原本は計一八四葉の分厚いものである。

これはざっと七〇〇首の記載が可能な厚さであり、啄木が第二歌集にかけた意気込みを示している。

さて、明治「四十三年十一月末」という時期は『一握の砂』の全原稿・藪野椋十序文の再校ゲラ・名取春仙の表紙絵等のすべてが東雲堂に渡ってしまった時期、を意味する。啄木はその時よりすなわち明治「四十三年十一月末より」新しい作歌を始めたのである。

2011年8月 6日 (土)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 6

ノート形式の歌集 

ノート歌集「一握の砂以後(四十三年十一月末より)」には、明治「四十三年十一月末」から翌年四十四(一九一一)年八月二一日作の歌まで計一九二首(および書きかけの一行)が収められている。

第二歌集を構想するにあたって、啄木は『一握の砂』とは違った作り方を考えたらしい。『一握の砂』の場合、最初基礎にしたのは四冊の歌稿ノート(明治四一年~四三年)であった。そこにある歌々を抜き出し、編集しつつ原稿用紙に書き写したのである。これが先に見た第二次の方の「仕事の後」である。

しかしその後方式が変わった。『一握の砂』の編集・創造時(明治四三年一〇月四日~一五日)のことである。この約一〇日間に啄木は二六〇首の歌を新作したが、うち歌稿が歌稿ノートに記入されているのは二〇首だけである。のこり二四〇首の名歌・秀歌の歌稿は現存しない。

おそらく原稿用紙に歌稿が書かれ、それらは東雲堂に渡す『一握の砂』用の原稿として(何度も!全体的に!あるいは章ごとに再編集しながらまた推敲も加えて)書き写された後、さらに雑誌投稿用原稿の歌稿としても使われた後、処分されたのだと思われる。それらの歌稿は一切現存しない。

2011年8月 4日 (木)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 5

四、ルビは土岐哀果がふったと思われるが、十数カ所にわたって重要なミスがある。「一字一句の変化が出来を左右する」(三枝昂之)短歌にあっては、一字のまちがいといえど、鑑賞上に見過ごしがたい変化をもたらす。一例をあげると「啄木得意の」(三枝)句「何(なに)となく」は六箇所あるが、そのうち四箇所に、土岐は「何(なん)となく」とふっている(残りの二首は「何(なに)となく」)。

五、歌の配列・句読点等についてもノート歌集と多くのちがいがある。誤植もある。(これらについては従来気づかれており、各テキストでさまざまに訂正されてきた。)

以上の問題点を本書においては全面的に改めた。啄木の意図したこと、意図したものを一層正確に実現した。

本書こそ啄木死後百年、『悲しき玩具』刊行百年にして初めて出た、啄木第二歌集の決定版である。

2011年8月 2日 (火)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 4

三、ノート歌集には啄木自身が「一握の砂以後(四十三年十一月末より)」と題しており、土岐もこの題を第二歌集に用いようとした(編集後記)。

しかし東雲堂がそれだと『一握の砂』と紛らわしくて困るというので、土岐が「悲しき玩具」と題した。これは啄木の第二歌論「歌のいろいろ(四)」から取ったもので、啄木の深く鋭い現状認識とそれに対応する短歌観を表しており、啄木晩年最大の理解者土岐ならではの命名であった。

しかし末期の歌二首を冒頭に持って来たために「悲しき玩具」という題は、啄木の抱いていた内容を離れてしまい、不治の病床に伏す啄木の悲しい玩具(おもちや)、といった意味合いに化してしまった。

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