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2011年11月

2011年11月30日 (水)

幻の啄木歌集「仕事の後」 26

ついで石川はこうも言う。

 ところが鉄幹が直して「明星」に発表した歌は、
   石ひとつ落ちぬる時におもしろし万山を撼る谷のとどろき
と、なつている。
 これでは、山の上から自然に大きな石がころがり落ち、山をゆすぶるようなひびきが、谷底からとどろいてくるのがおもしろいという、客観描写で、自分から積極的にころがし落すという、はげしい感情とは、およそ反対で、作者の意図とはまるでちがつたものになつている。したがつてこの歌からは、石破という意味、感情が全然うけとられない。啄木が直されたために、感情が虚偽になつていると不満をいつているのも、当然といわねばならない。

これもほぼ正鵠を得ている。

自ら落とした石が、自然に落ちた石に変えられてはたまらない。

岩ではなく「石」であるから、そんなに大きなものではない。

それを「一」つ落としたところ、ものすごい破壊を引き起こし、ついには谷底で「一」つの山を揺るがすようなとどろきとなった、と言うのである。それを「万山」に変えられては二重にたまらない。

2011年11月28日 (月)

幻の啄木歌集「仕事の後」 25

石川正雄が復刻版「暇ナ時」にはさんだ「解説」で説くところが興味深い。石川は6月23日12時(実際は24日午前0時)ころにはじまる歌の奔流の第1首(「石破集」でも第1首)の原稿を次のように推定した。

 石一つ落して聞きぬおもしろし山を撼(ゆ)る谷のとどろき

と。これでは第4句が五音であって、短歌になっていない。石川正雄は推敲跡のはげしく入り乱れた原稿から「一」の字を読み取れなかったのである

決定稿はこうでなくてはならない。

 石一つ落して聞きぬおもしろし一山(いちざん)を撼(ゆ)る谷のとどろき  (ルビは近藤)

ともあれ、石川正雄は自身の読み取った破調の短歌にもとづいてこう述べた。

 石ひとつの歌は、そのはげしい自棄的な気持をもてあまし、山の上から大きな石をころがし落し、あたりを滅茶滅茶にしながら、深い谷底で爆雷のような轟音をあげて、石そのものが木つ葉みじんになるというような、捨鉢な気持を歌つたものと、推量され、石を破るという、途方もない表現は、ここからきたものと考えられよう。
  ……
  かれがこの歌を冒頭に据え「石破集」と題したのは、そこに浮かびあがる複雑多様な感情を歌つた集という意味ではなかつたろうか。

この歌をただ一人正解に近いところまで読んだ人ならではの卓見である。

2011年11月26日 (土)

幻の啄木歌集「仕事の後」 24

さて、「石破集」である。このタイトルはだれがつけたのか。啄木か寛か。

「石破」とはなにを意味するのか。1906年(明39)1月~1908年(明41)7月までの「明星」を見ると、個人の歌の特集で「○○集」というのは、この「石破集」しかない。

他は「新詩社詠草」である。ただし05年(明38)7月の「明星」に「涼月集」と題する歌群があるが、その歌群の著者は「石川啄木・せつ子」である。「石破集」は啄木の命名と見てよいであろう。

「石破」の意味は? 

太田登は唐の詩人李賀の「李憑箜篌引(りひょうくごいん)」中の句「石破天驚(せきはてんきょう)」から取ったとするが(『啄木短歌論考』)、啄木が李賀を読んだことを示すものは「古詩韻範」のみである。同書巻の四に李賀の「美人梳頭歌」がある。

これは読んでいるが、1911年(明44)8月のことである。それ以前に李賀を読んだことを示す資料はない。

太田の着想は今のところまだ仮説の域を出ない。成句としての「石破天驚」が明治40年代の日本人にどのくらい知られていたのか、という問題もあろう。

この考証は残っているが、ここでは別の可能性をさぐる。

2011年11月24日 (木)

幻の啄木歌集「仕事の後」 23

さて、24日、113首を作り終えるとすぐ「そのうち百許り与謝野氏に送つた」が、翌25日から26日午前2時にかけてさらに141首作ると、26日にまた「昨夜の歌を清書して送つた」(日記)。

結局は28日に新詩社へ出かけて行き、その後26日27日に作った分も含めて原稿の最終編集をおこなったらしい。これが「明星」7月号に載ることになる。

7月10日「明星」7月号が届く。

「巻頭に予の歌″石破集″と題して百十四首。外に散文詩四編、選歌」と記す。

「与謝野氏の直した予の歌は、皆原作より悪い。感情が虚偽になつてゐる。所詮標準が違ふのであらうから仕方がないが、少し気持が悪い」とも書く。

6月24日25日の2夜の後が歌人啄木のひそやかな誕生だとすれば、「明星」7月号は人々に歌人石川啄木の誕生を告げている。

2011年11月22日 (火)

幻の啄木歌集「仕事の後」 22

ふたたび父母の歌にもどる。

  134、わが父が蠟燭(らふそく)をもて蚊をやくと一夜寝ざりしこと夢となれ

そしてあと7首詠んで終わる。「この日夜の二時までに百四十一首作つた」と日記にある。

とうとう歌の奔流は収まった。2夜で合計254首も作ったのである。

この経験は啄木に次のものをもたらした。

1、カタルシスを終え、小説が書けないことから生じるストレスをしばし逸らすことに成功した。精神にある種の安定を得た。これは啄木にとって歌の効用の1つ、の発見でもあった。

2、短歌の韻律を自在に操れる自信を得た。この韻律の自在は父一禎の英才教育の賜物でもあって幼時からすでに啄木に内在していたのである。それがこのたびの奔流によって、表出した。すなわち自己に内在していた歌の天才の発見であった。

3、奇怪・異様な歌々もその時々の啄木の情緒の姿ではあった。歌はそれらを表現する手軽な(啄木にとっては)、詩形であった。奔流の終わり近くで父母妻子を詠んだ時、歌は真実の心の姿をも率直に詠むことの出来る詩形であることも知った。こうして「複雑なる近代的情緒の瞬間的刹那的の影を歌ふに最も適当なる一詩形」(小田島理平宛08/7/?)であることを発見した。

4、また歌を詠むにあたっては既成の歌言葉・既成の表現(お歌所風は言うに及ばず、それを革新した新詩社風にも、根岸派風、竹柏会風にも)囚われぬ各個人独自の言葉・表現があり得ることを発見した。これを小田島理宛て(08/6/?)書簡から引くとこうなる。

文学に捉へられて強ひて句を編む弊に陥り給ふな。天地の間に住する一個人として、場所や境遇に拘束せられず、真に感じ真に思ふ所をその儘うたひ出でなばと存じ候。

5、以上のうち3と4は窪田空穂の短歌論「短歌作法」から摂取したと推定される(三枝前掲書参照)。

6月26日午前2時は歌人石川啄木誕生の瞬間と言えよう。

2011年11月20日 (日)

幻の啄木歌集「仕事の後」 21

突然父母を離れて、とんでもない歌を詠む。

 132、女なる君乞ふ紅き叛旗(はんき)をば手づから縫ひて我に賜へよ

6月23日の東京朝日新聞がのちに「赤旗事件」と呼ばれる事件を、「日本の露西亜化」「錦輝館前の大騒動」「革命の赤旗」「妙齢の佳人」などの見出しでおもしろおかしく報じた。

24日には国民新聞も「美人の無政府演説」「無政府の赤旗」などの見出しでセンセーショナルに報じた。

132は赤旗事件を詠んだ歌なのである。

 133、君にして男なりせば大都会既に二つは焼けてありけむ

この歌の第3句の最初の形は「二人して」である。ここまで詠んでこの句を抹消し「大都会既に二つは焼けてありけむ」と詠んだのだ。

「二つ」は「二人」を暗示しているわけである。

「二人」とは誰か。東京朝日新聞は24日にも「無政府主義社会党員騒擾続報」を出したが、記事中に「女に似気なき豪語」を放つ者として「菅野、木暮、二婦人の豪語」を紹介している。

事件の実際から言えば、「菅野」は管野須賀子、「木暮」は神川マツ子である。

したがってこの歌は管野・神川を詠んだことになる。

2011年11月18日 (金)

幻の啄木歌集「仕事の後」 20

 115、百二百さるはした金何かあるかくいふ我を信ずるや母

渋民にいた頃こんな事を言って母を煙に巻いていたのも事実らしい。

そしてのちの名歌が誕生する。ただし五句は「三歩あゆまず」ではない。

 116、たはむれに母を背負ひてその余り軽きに泣きて三歩あるかず

父をうたう次の歌も佳い歌だ。曹洞宗の総本山から神童の息子に乗り替えようとして、宗費を息子の学費に流用した父のなれの果てだ。

 120、わが父は六十にして家を出で師僧の許に聴聞ぞする

母はどこまでも息子に尽くす。息子のためにはどんな苦労も厭わない。

 122、あたたかき飯を子に盛り古飯に湯をかけ給ふ母の白髪

 125、今日は汝(な)が生れし日ぞとわが膳の上に載せたる一合の酒

父にも悪いことをした。あれは何度目の帰郷の時だったか、何の事件の時だったか。

 130、父と我無言のままに秋の夜中並びて行きし故郷の路

2011年11月16日 (水)

幻の啄木歌集「仕事の後」 19

 103、飄然(へうぜん)と家を出でては飄然と帰りたること既に五度(いつたび)

家を出た時はいつも主に父に迷惑をかけた。

 107、今日切に猶をさなくて故(ふる)さとの寺にありける日を恋ふるかな

幼き日に記憶が退行して行く。

 108、我れ父の怒りをうけて声高く父を罵り泣ける日思ふ

 109、母われをうたず罪なき妹をうちて懲せし日もありしかな

どの歌もどの歌も佳い歌だ。奇怪でも異様でもない。真実が最上の言葉で詠まれている。

 111、われ人にとはれし時にふと母の齢(とし)を忘れて涙ぐみにき

 112、母よ母このひとり児は今も猶乳の味知れり餓(う)ゑて寝る時

 114、我が母は今日も我より送るべき為替を待ちて門(かど)に立つらむ

母に送るべき金が有ったって、百合の花と足袋と香油と青磁の花瓶と銀台の洋燈を買ったくせに。

でも114のように思っているのも啄木なのだ。母に妻に金を送る時は印税がどかんと入った時なのだろう。

2011年11月14日 (月)

幻の啄木歌集「仕事の後」 18

86首まで作って来てようやく吐き出す奇想もほぼ尽きたらしい。

 87、我は今のこる最後の一本の煙草を把りてつくづくと見る

もう1首作ったところで突然父母妻子を歌いはじめる。

 89、灯(ともし)なき室(しつ)に我あり父と母壁の中より杖つきて出づ

 91、われ天を仰ぎて嘆ず恋妻の文に半月かへりごとせで

 94、父母のあまり過ぎたる愛育にかく風狂の児となりしかな

 97、いと重くやみて痩せぬと文よめど夢に見る児は笑みて痩せざり

日記には「父母のことを歌ふ約四十首、泣きながら」とある。

 102、津軽の海その南北と都とに別れて泣ける父と母と子

「津軽の海」の南(野辺地)に父、北(函館)に母、都にはひとり息子。

2011年11月12日 (土)

幻の啄木歌集「仕事の後」 17

 1、風のごととらへがたなき少女子の心を射むとわれ弓をとる
 

 2、三百の職工は皆血を吐きぬ大炎熱の午後の一時に

 3、火をつくる大エンヂンのかたはらに若き男の屍(しかばね)をつむ (推敲前の形)

またしても奇怪・異様な歌々のはじまりである。止め処もなく作り続ける。

 49、庭の木の七本撼(ゆ)れど一本も動かず地(つち)に座して涙す

 58、わがかぶる帽子の庇(ひさし)大空を覆ひて重し声も出でなく

 59、炎天の下わが前を大いなる沓(くつ)ただ一つ牛の如(ごと)行く

 66、大木の枝ことごとくきりすてし後の姿の寂しきかなや

2011年11月10日 (木)

幻の啄木歌集「仕事の後」 16

しかし啄木にとっては戦後恐慌も「不景気」もどうでもよい。これで今月の下宿代支払いのメドはなくなった。

これこそ大問題だ。「!」が啄木のショックを表している。またしても強いストレスがかかった。小説が書けない。金が入らない。食住が絶たれる。家族を呼べない。堂々めぐりの懊悩がストレスを増幅する。

夕方に百合の花をまた買つて来て、白のうちに一本の赤を交へてたのしんだ。

 夜に金田一君と二人例の散歩。電柱の下に立つてゐた美人を見た。

昨夜と同じ精神状態になって来たらしい。

「すき歩き」から帰ってからだろう。また歌の奔流がはじまった。日記は記す。

 頭がすつかり歌になつてゐる。何を見ても何を聞いてもみな歌だ。

赤いインクをペンに付けて歌を記し始める(赤インクは冒頭六首まで)。うち最初の三首。

2011年11月 8日 (火)

幻の啄木歌集「仕事の後」 15

さて、啄木のカタルシスはつづく。うち幾首か。

 88、今日九月九日の夜の九時をうつ鐘を合図に何か事あれ

 105、茫然として見送りぬ天上をゆく一列の白き鳥かげ

 113、白馬にまたがりてゆく赤鬼の騎兵士官も恋せしあはれ (この歌後に抹消)

午前11時頃歌の奔流は止まった。この昨夜中からの約11時間でつくったのは全部で113首であったが、啄木はかぞえ違いしたのか、作ったのは「百二十首の余」と記した。

翌6月25日。

豊後臼杵町の菅原芳子から絵葉書をもらう。寛に頼まれて「明星」4月号のために釧路にいて歌の選者をつとめたとき、啄木は菅原芳子の歌をもっとも厚遇した。

その芳子から絵葉書が届いたのだ。貞子に辟易している今、こちらに啄木の関心が動き始める。

 後藤宙外氏から、春陽堂が十年来の不景気のため稿料掲載日まで待つてくれといふ葉書!

当時は日露戦後恐慌の最中であった。だからこの「不景気」はただごとではない。雑誌に掲載するに値しない原稿に金を払う余裕などなくて当然だ。

2011年11月 6日 (日)

幻の啄木歌集「仕事の後」 14

しかし「磯」「砂」「蟹」となると別のイメージが動員されている。山本健吉が指摘・解説するように、函館時代の詩「蟹に」には次の詩句がある(『日本の詩歌 5 石川啄木』)。

 東の海の砂浜の
 かしこき蟹よ、今此処を

この砂浜のある海は青柳町の家からはちょうど東にあった。まさに「東の海」である。

啄木にあっては「磯」は波打ち際の意である。「特に岩や石が多い所」という限定はない。したがって詩中の「砂浜」は「磯」である。そして「蟹」。

「磯の白砂に……蟹と」にはこうした海のイメージも動員されたことであろう。

同時に川崎むつをが固執したように、啄木が少年時代に訪れた青森県大間のイメージなども動員されたかも知れない。

「我泣きぬれて……戯る」にはまた別のイメージや体験が動員されたことであろう。

ただしこれらは考えて一つ一つ呼び出されたのではないであろう。一瞬のうちに動員され、即座に歌になったのであろう。

ここではこれ以上の解釈は措く。

2011年11月 4日 (金)

幻の啄木歌集「仕事の後」 13

啄木について「頭が絶えずものすごい高速回転で回っている人です」と言ったのは井上ひさしであるが(「国文学 解釈と鑑賞」2004/2)、上記の詩句の影響関係は、この夜の啄木の頭脳も1首つくる度にイメージと言葉とを「ものすごい高速回転で」動員していたことを暗示している。

「東海の小島」歌の場合にも言葉とイメージとが瞬時に総動員されていたであろうことは疑いない。

盛岡中学時代に真剣に読んだ高山樗牛「日蓮上人とは如何なる人ぞ」には、「東方の小国日本」「東海の仏子日蓮」などがあり、啄木羨望の詩集From the Eastern Sea(ヨネノグチ)の日本語訳は『東海より』であるが、「東海」は日本を指す。

啄木自身「東方海上の一島国」(古酒新酒)、「日本は……東海の一孤島」「大文明を東海の天に興す」(林中書)、などと使っている。

これらに拠ると「東海の小島」は日本である。

2011年11月 2日 (水)

幻の啄木歌集「仕事の後」 12

この歌の4首あとに

  67、百万の屋根を一度に推しつぶす大いなる足頭上に来(きた)る

という歌が作られる。

啄木が盛岡中学時代に愛読した土井晩翠の第2詩集『暁鐘』(有千閣・佐養書店、1901年5月)に「おほいなる手のかげ」がある。第2連のみを引くが全3連ともに3、4行の詩句は同一である。
 

   百万の人家みなしづまり
   煩悩のひゞき絶ゆるまよなか
   見あぐる高き空の上に
   おほいなる手の影あり。

掲出歌(67)には、この詩の影響がはっきりと見て取れる。

「百万の屋根」と「百万の人家」、「大いなる足頭上に」と「上に/おほいなる手」。

こうした晩翠の詩句とともに異様なメージが呼び出される。

「百万の屋根」といえば当時の東京市2つ分だろうか。

それを「一度に推しつぶす」足! この足ゴジラの比ではない。

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