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2011年10月

2011年10月30日 (日)

幻の啄木歌集「仕事の後」 11

散歩から帰って「午前十一時頃まで作った」歌を見てみよう。

初めの2首。

 56、君が名を七度よべばありとある国内の鐘の一時に鳴る

 57、天外に一鳥とべり辛うじて君より遁(のが)れ我は野を走(は)

また「演技過剰型の歌」がはじまった。そして7~9首目。

 62、野にさそひ眠るをまちて南風に君をやかむと火の石をきる

 63、東海の小島の磯の白砂に我泣きぬれて蟹と戯る

 64、青草の床ゆはるかに天空の日の蝕(しよく)を見て我が雲雀(ひばり)病む

先に福島章の分析を引いたが、当の文脈上では「東海の小島」の歌こそが分析の典型的な例として挙げられていたのである。

この歌を作っている時の啄木にあっては、「東海」歌は62や64の歌と同次元なのである。

三枝の「図式化」にはめるなら、「自然体の歌」というよりもむしろ「演技過剰型の歌」に入るだろう。

とは言え、『一握の砂』を代表する歌がここに生まれてしまったのである。すこしこの歌にとどまろう。

2011年10月28日 (金)

幻の啄木歌集「仕事の後」 10

三枝の解釈を参考にしつつ、啄木のこの時期この夜の精神状態を勘考すれば、ストレスを歌の形で相当吐き出すことに成功して、ストレス以前の啄木がふっと息を吹き返すのではなかろうか。

そのとき21の歌がさらに51や53の歌が生まれたのであろう。
  夜があけて、本妙寺の墓地を散歩して来た。たとへるものもなく心地がすがすがしい。興はまだつづいて、午前十一時頃まで作ったもの、昨夜百二十首の余。
 

墓地を散歩して来て「心地がすがすがしい」とは変なものだが、啄木の生まれ育ったのが宝徳寺であり、裏手に墓地があり、遊び場が寺の境内であったことを思えば、納得が行く。(現代でも横浜の外人墓地・雑司ヶ谷墓地・青山墓地などの見学希望者・訪問者は後を絶たない。)

むしろ「たとへるものもなく」という形容句の方が興味深い。作歌=カタルシスの効用が絶大であることを示す。そしてそれは啄木と歌の新しい関係の誕生を示している。

2011年10月24日 (月)

幻の啄木歌集「仕事の後」 9

もっとも印象的で奇怪な歌をあと2首。

 13、はてもなき曠野(くわうや)の草のただ中の髑髏(どくろ)を貫(ぬ)きて赤き百合咲く

 16、半身に赤き痣(あざ)して蛇をかむ人を見しより我はかく病む 

21首目には後の名歌が生まれる(「示せし」は2日後「示しし」に推敲)。

 21、頬につたふ涙のごはず一握の砂を示せし人を忘れず

三枝昂之はこの歌をめぐって次のように言う(『啄木――ふるさとの空遠みかも』。
  

 実作者の自分が連作を作るときの現場を重ねていえば、オーバーアクションの連続の中にふっと訪れたコーヒーブレイクの歌、と感じる。

 ……

 ここでこの夜の啄木の歌を少々強引に図式化し、「演技過剰型の歌」と「自然体の歌」と、二分しておこう。みてきた歌の中では21だけが「自然体の歌」である。狂ったように歌に取り憑かれる歌漬けの日々の中で、ときおり訪れるこのような「自然体の歌」、コーヒーブレイクの歌が、やがて啄木の中心的な領域になる。

日記には「興が刻一刻に熾んになつて来て、遂々徹夜」とある。夜明け方の歌になって、こんな歌が生まれる。(「君が」は2日後に「己が」に改められる。)
 51、君が名を仄(ほの)かによびて涙せし十四の春にかへるすべなし
 53、故さとの君が垣根の忍冬(にんどう)の風をわすれて六年(むとせ)経にけり

2011年10月22日 (土)

幻の啄木歌集「仕事の後」 8

奇怪で異様な歌々である。啄木はここ10日以上そと見には脳天気に振る舞っていたが、内面のストレスは異常な態様であるらしい。

小説が書けない苦しみだけがストレスの原因となっているのではない。書けないという事実(つまり「天才」啄木の正体)の直視が怖くて逃げ回っているために、ストレスは闇雲な形を取る。

このストレスを啄木は短歌の奔流として吐き出しはじめたのである。カタルシスが始まったのだ。奇怪な歌々は啄木のストレスの姿と考えると理解しやすい。

この時の啄木に関する福島章の分析は示唆に富む。

「このときの啄木の精神状態」は「意識性や論理の支配する通常の状態ではなく、クリス流にいえば、自我の機能が一時的にかなり弱まって、イメージや象徴のレベルでものを考えていた<創造的退行>の状態にあった……。キュービー流に、心の働きが前意識体系に委ねられていた状態、といってもよい。発達的にいえば幼児の白昼夢の心性に似ている」のだと言う(『天才』)。

2011年10月20日 (木)

幻の啄木歌集「仕事の後」 7

天才の不思議が起こる。百合の花の香につつまれて眠るはずだったこの夜、床に入ってから突然興が湧きあがって来た。

12時(24日午前0時)ころから「こ志をれ」5首のつづきを作り始める。

作り始めはなかなか調子が出なかったらしい。かなりの推敲を経て何とか得たのがつぎの1首だった。(歌稿にルビはほとんど無い。近藤が必要と思われるルビをふった。)
  

 石一つ落して聞きぬ千仞(せんじん)の谷轟々(ぐわうぐわう)と一山(いちざん)を撼(ゆ)る 


この1首に苦労したあと、一瀉千里の勢いを得たらしい。数字はこれ以後できた順を示す番号。

 2、人みなが怖れて覗(のぞ)く鉄門に我平然と馬駆りて入る

 3、我とわが愚を罵りて大盃に満を引くなる群を去りえず
 

 4、つと来りつと去る誰(た)ぞと問ふまなし黒き衣(きぬ)着る覆面の人

 5、牛頭(ごづ)馬頭(めづ)のつどひて覗く大香炉中より一縷(いちる)白き煙す

 6、大海(だいかい)にうかべる白き水鳥の一羽は死なず幾千年も
 

 7、我常に思ふ世界の開発の第一日の曙の色

 8、西方(さいはう)の山のかなたに億兆の入日埋めし墓あるを思ふ

2011年10月18日 (火)

幻の啄木歌集「仕事の後」 6

上京以来森鷗外宅での観潮楼歌会や与謝野家での新詩社歌会があって、短歌のセンスが刺戟され、戻ってきた啄木にはこれが格好の吐き出し場所となった。

歌人啄木誕生 

さて、6月23日も小説が書けない。
  

 十時に起きて、小雨を犯して紫陽花と白い鉄砲百合を三十銭だけ買つて来た。……花を新らしくした心地はよい。  (日記)
 

この日にやったことも金田一京助とのおしゃべり、手紙書きなど。

「外に貞子さんから今夜是非来てくれといふ葉書が来たが行かなつた」。おそらく貞子の母がいない日なのであろう。葉書に籠めた貞子の願いは見当がつく。

啄木は記す。「恋をするなら、仄かな恋に限る。」そして前述の散文詩「二人連」「祖父」を作り、「一寸出て花瓶を買つて来た」。ちょうどその留守に貞子が来た。まことに「恋をするなら、仄かな恋に限る」?

 百合の花の香の仄かに籠つた室に寝る心安さ! (日記)
 

小説を書けなくなって以来すでに12日、逃避行動にうつつ抜かす啄木だが、今夜は仄かに百合の香につつまれながら「心安」く眠れるのであろうか。

月末も近づいて来た。下宿代を請求される日も近い。

2011年10月16日 (日)

幻の啄木歌集「仕事の後」 5

ともかく6月上旬までがんばって書いたが結果は絶望的だった。

貞子と手を切れぬまま、九州筑紫の女性菅原芳子に文通の形でちょっかいを出し始める。吉井勇と2人で、美しい女を見つけるとその後をつけて行くという「遊び」を覚えた。

これを称して「すき歩き」。2人は今でいうストーカーまがいである。

焦燥と懊悩と自信喪失の啄木を下宿代請求の恐怖が追いつめる。

図式的に言えば、小説が書けない→金が入らない→下宿代が払えない→食住が絶たれる→まして家族を呼べない→焦燥・懊悩・自信喪失→ますます小説が書けない……。

この堂々めぐりがストレスを増幅する。貞子も芳子もすき歩きも溜まって行くストレスのはけ口ではある。ストレスは何らかの形で思いっきり吐き出されねばならない。

2011年10月14日 (金)

幻の啄木歌集「仕事の後」 4

その後啄木の力点は詩に置かれた。

歌に戻り始めるのは、北海道に渡って以後である(1905年5月5日~)。

函館には歌の好きな才能のある新詩社系の友人たちが多く、その影響で啄木も歌作を再開したのである。

以後小樽日報・釧路新聞で歌壇を設けるなど歌との関わりを保った。

1908年(明41)4月末、創作に専心して作家になるべく上京した。妻子老母は函館の友人宮崎郁雨に預けてきた。1日も早く売れる小説を書かねばならなかった。

5月、ずいぶん書いたがよい作品はできなかった。

釧路時代に啄木の「道念」はすっかりとろけていた。のちにこんな歌をつくったように。「夏の日に蠟の融くるが如くにも我が道念の融けゆきしかな」 

3年前に東京で知り合って以来文通を続けていた、若い美人の植木貞子と逢い、肉体関係を結んだのは5月の半ばだった。

妻節子の上京も近いと思う啄木は女性があまりに積極的なのを持てあました。

2011年10月12日 (水)

幻の啄木歌集「仕事の後」 3

以下は新編著の「仕事の後」の「解説」です。

歌人啄木以前 

「仕事の後」の成立事情およびこれが「幻の歌集」であるゆえんについては本書「まえがき」で触れた。

ここでは「仕事の後」に直接かかわる歌人石川啄木の誕生を見ておこう。

啄木は幼少年期から歌人でもある父一禎の薫陶を受けており、幼少にして短歌の韻律を肉体化したと推定される。

盛岡中学校四年生の冬には校内の短歌グループ白羊会の中心となり、岩手日報に白羊会詠草を連載するまでになっていた。

1903年(明36)12月には「明星」に啄木の詩「愁調」5編が載った。詩人啄木が誕生した。ほとんど同時に啄木の歌の才能も新詩社内で高く評価され始めた。しかし詩人啄木が先に誕生したのである。

2011年10月10日 (月)

幻の啄木歌集「仕事の後」 2 

さて本書で復元したのは第1次「仕事の後」である。もちろん原稿は存在しない。しかし手がかりはある。

石川正雄が、現存する啄木の歌稿ノート4冊中の墨で描かれた大きな丸印が「仕事の後」収録歌を表す記号であると指摘したのである(石川正雄編『定本石川啄木全歌集』)。

その後藤沢全がその著『啄木哀果とその時代』において、研究を進め、8割近くの復元に成功した。

本書は先行研究者2氏の成果を継承し、函館市中央図書館・函館啄木会の高配のもと資料(カラーコピー)精査の機会を得て復元したものである。もちろん啄木が255首をどのように配列したのかは全く分からない。

したがって、本書では、分かる限りでではあるが、歌の制作順を基本に編集することにした。

その結果1908年(明41)6月から1910年(明43)4月までの啄木短歌の変遷・発展が手に取るように見えることになった。

復元された幻の啄木歌集を本書で堪能されたい。

2011年10月 8日 (土)

幻の啄木歌集「仕事の後」 1

石川啄木著・近藤典彦編 
『(定本悲しき玩具)一握の砂以後四十三年十一月末より)(幻の啄木歌集) 仕事の後』は10月の出版と以前申しましたが、12月になりそうです。原稿は「あとがき」以外全部桜出版に渡っています。

このブログではその原稿のうち「一握の砂以後」を紹介してきましたが、これからしばらくは「仕事の後」の解説原稿を連載します。

まず「まえがき」からの抜き書きです。

「仕事の後(のち)」は復元された幻の歌集である。この歌集の内容は春陽堂の関係者以外のどんな日本人も見たことがないはずである。

この歌集の原本は以下のような経緯で生まれた。

1910年(明43)3月、啄木は新しい独特の短歌を作り始めた。それらを東京毎日新聞、東京朝日新聞に発表していった。新生の啄木短歌に注目したのは東京朝日新聞社会部長渋川柳次郎(藪野椋十)であった。 

4月2日啄木を呼んでかれの歌を大層褒め「出来るだけの便宜を与へるから、自己発展をやる手段を考へて来てくれ」と励ました。

啄木は1908年(明41)6月以後10年4月8日までに作った歌をもとに歌集「仕事の後(のち)」(255首)を編み終えた。4月11日のことであった。春陽堂に売り込んだが売れなかった。

これが第1次「仕事の後」であり、『一握の砂』の第1次の原型でもある。

(このあと8月3日-4日に「仕事の後」の第2次編集を行った。妻の第2子出産費用捻出の意味もあった。出産の近づいた10月4日「仕事の後」の原稿を東雲堂に持ち込んだ。歌数は375首前後。20円で買い取られる事になった。この第2次「仕事の後」が「一握の砂」の第2次原型である。)

2011年10月 6日 (木)

「一握の砂以後」の性格・特徴 9

第二歌集『悲しき玩具』では破壊と創造がいっそう進む。

行の中に読点が入る、行末に句点・感嘆符・疑問符・ダッシュを用いる、3行中の1行または2行に1字サゲを施す。
  

  古新聞!                   
  おやここにおれの歌の事を賞めて書いてあり、  
  二三行なれど。                

 (この歌は「六!/五九八、/八。」で短歌の絶対条件とも言うべき5音と7音のうち5音が1つしかなく、7音はない。)
  

  友も、妻も、かなしと思ふらし――
   病みても猶、
   革命のこと口に絶たねば。

(この歌は「三、三、九――/■六、/■七七。」なので3行目の七七で歌の調子がようやく表出する。)

百年前に啄木三行書きの意義が正確に認識されたなら『一握の砂』の歌々でさえ短歌とは判定されなかったのではないか。

まして上の2首などは。(だから今日まで、啄木短歌は「在来の格調」にもどして読まれてきたのである。)

<付言>啄木のこの破壊と創造の仕事の偉大な意義と恩恵を分かっている歌人は、管見の限りではいない。

これで、「一握の砂以後(悲しき玩具)」の解説は終わります。次回からは幻の啄木歌集「仕事の後」の解説を始めます。

2011年10月 4日 (火)

「一握の砂以後」の性格・特徴 8

しかし啄木が作ったのは短歌であり、しかる後にその短歌作品に内在する「短歌在来の格調」を三行書きに拠って破ったのである。

「在来の格調を破」られた短歌は短歌でありつつ、詩になったのである。こうして啄木は嘗て存在しなかった三行歌=三行詩を創造した。

その行分けは無造作のように見えるが、『あこがれ』・「呼子と口笛」の詩人石川啄木のセンスと技巧が行き亘っている。

このような作品は短歌と詩と双方において一家をなした希有の天才(啄木の外に北原白秋がいるのみ)によってしか生み出し得ないものらしい(白秋は歌を「詩」にしようとはしなかったが)。

ここに、土岐の一定の成果を除くと、その後誰も三行歌に成功しなかった原因があるのだと思われる。ついでに言う。

啄木の父石川一禎は生涯に4000首近い歌を作った歌人でもあった。父の影響で啄木は幼児期から少年期にかけて和歌の韻律を摂取したと推定される。

啄木三行歌は「在来の格調」を自在化した上での「くずし」なのである。

在来の技法を若くして摂取した後「くずし」に入ったピカソを私は連想する。

2011年10月 2日 (日)

「一握の砂以後」の性格・特徴 7

髙叔玲(前掲)によると、三行書きによって啄木が生み出した形式は基本的には6つ(五七/五七/七、五七五/七/七等々)、そのうちの4形式では行末の7音を3音と4音に分解し、次行に3音または4音を送ることでさらに8形式を生み出した(たとえば五七五/四/三七など)。   

後者の一例。
  

  真白なる大根の根の肥ゆる頃
  うまれて
  やがて死にし児のあり
 

大室の研究(前掲)によると、『一握の砂』全551首中字余りを含む歌は219首。実に約40%の高率である。(そのうち33首は定型であった歌を『一握の砂』に三行歌として編集するにあたり字余り歌へと推敲したのである。)

この219首を調べるといっそう多くの形式が派生してくるであろう。が、未調査である。

さて、吉田精一(前掲)はかつて竹内敏雄の説を引いてこう言う。「短歌のリズムは、明確なセジュールによつて区分されて断続しつつ進行するのではなく、むしろ不断にうねりをうつて流動するやうな趣きを呈する」と。

竹内・吉田説に従うなら、『一握の砂』の三行歌はもはや短歌ではなく三行詩と言うことになるであろう。

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