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2011年12月

2011年12月30日 (金)

幻の啄木歌集「仕事の後」 41

啄木はこの詩論に基づく実作として5編の口語自由詩を、12月12日~20日の間に「心の姿の研究」という総題の下に発表する。

「心の姿」とは、生活の中で刻々に変化する「心持」(=心に感ずるところ)・「感情」を指していよう。

「研究」とはある時ある局面の自己の「心持」・「感情」を考究し、詩の言葉に組み立て、詩にすることであろう。

詩論「弓(ゆみ)(ちやう)より」を論じることは啄木短歌を解説する本稿においては若干脇道に入ることになる。以下の4点を付け加えるにとどめよう。

一、この詩論は、耽美派の詩人木下杢太郎・北原白秋・長田秀雄の3人によって創刊されたパンの会の機関誌「屋上庭園」創刊号(09年10月1日)に触発されて書かれた。したがってこの詩論は啄木の痛切な自己批判であると同時に耽美派の詩人(とくに啄木最高のライバル北原白秋)への批判の文でもある。

二、「心の姿の研究」の口語自由詩等は「屋上庭園」所載の白秋の文語自由詩を十分に意識して作ったのである。啄木の詩稿ノートにある「無題(屋根又屋根、眼界のとゞく限りを)」や「心の姿の研究」中の「夏の街の恐怖」「事ありげな春の夕暮」と白秋の「瞰望」「雑艸園」を読み比べるのは、堪らなく楽しい。(白秋もだまっていない。)若き二大天才詩人の関係をイメージすると俵屋宗達「風神雷神図」が浮かんで来た。

三、この11月から翌年2月までの間は王堂田中喜一のプラグマティズムの影響を色濃く受けており、これが混じっているために、理解しがたい部分がある。この詩論における王堂的なものの腑分けはむずかしい。ここでは指摘にとどめ、別稿を用意したい。

四、この詩論は詩のみならず小説、戯曲にまで応用の出来るものと啄木は考えている。短歌への応用は当然考えていよう。4ヵ月後の啄木調短歌創出の理論的準備にもなっている。

2011年12月28日 (水)

幻の啄木歌集「仕事の後」 40

自己の閲歴を踏まえた詩論は第五回から展開される。要旨は以下のようである。

「食(くら)ふべき詩」とは「両足を地面(ぢべた)に喰(く)つ付けてゐて歌ふ詩」「実人生と何等の間隔なき心持を以て歌ふ詩」である。

それは「珍味乃至(ないし)は御馳走ではなく、我々の日常の香の物の如く、然(しか)く我々に『必要』な詩といふ事である」。

「詩人」は「普通人の有つてゐる凡ての物を有つてゐるところの人でなければならぬ」。(換言すれば「詩人」は「生活者」でなければならぬ、となるだろう。)

「真の詩人とは……自己の心に起り来る時々刻々の変化を、飾らず偽らず、極めて平気に正直に記載し報告するところの人でなければならぬ。」

「詩は所謂詩であつては可けない。人間の感情生活……の変化の厳密なる報告、正直なる日記でなければならぬ。従つて断片的でなければならね。――まとまりがあつてはならぬ。(まとまりのある詩即ち文芸上の哲学は、演繹的には小説となり、帰納的には戯曲となる。詩とそれらとの関係は、日々の帳尻と月末若くは年末決算との関係である。)」

「我々の要求する詩は、現在の日本に生活し、現在の日本語を用ひ、現在の日本を了解してゐるところの日本人に依て歌はれた詩でなければならぬ……。」

2011年12月26日 (月)

幻の啄木歌集「仕事の後」 39

鹿野の名論文の中でも、このあたりからの叙述は圧巻である。が、割愛する。

この「百回通信」を10月1日以来28回にわたって執筆してきた啄木は、11月19日執筆(21日掲載)の第28回をもって中断する。

中断の理由は不明である。朝日新聞社ではこの11月から二葉亭全集の校正の仕事が増えたこと(それは収入増をも意味するが)、そのため肉体的にいっそうしんどくなったこと、などが一往理由として考えられる。

「百回通信」を事実上やめたことで、出勤前の数時間が自由になった。

啄木がこの時間を得て、取りかかったことの1つに詩論「弓(ゆみ)(ちょう)より(副題)食(くら)ふべき詩」の執筆がある。

11月30日~12月7日に7回、東京毎日新聞に連載した。

1回~4回は自己の天才主義時代から生活者の視点獲得(現在)までの、簡潔を極めた自叙伝になっている。

2011年12月24日 (土)

幻の啄木歌集「仕事の後」 38

鹿野政直はこの変化を「″天才″の視点から″生活者″の視点への転回」と呼んだ(「啄木における国家の問題」)。

井上ひさしは啄木の「回心」と呼んだ(「the 座」1986/6)。

啄木は新生した。かれが「天才」を捨てた時、天才石川啄木が誕生した。

自分自身を、そして世の中を直視する啄木はすぐれた数々の評論を書きはじめる。

評論は岩手日報への「百回通信」として始まった。執筆の目的は生活費を稼ぐことであった。(この評論連載を岩手日報にいる新渡戸仙岳に頼みこんだのは、妻の家出以前の9月28日である。)

鹿野政直は言う。

この「百回通信」において「啄木は、生活への関心のふかまりを、政治思想化し経済思想化する視点を確立したようにみえる。それは、社会主義思想としてはまだ結晶していないけれども、一文学者ないし一ジャーナリストあるいは一人間の時評としては、おどろくべく視野のひろいものである。政治・経済・外交・社会などの問題へのふかい関心が随所に示されており、文芸問題すら政治・社会問題の一局面としてとりあつかわれている。その関心は、イギリスの政治、中国問題、東北振興問題、地租軽減問題、工場法の問題、教育問題などにわたり、かつてのような高踏的超越的な近代批判はかげをひそめ、現実へふみこんでゆこうとする姿勢がいちじるしい。」

2011年12月22日 (木)

幻の啄木歌集「仕事の後」 37

この日から節子帰宅(10月26日)までの間に、啄木の変身は完了した。

啄木はこの世のあらゆることを直視する人となった。

まず何よりも先に自分自身を徹底的に直視した。

その結果、自分は「天才」でも「詩人」でもなく、普通の「人」であると認めた。

そして長い間馬鹿にしてきた、自分と家族が生きてゆくための勤め(職業)が生活上の最優先事項であり、家族の扶養こそもっとも重要な「責任」であることを、誠実に再確認した。

これまでの自分を「空想家――責任に対する極度の卑怯者」と規定した(「弓町より」)。

啄木の直視は自分自身に留まらなかった。啄木自身の言葉を引くと「ふと、今迄笑つてゐたやうな事柄が、すべて、急に、笑ふ事が出来なくなつたような心持になつた」(同右)。

それはとりもなおさず、「生活」の発見であった。

「生活」の発見は、世の中に無数にいる「生活者」の発見でもあった。

世の中の「生活者」は孜々として働き、金を得、自らと家族をやしなっているではないか。

天才主義の啄木にとって世の中の人々は「教化」の対象であった。

自分を「生活者」と規定するやいなや、世の中の無数の「生活者」が自分と同じ立場の人間たちとして立ち現れた。

「生活者」の発見は「民衆」の発見でもあった。

2011年12月20日 (火)

幻の啄木歌集「仕事の後」 36

さて、「ローマ字日記」の日々はまだまだ続く。

会社をサボってまで来る日も来る日も同じ悪戦をつづけた。

信じがたい最後の苦闘の末ついに認めざるを得なくなった。自分は小説が書けなかった、「天才」ではなかったらしい、と。

そこへ家族が函館から上京してきた。この6月16日以後約百日間かけて心の整理を行い、啄木はついに天才意識を払拭し、天才主義をほとんど精算した。

啄木新生 啄木は9月末の段階ですでに、自分の文学活動よりも家族の扶養を優先させる真面目な勤め人になり、借金をやめ、家計の不足分は夜勤や原稿書きで補おうとしていた。

この啄木を強烈な衝撃が襲った。

10月2日、妻節子が家出したのである。娘京子を連れて盛岡の実家に帰ってしまったのだ。

「漸々この頃心を取直してこの身のつづく限りは働かむと思立ちたる折も折の」(新渡戸仙岳宛10/10)妻の家出だった。

2011年12月18日 (日)

幻の啄木歌集「仕事の後」 35

この明治42年1月と4月に作られた歌々から啄木が「仕事の後」に選んだと推定されるものを集めたのが「明治四十二年一月・四月」の章である。

1月の分6首は明治41年秋の歌の情調を曳いている。すべて題詠である。

この章の歌で重要なのは、4月22日、23日の分である。

日記にあるように作りたくて作ったのではなかったが、天性の歌人はつい興に乗ってしまった。「ローマ字日記」の時期の最初の半月における自分の心の姿のいくつかをうたってしまったのである。

この時期も苦し紛れに自殺や死を思うことしきりであったが、それが「森の奥より銃声」「いたく錆しピストル」「『さばかりの事に死ぬるや』」「よく笑ふ若き男の死にたらば」「こそこその話声が」などの歌になった。

小説は書けない、下宿代は払えない、居場所がない。その心の姿が「何となく汽車に」「空家に入り」等の歌である。

それ以外にも「ローマ字日記」中の記述と符合する歌がある。「快きあはれこの疲れ」「尋常の戯けならむや」「不覚にも婚期を過ぎし妹」の歌など。

このように実生活における日常の自己の心の姿をうたうことをやってしまったのである。

これが『一握の砂』最初の章「我を愛する歌」の源流となる。

2011年12月16日 (金)

幻の啄木歌集「仕事の後」 34

啄木も折れて22日の朝、めずらしく早起きして歌を6首ばかり作った。そして興が乗って来たらしい。夜にも作った。

  Yoru, Kindaichi kun to katari, Uta wo tsukuri, 10ji goro mata Kindaichi kun no Heya e itte, tsukutta Uta wo yonde Ô-warai.

翌23日も帰宅してから歌を作り、前年11月に作った1首、今年1月に作った6首および昨日今日作った分を合わせ編集して、「莫復問(ばくふくもん)七十首」と題し、快く寝た。

日記にはこの作業について、こうも記してある。

  Nani ni kagirazu ichi-nichi Hima naku Shigoto wo shita ato no Kokoromochi wa tatôru mono mo naku tanoshii. 

啄木はどんなに斜に構えても、歌が心から好きなのだ。

しかし今は歌どころではない。小説だ。しかもその小説が書けない!

2011年12月14日 (水)

幻の啄木歌集「仕事の後」 33

そこでこの日「Henabutte yatta.」のである。

「Henabutte yatta.」とは木股知史によれば、当時流行の「へなぶり狂歌」のまねをして、「ふざけて歌を作ってやった」くらいの意味である(『石川啄木・一九〇九年』)。

「わが髭の」から「青草の」までの八首がそれである。

4月20日東京朝日新聞社から帰ったばかりの啄木のところに「スバル」短歌号(5月号)の編集をしていた平出修から電話がかかってきた。短歌原稿の催促である。

Iikagen na Henji wo shita ga, hm! tsumaranai, Uta nado!

ということになる。

そして下宿を飛び出して、活動写真を観て、あてもなく1時間も電車に乗った。

21日また平出から催促の電話。「スバル」の同人間にあって啄木の短歌における存在感は「石破集」以来特別の重さを持っていたのだと思われる。

2011年12月12日 (月)

幻の啄木歌集「仕事の後」 32

森鴎外の観潮楼歌会では次の歌会のための題(たとえば、斯く・さぞ・瓶・海、など)を出しておく。兼題である。

新詩社の場合、題はその場で出されたらしい。この日であると、毒・上衣・横・万年筆(ぴつ)・土手、など(新詩社ではこうした題を「結び字」と言った)。これを1首の中に詠み込んで歌を作り、互いに発表しあうのである。

小説が書けなくて、自分の文学の才能それも「天才」に疑惑が生じ、その恐怖におののきつつ、苦悩をローマ字で書き綴る日々。

昨年6月下旬の歌の奔流は、カタルシスであった。

今啄木はカタルシスをローマ字日記でおこなっている。昨日の記述は特にすさまじかった。

もはや歌はカタルシスの手段たりえない。歌うべきことなどない。

今の絶望的努力、絶望的情況を歌で表現することなど、論外だ。まして題詠など遊戯としか思えない。

2011年12月10日 (土)

幻の啄木歌集「仕事の後」 31

こう言う日々の第4日目つまり明治42年4月10日、啄木はローマ字日記でも、もっとも長い、もっとも有名なくだりを綴っていた。

   Ikura ka no Kane no aru toki, Yo wa nan no tamerô koto naku, kano, Midara na
  Koe ni mitita, semai, kitanai Mati ni itta.Yo wa Kyonen no Aki kara Ima made ni, oyoso 13-4 kwai mo itta.
 

これ以下の長い記述はもっとも衝撃的で、ある意味ではもっともあるが、割愛する。

長い長いローマ字日記を書いた翌日の4月11日の午前、金田一京助と隅田川で花見をした啄木は、午後金田一と別れ、千駄ヶ谷の与謝野宅に向かった。新詩社歌会があるのだ。

   Rei no gotoku Dai wo dasite Uta wo tukuru. Minna de 13 nin da. Sen no sunda no wa 9 ji goro dattarô. Yo wa kono-goro Mazime ni Uta nado wo tukuru Ki ni narenai kara, aikawarazu Henabutte yatta.   

2011年12月 8日 (木)

幻の啄木歌集「仕事の後」 30

ローマ字日記の時期の短歌 明治42年4月7日、啄木はこれまで使っていた当用日記をやめ、背革黒クロースの洋横罫ノートにローマ字の日記を記し始めた。世にいう「ローマ字日記」である。

日記を書くことは啄木自身の半生を総点検する壮絶な煉獄と化した。毎日執拗に小説を書こうとするが、毎日書けないことを思い知らされる。小説が書けないということは自分が「天才」ではなかったことの証明である、と啄木は考えた。15歳でいだきはじめ、18歳で不抜のものとなった天才意識、その天才の実現を至上目的として生きてきたこの8年間。自分を「天才」でないと認めた日、それは人生の至上目的が消滅する日であり、苦闘の8年間が無に帰する日である。だから小説が書けない自分の現実をどうしても「直視」できなかった。

「ローマ字日記」は6月16日母・妻・京子を上野駅で迎えたところで終わる。

2011年12月 6日 (火)

幻の啄木歌集「仕事の後」 29

 9月6日、赤心館の下宿料を払えない啄木は下宿を追い出されそうになった。金田一京助が蔵書を売り払って金をつくり救ってくれた。

金田一の蓋平館主人との交渉のお蔭で啄木の下宿料は12月まで催促なしとなった。

啄木の古典摂取はつづく。9月に入って古今集・源氏物語(「野分」あたりまで?)を読み、下旬には「白楽天詩集」(おそらくは近藤元粋評訂『白楽天詩集』〈青木嵩山堂〉)「宋元明詩選」(おそらくは近藤元粋著『宋元明詩選』〈青木嵩山堂〉)を読んだ。

 ふる郷の空遠みかも高き屋に一人のぼりて愁ひて下る

 皎(かう)として玉を欺く少人も秋来(く)といへば物をしぞ思ふ

 そを読めば愁知るといふ書焚(た)ける古人(いにしへびと)の心よろしも

 秋立つは水にかも似る洗はれて思ひことごと新らしくなる

この間の成果は「明星」9月号に「虚白集」102首として集成される。

その後も作歌活動は続けられるが、「明治四十一年秋」の章は8月8日から11月26日までに作られた歌からなる。

この章の歌々は2年後に『一握の砂』5章中の1章「秋風のこころよさに」の主要部分となる。

2011年12月 4日 (日)

幻の啄木歌集「仕事の後」 28

古典による洗練 8月上旬には唐詩選や蕪村の句集(おそらくは山田三子編『蕪村俳句全集』〈内外出版協会〉)を入手して読みはじめた。

また「心の花」(7月号、8月号)に連載された北原白秋の詩「断章」にも心をうたれた。

万葉集・蕪村句集・唐詩選そして白秋の「断章」は啄木の詩神のよごれを洗い流してゆく。

8月8日の作から美しい歌が詠まれはじめる。

 ふるさとの寺の御廊(みろう)に踏みにける小櫛(をぐし)の蝶を夢に見しかな 
 

 はたはたと黍(きび)の葉鳴れる故郷の軒端ぞ恋し秋風吹けば

 愁ひ来て岡に上れば名も知らぬ鳥啄(ついば)めり赤き茨(ばら)の実

8月29日の作品には一層の進境が見られる。

 雨後の月ほどよく濡れし屋根瓦そのところどころ輝くもよし

 秋のこゑまづいち早く耳に入るかかる性(さが)もつ悲しむべかり

啄木の内部では、今読んでいる古典ばかりでなく昔愛読した古典もまた甦っていることであろう。たとえば次の歌に西行の「山家集」を見ることはできないか。

 月かげとわが悲(かなし)みと天地(あめつち)に普(あまね)き秋の夜となりにけり

2011年12月 2日 (金)

幻の啄木歌集「仕事の後」 27

啄木は明星に原稿を送る時にはすでに、この歌1首を自分が落とした「石一つ」になぞらえていたのだと思われる。

先に見たとおり、この歌を作ることによって歌人石川啄木のビッグバンは始まったのだった。

寛が手を入れたと思われる歌は、20首前後ありそうだが、啄木が「皆原作より悪い。感情が虚偽になつてゐる。……少し気持ちが悪い」というのは分かるような気がする。

ただし「たはむれに母を背負ひてその余り軽きに泣きて三歩あるかず」は啄木の原稿だが、「三歩あゆまず」に変えたのは寛らしい。そして啄木はこの手直しは結局受け入れた。

7月11日。

 万葉集を読む。あるかなきかの才を弄ばむとする自分の歌がかなしくなつた。

吉井の勧めであろうか、中学時代愛読書だった万葉集を再び読みはじめたのだ。

そして6月下旬に作った歌々、「石破集」に載せた歌々のうちのおそらく奇怪・異様な歌々を念頭に置きつつ、「あるかなきかの才を弄ばむとする自分の歌がかなしくなつた」のであろう。

古典を読んで深く反省する啄木がここにいる。

「明治四十一年六月・七月」の章に集めたのが以上の時期の歌である。

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