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2012年9月17日 (月)

石川啄木伝 東京編その1

 1908年(明41)4月25日、三河丸船中で記す
 
終日船に寝て現なく物思ふ。過ぎ去つた事、殊にも津軽の海を越えて以来、函館札幌小樽釧路と流れ歩いて暮した一ケ年間の事が、マザマザと目に浮ぶ。自分一人を頼りの老いたる母の心、若い妻の心、しみじみ思やつて遣瀬もなく悲しい。目を瞑ると京子の可愛らしい顔が浮ぶ。
 飄泊の一年間、モ一度東京へ行つて、自分の文学的運命を極度まで試験せねばならぬといふのが其最後の結論であつた。
 
翌26日船は宮城県の荻浜に投錨、5時間の碇泊。物見高い啄木はもちろん上陸。「大森といふ旅店」で朝飯をたべ、給仕に出た若い娘の名(佐藤藤野)を聞き出したりした。ついで山の中腹の一軒家に立ち寄って「其家の主婦に十銭やつて八重の梅と桜を一枝づつ貰つたり」した。ちなみに当時そば(もり・かけ)の値段は東京でも3銭である。こうして「雪が消えた許りの、青草一つ無い国から、初夏の都に行く自分には、此荻の浜の五時間が今年の春であ」ると喜んだ。
 27日夕方6時船は横浜港に投錨。啄木はすぐに新詩社には行かない。実のところかれは「函館からの船の中で、東京及び東京の人が如何許り進んで居るかも解らず、心細さ頼りなさに胸は怖れの波をあげ」ていたのである。そこでまず最新の文壇情報を得てから東京に入ろうとして、正金銀行前の長野屋に宿をとった。そして翌日山岳文学者小島烏水を正金銀行に訪うた。烏水は啄木の「葬列」を評価して手紙をくれた人でもある。
  
名知らぬ料理よりも、泡立つビールよりも、話の方がうまかつた。話題の中心は詩が散文に圧倒されてゆく傾向と自然主義の問題であつた。
  ……午后二時発の汽車は予を乗せて都門に向つた。車窓の左右、木といふ木、草といふ草、皆浅い緑  の新衣をつけて居る。アレアレと声を揚げて雀躍りしたい程、自分の心は此緑の色に驚かされた。予の目は見ゆる限りの緑を吸ひ、予の魂は却つて此緑の色に吸ひとられた。やがてシトシトと緑の雨が降り初めた。
 烏水の文壇情報は啄木を安心させたらしい。またぞろ例の「空想の芽を吹き」(4/22大島流人宛)始めたようだ。えらく元気がよい。
 3時新橋に着いた啄木は電車は安いが億劫だと、「遂に一台の俥を賃して」千駄ヶ谷町549の新詩社へ。JRの現新橋駅付近から現代々木駅付近までを人力車で行くとしたら結構な俥賃であったろうに。(ちなみに2010年現在の東京駅-代々木駅間はタクシーで2690円・約8.3㎞、である。)車夫が啄木を乗せて行くことができるのだから、若い健脚の啄木なら歩くことも出来たであろうに。歩くことなんか念頭にない。狭い函館でも俥を飛ばしていたのだった。安く不案内の電車か、高い俥か。金が懐にあると先のことなどまったく考えないで、金をやたらと遣うのが啄木だ。それは第一次上京時も今も全く変わらない。死ぬまで変わらない。 

 

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