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2011年9月

2011年9月30日 (金)

「一握の砂以後」の性格・特徴 6

それが明治になって、活字印刷の導入により一行書き表記となった。しかし歌の内部では相変わらず七五調が支配している(副次的には五七調が)。

啄木は三行書きによってこうした「現在の歌の調子」「短歌在来の格調」を破壊しようとする

「三」行で書くと言うことは「二」行で書く調子(つまり五七五/七七と五七/五七七)を全て壊してしまう(無くしてしまう)ことを意味する

なぜなら、啄木にとって一行目と二行目の行末は小休止を意味するのだから。たとえば
   砂山の砂に腹這ひ
   初恋の
   いたみを遠く思ひ出づる日
は、「腹這ひ」で切り、「初恋の」で切るのあるから、決して七五調または五七調でつまり二行で、読むことは出来ないのである。

五七/五/七七と読め、これが読者に対する啄木の要求である。

こうして「現在の歌の調子」「短歌在来の格調」の「破壊」は同時に新しい調子の「創造」でもある。

2011年9月28日 (水)

「一握の砂以後」の性格・特徴 5

土岐との関係の考察は前掲小論にゆずり、「現在の歌の調子」「短歌在来の格調」とは何を指すのか、これを調べてみよう。

石川啄木は最初の歌論「一利己主義者と友人との対話」でこう述べる(その前に七五調や五七調のことも話題にのぼっている)。
   

  のみならず、五も七も更に二とか三とか四とかにまだまだ分解することが出来る。歌の調子はまだまだ複雑になりうる余地がある。昔は何時の間にか五七五、七七と二行に書くことになつてゐたのを、明治になつてから一本に書くことになつた。今度はあれを壊すんだね。歌には一首一首各異つた調子がある筈だから、一首一首別なわけ方で何行かに書くことにするんだね。

「歌の調子」というとき啄木は、いわゆる上の句、下の句の間に多少の小休止をおく七五調が「昔」から短歌の支配的な調子となっていたと言う。七五調は別の表現をすれば、五七五/七七という二行歌だというのである。おそらく五七調の歌は五七/五七七という二行歌と認識されていたのであろう。

2011年9月27日 (火)

「一握の砂以後」の性格・特徴 4

しかし、啄木自身の語る三行書きの意義に注目し考察した人は誰もいない。

小論「啄木短歌三行書き序論」(「新日本歌人」2004・4)で初めてその考察が行われた。

本稿は小論主旨にその後の考察の若干を加えたものである。

1910年(明43)10月22日、吉野章三あて書簡のなかで啄木はこう言っている。(今度の歌集は)「『一握の砂』と題して来月上旬東雲堂より発刊致すべく、一首を三行に書くといふ小生一流のやり方にて(現在の歌の調子を破るため)……」と。

また、「明治四十四年当用日記補遺」の「前年(四十三)中重要記事」の中にも以下の記述が見える。「十二月――初旬『一握の砂』の製本成る。……一首を三行として短歌在来の格調を破れり。」と。(太字による強調―引用者。以下同じ)

短歌の三行書きがなぜ「小生一流のやり方」なのか、土岐哀果という先行者がいるではないか。

またなぜ短歌を三行書きにすることが「現在の歌の調子を破る」こと・「短歌在来の格調を破」ることなのか。

2011年9月24日 (土)

「一握の砂以後」の性格・特徴 3

『一握の砂以後(四十三年十一月末より)』(=『悲しき玩具』)で成し遂げられた啄木最大の業績は、『一握の砂』で試みた短歌の破壊と創造を、ほとんど極限まで推し進めたことであろう。
これから引いてゆくのは「短歌」(角川書店、2010年12月)に載せた小文の全体である。

短歌在来の格調を破れり
   ――啄木三行書きの意義――           近藤典彦     

啄木は『一握の砂』(東雲堂書店、明治四十三年十二月一日発行)においてなぜ全短歌五五一首を三行書きにしたのか。

啄木三行書き短歌をめぐる論考は少なくない。管見に入った文献だけでも四七編ある。

中には、折口信夫「この集のすゑに」(『海やまのあひだ』跋)(1925)、土岐善麿「短歌機構論」『短歌講座』第四巻(改造社、1932)、吉田精一「短歌における造型と韻律」(「短歌研究」1953・1)、大室精一「啄木短歌の形成(1)――『一握の砂』の音数律について――」(「佐野国際情報短期大学研究紀要」第8号、1997・3)、髙叔玲「啄木の三行書き短歌の形式とリズム」(「安田女子大学大学院文学研究科紀要」第6集、2001・3?)など卓論も少なくない。

2011年9月22日 (木)

「一握の砂以後」の性格・特徴 2

しかし、勤め人の日常(たとえば出勤、サボり、夜勤帰り等)の歌、また勤め人の家庭生活(大晦日、正月、飲酒等)の歌、もっとも多いし印象的でもある病臥の歌、医療労働者としての看護婦をうたう歌、革命やテロリストを思う歌、そして数え「五歳(いつつ)」(満4年半)の愛児京子をうたう父親の歌、妻をまた夫婦間をうたう歌、母と妻の葛藤をうたう歌等々は『一握の砂』にはほとんどなかったものである。

短歌の世界にこうした日常生活詠を創り出したのはおそらく啄木の功績であろう。

次に引くのは芥川龍之介の「文芸的な、余りに文芸的な」の一節である。
  

 日本の詩人たちは現世の人々にパルナス(文芸の世界。ここでは「文壇」くらいの意―近藤)の外にゐると思はれてゐる。

 その理由の一半は現世の人々の鑑識眼が詩歌に及ばないことも数へられるであらう。

 しかし又一つには詩歌は畢(つひ)に散文のやうに僕等の全生活感情を盛り難いことにもよる訣(わけ)である。

 ……しかし詩人たちは、――たとへば現世の歌人たちもかう云ふ試みをしてゐないことはない。その最も著しい例は「悲しき玩具」の歌人石川啄木が僕等に残した仕事である。

2011年9月20日 (火)

「一握の砂以後」の性格・特徴 1

(啄木の生涯の略伝は朝日文庫版『一握の砂』巻末に付してある。参照されたい。)

以下に歌集の性格・特徴を述べてゆこう。 

『一握の砂』は啄木26年の生涯中の約24年間を凝縮した歌集であった。したがってそこにうたわれた内容の豊かさはそのまま啄木の人生のゆたかさを反映している。

これに比べると「一握の砂以後(四十三年十一月末より)」は、見てきたとおり明治「四十三年十一月末より」44年8月21日までの間に作られたのであり、その9ヵ月弱の生活が反映しているにすぎない。

しかも9ヵ月弱のうち、不治の病でたおれるまでが2ヵ月余、たおれて以後が6ヵ月余である。

こういう生活を反映する歌々であるから『一握の砂』の魅力に及ばないのは致し方ないであろう。

2011年9月19日 (月)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 28

二月中旬土岐哀果から『黄昏』(東雲堂、1912年2月18日刊)を贈られた。

扉には「この小著の一冊をとつて、友、石川啄木の卓上におく。」と記されている。

啄木は親友の歌集を読んで最後の創作意欲をわずかにかき立てられた。

そこで作ったのが「白鳥の歌」2首であった。したがって作歌時期は1912年(明45)2月18日前後と推定される。

  呼吸(いき)すれば、
  胸の中(なか)にて鳴る音あり。
   凩(こがらし)よりもさびしきその音!

  眼閉づれど
  心にうかぶ何もなし。
   さびしくもまた眼をあけるかな

3月7日母カツ死去。

後を追うように4月13日啄木死去。

死因は結核症による全身衰弱。満26歳2ヶ月。

2011年9月16日 (金)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 27

以後ノート歌集を満たしてゆこうとはしなかった。

作ったのは翌年岩崎正あて年賀状に添えた一行書きの1首と「白鳥の歌」2首のみである。

11月「平信」という評論で「この島国の子供騙しの迷信と、底の見え透いた偽善……」と書く。天皇制の最深部を貫く批判である。

1912年(明45)1月2日東京市電労働者のストライキに深い関心を寄せ、新しい時代の到来・大正デモクラシー運動の高揚を予見する。

2011年9月14日 (水)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 26

啄木にとって歌は、文学者・作家(この時期の啄木にとって文学は小説であった)として思想家として全力を挙げて活動し闘う時に自ずと湧き出してくる、副産物なのであった。

それをかれは「歌は私の悲しい玩具(おもちや)である」と表現したのであった(「歌のいろいろ」)。

しかし全力を挙げて活動し闘うことは病気によって不可能にされ、病気は一向に回復の兆しを見せない。今や啄木にとっての歌は文字通りの「悲しい玩具(おもちや)」でしかなくなったのである。

それを突然感じた時もう歌を作る気はしなくなったのだと思われる。

その決断の直接のきっかけとなったのは、妻節子と宮崎郁雨の恋愛の発覚(9月10日頃という)であろう。

2011年9月12日 (月)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 25

8月7日本郷弓町二丁目新井方から小石川区久堅町七四番地に引っ越す(ここが終焉の地となる)。

8月21日「解けがたき」(176)~「庭のそとを白き犬ゆけり。」(192)の17首を作った。そしてこの17首を前田夕暮主宰の「詩歌」に送った。

9月、この17首が「詩歌」9月号に載る。

なお192番の「庭のそとを白き犬ゆけり」の歌が歌稿ノートに記される最後の短歌となる。この次に「大跨に椽側を歩けば、」と一行書いたが、啄木はこの一行で作歌を中断した。

ここまで書いた時急に「もう歌は止めよう!」と決断したのであろう。

2011年9月11日 (日)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 24

6月下旬、未完のノート詩集「呼子(よぶこ)と口笛」を編む。

全8編の詩のうち6編は長詩「はてしなき議論の後(一~六)」を6編の独立した詩編に分解してタイトルを付したもの、第7編目が「家」、最後の詩「飛行機」は啄木の絶唱となった。

 「呼子と口笛」は、政治的・社会的思想の明確でかつ情緒の美にも富んだ表現という観点から見るなら、明治以来大正・昭和を経て現在に至るまで、百年余りの日本自由詩の歴史において、実際のところあまり類例のないほど貴重な達成だったと言っていい。

これは大岡信の評価である(大岡信編『啄木詩集』〈岩波文庫〉「解説」)

7月、短歌雑誌「創作」巻頭に長詩「はてしなき議論の後(一~六)」が載る。

2011年9月 8日 (木)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 23

「いま、夢に閑古鳥を聞けり。」(129)~「病みて四月――」(150)

6月7日~12日の間の作。6月12日ころには「新日本」(冨山房)に送稿。

「病みて四月――」(151)~「お菓子貰ふ時も忘れて、」(160)は12日~15日の間の作。

15日までには「文章世界」(博文館)に送稿。

15日から長詩「はてしなき議論の後」の制作に入り、20日ころには長詩「はてしなき議論の後(一~六)」を完成して「創作」(東雲堂?)に送った。

この詩は処刑された大逆事件の被告達を讃え、強権を告発するという真におそるべきモチーフを潜めた詩である。

送稿を終えると間を置かずに短歌を15首作ってそのうち11首を「層雲」に送った。

「新しきインクの匂ひ、」(161)~「五歳になる子に、何故ともなく、」(175)の15首がこの時の作である。

2011年9月 6日 (火)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 22

おそらくこうした研究成果の上に立っての事と思われるが、そして時期は5月下旬と推定されるが、「A LETTER FROM PRISON」を執筆。

幸徳秋水が磯部四郎ら3弁護士に宛てた「獄中からの手紙」とそれへの啄木のコメントからなる貴重な記録・歴史的証言である。

そしてこれらの仕事が「創作」(若山牧水)から依頼のある長詩を醸成してゆくこととなる。

5月末に「新日本」(冨山房)から短歌の原稿依頼がきた。

おそらくその前に「文章世界」(博文館)からも注文が来ていたはずである。これらは原稿料が入るであろう大切な注文である。荻原井泉水の「層雲」(層雲社)からはずいぶん前から原稿依頼があったとみえ催促が来た。

こうして5月の啄木はきわめて精力的・生産的であった。これらの仕事は、朝平温、昼37度3~4分、午後37度6分、夜37度3~4分という体調の下でなされた。

2011年9月 4日 (日)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 21

雑誌刊行を断念した啄木はさっそく幸徳秋水・堺利彦らの「平民新聞」など出版物を調査、日本における社会主義運動の研究を開始した。

4月27日からは平民新聞にあるトルストイの長大な「日露戦争論」を筆写しはじめる。5月2日筆写完了。それからこれに非常にすぐれたコメントを書く。

「小説『墓場』に現れたる著者木下氏の思想と平民社一派の消息」(未完)を書いたのもおそらくこの頃であろう。

中旬になるとP.クロポトキンの『一革命家の手記』(英書、2巻、全約600ページ)を読了。

さらに山川均「マルクスの『資本論』」、堺利彦「万国労働者同盟」、堺利彦「第七回万国社会党大会」を研究。

どれも長大なものだが、啄木はこれらを精力的に筆写した。日本の社会主義運動研究に次ぐ、西欧(つまり本場の)社会主義運動の研究である。

2011年9月 2日 (金)

(定本悲しき玩具)一握の砂以後 解説 20

3月15日に退院しても午後になると発熱する日がつづく。

それでも月末ころから体調が比較的良好の日々が始まる。

27日には丸谷喜市・土岐哀果と散歩している。

「樹木と果実」は印刷屋とトラブル続きで、4月18日に発行を断念。この間散歩、友人宅訪問、などもやっている。

2月3月そして4月18日まで、啄木のエネルギーは闘病と「樹木と果実」発行をめぐって費やされた。

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