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2012年9月26日 (水)

石川啄木伝 東京編 その5

さて、9日から14日まで啄木の筆は進んだ。14日には61枚目を書いている。一体この小説で啄木は何を書こうとしているのか。
題が「菊池君」であるから釧路で出会った北東日報の記者菊池武治が念頭にあるのだろう。しかし釧路でかれと話しこんだのは3回。深くつき合った人間ではない。ただ初対面の日から菊池を「正直で気概があつて、為に失敗をつづけて来た天下の浪士」と啄木は見ていたのであった。同時にわれわれは啄木が自身を「所詮私は『生活』に適合する能はざる人間にして、人生の落伍者也、身も心も宇宙の浮浪漢(ごろつき)なり」と居直っているのを4月22日付け大島宛の手紙で見ている。今「菊池君」と題して書こうとしているのは20年後の「天野朱雲」なのだ。15歳の頃以来ゴーリキーをまねて「放浪者哲学」「放浪者なる理想の人格」をテーマに小説を書こうとしたこと、そして失敗したことはすでに見た。同じ失敗はもう一つあった。函館で書いた「漂泊」である。若い天野朱雲でさえ書けなかったのに20年後の「天野朱雲」が書けるであろうか。
理念が先にあって、理念を小説化しようというのは『あこがれ』の詩作の時とまったくかわらない。『あこがれ』の時は根底に理念=天才主義があった。啄木は正真正銘の天才主義者であった。「放浪者哲学」はその頃の理念の一形態である。天才主義は釧路で捨て去られた。「放浪者哲学」は今や理念ではなく、理念を失って思想的に放浪する石川啄木自身の内面の合理化である。創作の根底に据えるべき理念のない啄木の姿そのものである。

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