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2012年9月

2012年9月30日 (日)

石川啄木伝 東京編 その7

  5月16日「菊池君」は書けず田山花袋の「蒲団」を読んで考えこんでいる。夕方辺りが暗くなっても「洋燈もつける事も忘れて、椅子に凭れて居た」。そしてその時の幻想を記す。
 轟々たる都の響きの只中から、幻が唯一つ花の様に湧いて、近づいて来る、近づいて来る。
  昨日の貞子との情事が啄木を捉えている。
  17日、貞子の家に遊びに行く。貞子の母が「飛び立つ程喜んで迎へてくれた」。貞子はきっと母に啄木が独身だと言ってあるのだろう。歓待されお土産までもらって新詩社へ。
 この日の歌会は与謝野夫妻を含めて17人。正月に連袂退社した吉井勇と北原白秋もやってきた。平出修が7年目で歌を作った。勇、白秋そして晶子、寛らから啄木の歌は大いに刺激を受けることになる。修との本格的な交際の端緒がここに開かれる。
 この日の啄木の1首。
  火の如き少女つと出づ虚なる都の響き轟たる中ゆ
 貞子のことだ。この日も「菊池君」は書けない。
  18日「菊池君”は、余り長くなるので、筆を止めて今日新たに”病院の窓”の稿を起す。釧路の佐藤衣川の性格を書くのだ」と言う。14日に61枚目まで書きその後5枚ほど書いて、とうとう放り出した。そして「病院の窓」を起稿する。
  「病院の窓」の主題は、「肉霊の争ひ胸中に絶ゆる事なく、下り坂一方の生活のために廉恥心なくなり、朝から晩まで不安でゐる人間を描き候」(宮崎郁雨あて、6・8書簡)と、啄木自身が述べているが、「肉」と「霊」の争いという、自然主義の常套的主題が、不意に啄木をとらえ、……「病院の窓」を書かせるに至った心境には、あきらかに植木貞子との情炎が投影している、……
と石井勉次郎は言う。

2012年9月28日 (金)

石川啄木伝 東京編 その6

5月13日の日記。
 ……初め菊池君だけ書かうと思つたのが、何時しか菊池君とお芳(「醜女(みたくなし)の」女中―引用者)の事を書く気になり、今日からは寧ろ釧路のアノ生活を背景にして、叙説者自身と菊池君との間に、或関係の生じて行く所、――詰り人間と人間の相接触して行く経路――を主眼として書いた。
はたして「菊池君」はすぐに書けなくなった。「菊池君とお芳の事」にテーマが「放浪」し始める。さらに「叙説者自身と菊池君との間」へと彷徨う。ここまで来ると「雲は天才である」「葬列」「漂泊」の時とまったく同様で「叙説者自身」を讃美する文章がとめどもなく垂れ流される。
こうしてこの小説は「雲は天才である」の二番煎じである。
この「放浪」中の6月9日から14日まで、植木貞子との危ない関係が急速に進展していた。9日啄木留守中の赤心館を貞子が訪ねて来た。以後毎日のように本人かはがきが来る。
そして15日の日記となる。
快く眠つたので、九時半漸く目をさました。
ト、てい子さんが来た。空が美しく晴れて居て、此頃目について大きくなつた公孫樹の葉が日影に透く。一緒に昼食をとつて、三時近く帰つて行く。
  日中の夢は〝昔″と云ふ語で初まつて、〝今″といふ事実に覚める。〝昔″は〝今″を孕んで、〝今″が〝未来″を孕む。〝昔″は追憶に残る夢で、〝未来″は予測に萠す夢である。予測から追憶に移る一刹那の〝現在″に、夢が〝事実″を一寸見せて直ぐ隠す。〝現在″の女は〝胸が痛い〃と云つた。
  心の落付かぬ日で、何も出来ぬ。

「この日、貞子との間に肉体関係が生じたのである」と喝破したのは石井勉次郎であった 。釧路で小奴のアタックをようやくかわした啄木の「道念」はついに融けてしまった。

2012年9月26日 (水)

石川啄木伝 東京編 その5

さて、9日から14日まで啄木の筆は進んだ。14日には61枚目を書いている。一体この小説で啄木は何を書こうとしているのか。
題が「菊池君」であるから釧路で出会った北東日報の記者菊池武治が念頭にあるのだろう。しかし釧路でかれと話しこんだのは3回。深くつき合った人間ではない。ただ初対面の日から菊池を「正直で気概があつて、為に失敗をつづけて来た天下の浪士」と啄木は見ていたのであった。同時にわれわれは啄木が自身を「所詮私は『生活』に適合する能はざる人間にして、人生の落伍者也、身も心も宇宙の浮浪漢(ごろつき)なり」と居直っているのを4月22日付け大島宛の手紙で見ている。今「菊池君」と題して書こうとしているのは20年後の「天野朱雲」なのだ。15歳の頃以来ゴーリキーをまねて「放浪者哲学」「放浪者なる理想の人格」をテーマに小説を書こうとしたこと、そして失敗したことはすでに見た。同じ失敗はもう一つあった。函館で書いた「漂泊」である。若い天野朱雲でさえ書けなかったのに20年後の「天野朱雲」が書けるであろうか。
理念が先にあって、理念を小説化しようというのは『あこがれ』の詩作の時とまったくかわらない。『あこがれ』の時は根底に理念=天才主義があった。啄木は正真正銘の天才主義者であった。「放浪者哲学」はその頃の理念の一形態である。天才主義は釧路で捨て去られた。「放浪者哲学」は今や理念ではなく、理念を失って思想的に放浪する石川啄木自身の内面の合理化である。創作の根底に据えるべき理念のない啄木の姿そのものである。

2012年9月24日 (月)

石川啄木伝 東京編 その4

昨日の7日、鴎外宛てにこう書いたのも啄木だった。
 中学もロクに卒業せぬ程素養のなき私、……其昔の稚なかりし不敵の自惚何処へやら、……謂はゞ文芸を、私如きものが世に生きて行く上の、物質的にはた精神的に、唯一つの生活の方法とやらに、身をはかなく小さきものに存じ、……函館よりの船の中、東京及び東京の人が如何に進んで居るかも知らねば、云ひしれぬ怖れと不安に心細く、……
などとしおらしく書いていたのである。
一夜明けるとこの放言である。書いている内にきっと、「ロマンチツクの影」が動いて「空想は空想を生みて尽くる所なし」となって(4月22日大島経男宛)、いっぱしの作家になった気分になり、いつしか空想の中で自分を漱石以上の才能に押し上げているのだ。第1次上京時とも第2次上京時(『あこがれ』時代)ともまったく変わらない。
啄木の現実から目をそらすやりかたは二重である。一つは意識的に直視を避ける。もう一つは無意識のうちに避ける。前者は意識のどこかで逃げていることを自覚している。後者は空想癖であって無自覚である。その空想の根っこは無制限の自己愛とこれに合体した天才意識である。現実逃避のほとんど全空想はこの根っこからたえず生えてくるのである。「漱石以上の才能」の妄想などはその典型だ。

2012年9月22日 (土)

(5ヶ月の再中断の後に) 追記

知人からメールでご注意いただきました。今回始めたブログがなぜ「石川啄木伝」なのか。それもなぜ東京編なのか。「石川啄木伝 東京編」から始めるにしても、これが石川啄木の人生の中でどんな位置を占める時期なのか。こうした事柄についての説明がまずあった方が親切ではないか。こんな内容でした。

まことにごもっともと考えます。ブログ再開のご挨拶をあらためて致します。

まずブログの総タイトル『一握の砂』を朝日文庫で読む」は、「我を愛する歌」151首の評釈およびこれを踏まえた「我を愛する歌」各見開き4首の内的連関の研究、をもって終わりました。その後同じ総タイトルのままで、定本悲しき玩具「一握の砂以後」・幻の歌集「仕事の後」の刊行に先立って、それらの解説等を行いました。この段階でブログのタイトルと内容は乖離しました。さらに『復元啄木新歌集』への評を載せました。読者層が固定しているようなので、タイトルと内容の乖離は意に介しませんでした。ここでまたブログを中断したのでした。

ブログの(何度目かの)再開は億劫でした。しかしブログの訪問者数は5ヶ月の中断の間にもほとんど減らないのです。多い数ではありませんが、訪問してくださる方々がいる(アクセス数の1日平均52,訪問者数1日平均25)。『一握の砂』の「我を愛する歌」以降の研究は当面考えていない。どうしようか。

そこで思いついたのがここ8年間執筆中の「石川啄木伝」の掲載でした。それも啄木の人生でもっとも面白いもっとも誤解を生んでいる時期の評伝がいいだろう、と思いました。そこでほとんど説明もなしに「石川啄木伝 東京編」を始めてしまった次第です。

「石川啄木伝 東京編」が啄木の人生のどんな時期に当たるのかは、右にあるマイリストの「石川啄木著『一握の砂』を読む 近藤典彦」をクリックして、そのサイトに行き「啄木に関するメモ」を開いてください。わたくしの作成した「石川啄木略年譜」があります。それをご参照ください。

今後また偶数日に「石川啄木伝 東京編」を載せてゆく予定です。ご訪問ください。

2012年9月20日 (木)

石川啄木伝 東京編 その3

若い平野・北原・吉井との交流は啄木にとってこよない刺激を与えることになろう。
夜の9時半散会。「出て来る時、鴎外氏は、石川君の詩を最も愛読した事があつたもんだ」言ってくれた。『あこがれ』の詩人石川啄木への高い評価、啄木の才能そのものへの高い評価を感じさせるエピソードである。
吉井・北原と3人は動坂にある平野宅に流れ、しゃべり、泊まる。
4日、金田一を頼って本郷区菊坂町82の赤心館に移る。これから1年ばかり金田一の友情をこれまでにも増して受けることになる。
7日「古本屋に行つて電車賃を拵」えている。船に乗る時に郁雨から特別に10円渡されていたのに、あれから12日目の今日はその10円も含めてすっからかんなのだ。この日節子から「針の一目一目に心をこめた袷に羽織」が届く。釧路にいた時から連絡を取り合っていた植木貞子からはがきが届く。返事を出す。森鴎外へ丁重な手紙を書く。
8日午後2時ころから短編小説「菊池君」を書き始めた。夜中の12時までかかってやっと3枚書けた。そして日記にこう記す。
 書いてる内にいろいろと心が迷つて、立つては広くもない室の中を幾十回となく廻つた。消しては書き直し、書き直しては消し、遂々スッカリ書きかへて了った。自分の頭は、まだまだ実際を写すには余りに空想に溢つて居る。夏目の〝虞美人草″なら一ケ月で書けるが、西鶴の文を言文一致で行く筆は仲々無い。
「実際を写すには余りに空想に溢つて居る」から、書けないのだという。これはまだいい。「夏目の〝虞美人草″なら一ケ月で書ける」とは! この放言の裏には「天才意識」がうごめいている。

2012年9月18日 (火)

石川啄木伝 東京編 その2

 ところで啄木が三河丸に乗り込む前日の4月23日、三木露風が内海信之宛てにおもしろい手紙を書いている。

 石川啄木君も愈々本月下旬北海道より野口雨情共々携えて上京の筈に候、啄木は新詩社にて活動する筈に候、しかし当分は遅れたる詩風故勿論駄目に候ふべし。鉄幹は此れを命と頼んでゐる様子目もあてられず気の毒千万に候、

 与謝野寛は、すでに時代に取り残されつつあった。啄木の目には3年前より「余程年老つ」て見えた。家計も不如意のようだ。明星は売れなくなっていた。明星を出すたびに月に30円の損になるという。
 小説の話になると、寛は漱石を激賞して、朝日新聞連載中の島崎藤村「春」を罵倒した。「自然派などといふもの程愚劣なものは無い」と言った。そして「僕も来年あたりから小説を書いて見ようと思つてゐるんだがね」と言った。啄木が「来年からですか」と聞くと「マア、嶋崎君なんかの失敗の手本を見せて貰つてからにするサ」と言う。

  

 ……予はこれ以上聞く勇気がなかつた。……
 十時に枕についた。緑の都の第一夜の夢は、一時過ぐるまで結ばれなかつた。

 翌日本郷菊坂の赤心館に金田一京助を訪ねる。すっかり話し込んで寝たのは2時過ぎ。
翌30日、金田一の部屋で目を覚ました。金田一の自然主義論に興がひかれる。
 千駄ヶ谷に帰ると森鴎外から5月2日にある観潮楼歌会への案内が届いていた。寛の配慮によるのであろう。
 東京はたしかに釧路にいたときとは比較にならぬ文学的刺激に満ちている。函館時代の親友並木武雄を、市ヶ谷に訪ねる。並木は東京外国語学校(現東京外国語大学)の清語(中国語)学科に入学したばかり。夜漱石の『虞美人草』を読んで寝る。
 5月2日与謝野寛とともに本郷区駒込千駄木町21番地の森鴎外邸へ。この日の観潮楼歌会で啄木は5年前は雲上の人であった鴎外をはじめ、佐佐木信綱、伊藤左千夫、吉井勇、北原白秋と面識を得たのである。平野万里とは再会であった。
 こうして啄木は短歌界に復帰した。1年前のことだが、函館に渡ったときは歌が出てこないととまどった啄木であったが、苜蓿社同人達との歌会で感覚をとりもどし、小樽日報に「藻しほ草」、釧路新聞では「釧路詞壇」という短歌欄を設けて選者を兼ねていた啄木だった。

2012年9月17日 (月)

石川啄木伝 東京編その1

 1908年(明41)4月25日、三河丸船中で記す
 
終日船に寝て現なく物思ふ。過ぎ去つた事、殊にも津軽の海を越えて以来、函館札幌小樽釧路と流れ歩いて暮した一ケ年間の事が、マザマザと目に浮ぶ。自分一人を頼りの老いたる母の心、若い妻の心、しみじみ思やつて遣瀬もなく悲しい。目を瞑ると京子の可愛らしい顔が浮ぶ。
 飄泊の一年間、モ一度東京へ行つて、自分の文学的運命を極度まで試験せねばならぬといふのが其最後の結論であつた。
 
翌26日船は宮城県の荻浜に投錨、5時間の碇泊。物見高い啄木はもちろん上陸。「大森といふ旅店」で朝飯をたべ、給仕に出た若い娘の名(佐藤藤野)を聞き出したりした。ついで山の中腹の一軒家に立ち寄って「其家の主婦に十銭やつて八重の梅と桜を一枝づつ貰つたり」した。ちなみに当時そば(もり・かけ)の値段は東京でも3銭である。こうして「雪が消えた許りの、青草一つ無い国から、初夏の都に行く自分には、此荻の浜の五時間が今年の春であ」ると喜んだ。
 27日夕方6時船は横浜港に投錨。啄木はすぐに新詩社には行かない。実のところかれは「函館からの船の中で、東京及び東京の人が如何許り進んで居るかも解らず、心細さ頼りなさに胸は怖れの波をあげ」ていたのである。そこでまず最新の文壇情報を得てから東京に入ろうとして、正金銀行前の長野屋に宿をとった。そして翌日山岳文学者小島烏水を正金銀行に訪うた。烏水は啄木の「葬列」を評価して手紙をくれた人でもある。
  
名知らぬ料理よりも、泡立つビールよりも、話の方がうまかつた。話題の中心は詩が散文に圧倒されてゆく傾向と自然主義の問題であつた。
  ……午后二時発の汽車は予を乗せて都門に向つた。車窓の左右、木といふ木、草といふ草、皆浅い緑  の新衣をつけて居る。アレアレと声を揚げて雀躍りしたい程、自分の心は此緑の色に驚かされた。予の目は見ゆる限りの緑を吸ひ、予の魂は却つて此緑の色に吸ひとられた。やがてシトシトと緑の雨が降り初めた。
 烏水の文壇情報は啄木を安心させたらしい。またぞろ例の「空想の芽を吹き」(4/22大島流人宛)始めたようだ。えらく元気がよい。
 3時新橋に着いた啄木は電車は安いが億劫だと、「遂に一台の俥を賃して」千駄ヶ谷町549の新詩社へ。JRの現新橋駅付近から現代々木駅付近までを人力車で行くとしたら結構な俥賃であったろうに。(ちなみに2010年現在の東京駅-代々木駅間はタクシーで2690円・約8.3㎞、である。)車夫が啄木を乗せて行くことができるのだから、若い健脚の啄木なら歩くことも出来たであろうに。歩くことなんか念頭にない。狭い函館でも俥を飛ばしていたのだった。安く不案内の電車か、高い俥か。金が懐にあると先のことなどまったく考えないで、金をやたらと遣うのが啄木だ。それは第一次上京時も今も全く変わらない。死ぬまで変わらない。 

 

2012年9月16日 (日)

5ヶ月の再中断の後に

ブログをやめてしまうか、つづけるか4月5日以後また迷ってしまいました。ブログをやらなくなった時間で「石川啄木伝」の執筆が少し進みました。現在ローマ字日記の1909年(明42)5月を執筆中です。全体は約8年かけて1800余枚になりました。

そのうちの1908年(明41)4月25日以後(第三次上京以後)をブログにして連載しようかと考えるようになりました。全部で二千数百枚になりそうな「石川啄木伝」ですから、出版の時は大鉈を揮い4分の1くらいにまで凝縮することになるでしょう。しかし今回のブログでは生のまま、粗々の原稿そのままです。

できることなら、なるべく多くのご感想をいただきたいです。コメント欄で交信したいものです。そのうちツイッターも活用したいとは思っています。

 「石川啄木伝」に入る前に『復元啄木新歌集』にお寄せいただいたありがたいご感想のうち、これだけはどうしてもご紹介したいものがあり、それを以下に載せます。

 渡部紀子さんのおてがみです。渡部さんは中央大学名誉教授渡部芳紀さんの夫人で、芹沢光治良の研究者としても活躍されています。

戴いた『復元 啄木新歌集』を主人より私の方が先に読ませていただき夢中になりました。
天才詩人啄木の魅力にも増して、近藤先生の解説を超えた解説には衝撃と感銘を受けました。
このように見事な解説、読んだことがありません。
スリリングな展開、スピード感、まるで見てきたかのような描写力、その日常が手に取るように分かる面白さ、まるで啄木が乗り移ったかのような筆力。
啄木の心情と一体化して、啄木以上に啄木の内面を語っているようです。啄木自身「僕以上に僕のことを分かっている」と苦笑しているのではないかしらん。
確かに彼の歌が非凡であることは感じておりました。
(と言うよりは、他の歌人達の美文調の歌が凡庸でつまらなく思えるのです)
しかし、どこがどう違うのか、それは何故か等、近藤先生の明晰な文章で頭の中が整理されて、透明になっていくような清々しさを覚えました。感謝です。

文庫本であること、余白、文字が大きいことも含めて、読みやすく持ちやすく親しみやすい優れた歌集です。
(宣伝と工夫すれば大いに売れると思います)

うたびとでない私も歌心に灯をつけられて、最近五七五七七調でものを考えています。

(このあと渡部さんは18首の歌を詠んでおられます。そのうち6首を紹介させていただきます。)

我が事となれりこたびの大震災
      
まなこ閉じれどまなこ開けど 渡部さんのご実家は津波の襲った岩手県山田町

恋文に啄木の歌書き連ね
      届けし人は若くして去
(い)

その昔熱意をこめて啄木を
      語りし人を思ひ出づる日

非凡」とは啄木にこそふさわしき
      その境涯も詠まれし歌も

如月の月の半ばの朝七時
      富士の真上に月は浮かびぬ

箱根路を登り来て見し雪の花
      ふもとで聴きしは雨音なりしが

(お手紙は3月3日に戴きました。渡部さんありがとうございました。渡部ご夫妻は3.11後の山田町の高台に邸宅を建て、そちらに移住されました。)



 

 
  

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