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2012年10月

2012年10月30日 (火)

石川啄木伝 東京編 22

 それはさておき、この作品の結末は藤野の死・女乞食(そして乳飲み子)の死に始まって以後「十幾年」間に父が、高島先生が、幾人の友が死に、自分も肺結核にかかり、鎌倉の病院で「濤音」を聞きながら死を待っている。完。
 「菊池君」の手本はゴーリキー、「病院の窓」は田山花袋、「天鵞絨」は(その手本今のところ分からないが)絵空事だった。
 「二筋の血」では誰のまねをして、何を書こうとしたか。おそらく国木田独歩を手本にしたらしい。独歩の第四短編集『濤声』(彩雲閣、一九〇七年五月)を読んだかどうかは未詳であるが(41年10月20日に『濤声』を読んだ。日記参照。独歩の死は6月23日)、その序詩「秋の入日」(『濤声』初出)は「二筋の血」のテーマを考える場合参考になるので、2連各5行の詩の内の前5行を引いておこう。
  要するに悉(みな)、逝けるなり!
  在らず、彼等は在らず。
  秋の入日あかあかと田面
(たのも)にのこり
  野分はげしく颯々と梢
(こずゑ)を払ふ
  うらがなし、あゝうらがなし。

 こうした独歩の「非在の感覚」 と樋口一葉一代の傑作「たけくらべ」から幼い恋というモチーフを借りてできたのが「二筋の血」であるように思われる。
 この小説をもずいぶんあげつらったが、新太郎藤野の物語は子供の恋という一葉の切り拓いたテーマを啄木が引き継いでおり、それはやがて中勘助「銀の匙」の先駆ともなっている。

2012年10月28日 (日)

石川啄木伝 東京編 21

 9日、今度は「“二筋の血”といふのを書き出したが、三四枚書いて迷つた」。「刑余の叔父」というのを別に考えたがやはり「二筋の血」の稿を改めて34枚書く。
11日、「女中が来て、先月分の下宿料の催促」。金田一が自分の衣服を質にいれて啄木の下宿代12円を作り、啄木に貸してくれた。啄木もがんばり夜中の2時までかかって「二筋の血」33枚脱稿。
 この小説は2つのエピソード風の物語と物語その後とからなる小品である。
 主人公の檜沢新太郎で、父は渋民村の桶屋兼小作人。この新太と盛岡から転向してきた佐藤藤野のかぞえ8歳同志の幼い恋と藤野の死(一筋の血)で終わる。2つ目の物語は馬に蹴られて血を流した女乞食の死の暗示(もう一筋の血)とその満1歳にもならぬ乳飲み子の悲惨な末路の予感。そして「十幾年」後の新太郎の感慨。
 新太郎の父はひどく貧しい桶屋だが、読書が好きで孝経や十八史略を読む(宝徳寺住職ならいざ知らず、こんな桶屋がいるものか?)。新太郎の小学校の恩師はどんな資産家か知らないが、新太郎を盛岡の高等小学校に行かせてくれる。1895年(明29)4月に渋民村から、盛岡高等小学校に入れてもらえたのは地主金矢光春の長女金矢ノブと宝徳寺の一粒種石川一とのただ2人であった。一禎はそのために総本山への上納金を流用しはじめ、盛岡の親戚のいろいろな援助を総動員したのであった。こうしてようやく高等小学校を卒業したのだが、そんなことは当然の好意としか受け止めていない啄木には、親と周囲の苦労が分からない。だから高島先生が高等小学校を出してくれたなどという気軽な設定ができるのである。この点「天鵞絨」と同様である。作品内の生活感がちぐはぐなのである。独歩と同日の談ではない。

2012年10月26日 (金)

石川啄木伝 東京編 20

 小説「天鵞絨」の構成はきわめて単純だが破綻はない(絵空事なのだから当然だが)。
 この小説の最大の取り柄は東北地方岩手県渋民村の性風俗の描写であろう。これはいわゆる夜這いをめぐる具体的で生き生きした民俗資料として貴重である。啄木がここにフィクションの形でとはいえ、生きた資料を提出できたのは、村の性風俗をかなり具体的に掴んでいたからである。07年(明40)1月7日の日記に「兎角田園にまぬかれ難き男女間の悪風潮を一掃し」と記してかの卓越した先駆的性教育を実践したことはすでに見た(石川啄木伝その7)。村の青年達からかなりくわしく「男女間の悪風潮」を聞いなくてはできない実践だった。
 「菊池君」や「病院の窓」の執筆では身にあわない(借り物の)自然主義に無理に合わせようとして失敗した。自然主義から離れてみるとこのように絵空事になる。作家石川啄木は根無し草となって漂流しはじめた。しかし脳天気の啄木は「原稿料がうまく出来たら、吉井君と京都へ行く約束」をしている(日記6月7日)。
 直観の冴えわたる啄木が自分の作品の価値を直観していないはずはない。しかしその直観しているものを見据えようとはしない。駄作を傑作と敢えて見なさずにはいられないのだ。なぜか。自己の真実を見るのが怖いのだ。なぜ駄作を傑作と思い込めるのか。自分は「天才」だからだ。「天才」啄木の書くものに駄作はありえない。そう思うことで直面する天才失格の恐怖から逃避するのだ。すでに見たように批評の根底を欠いたままで上京したのであった。いい小説を書く準備を怠ったままで、「創作的生活」に入ったのだから、書けるはずがない。駄作が出来る事は約束されている。

2012年10月24日 (水)

石川啄木伝 東京編 19

 これ以上論ずるに及ぶまい。啄木の「天鵞絨」はまったくの絵空事である。
 駄作の「病院の窓」と絵空事の「天鵞絨」を啄木は森鴎外宅に持ち込んだ。鴎外はこれらを春陽堂に売り込んでくれた。啄木に対する大変な厚意である。春陽堂は鴎外の顔を立てて「病院の窓」を買い取ってくれた(ついに雑誌に載せなかったが)。「天鵞絨」ではなく駄作の「病院の窓」を春陽堂が取ったというのは、「天鵞絨」を「病院の窓」以上の駄作と評価した事を示している。
 当時の農村生活が実感できないほどに時が隔たって、その生活をイメージすらできない人たちがこの作品を読む時代になってはじめて、これを高く評価する人たちも現れたのである。
 「天鵞絨」の歯が浮くような絵空事は農村のことだけではない。床屋の源助一家のそろってあまりに善人なのもひどく非現実的だ。が、もうふれまい。
 こんな小説だが、取り柄がないわけではない。これまでの小説はすべて実質的に自己を中心とし、自己の他者との関係をプロットにしてきた。ここに来て、小説内の主たる関係は他者と他者(お定とお八重)の関係になっている。啄木小説ではじめてのことである。ここに小説「鳥影」への橋が架けられたとは言えよう。

2012年10月22日 (月)

石川啄木伝 東京編 18

 真山青果の『南小泉村』に描写される生々しい農民達の容貌、生活ぶり、金銭感覚を想起すると、「お定の汽車賃も出す」などという大工の娘の金銭感覚は渋民村に存在しようがない。こんな脳天気な金銭感覚の持ち主が村にいたとすれば石川啄木その人だけであろう。
 総じて真山青果『南小泉村』や長塚節『土』 の農民・農村描写の迫真性とは比べようもない。
 もう述べるまでもないのだが、「家出」についても見ておこう。『寄生木』の良平は前述のように資産家の次男である。男尊女卑時代の男である。お定やお八重のように女なのではない。それでさえ、家出しようにも一文無しだった。「祖母(ばば)や母や兄やに相談したら所詮駄目。そこで1円を工面するのに同窓の友人に「洋装金文字入英字書と地理書」を贈り、富家(かねもち)の県会議員であるその父から餞別に50銭を貰う。その家ではあとで祖父からといって追加の50銭をくれた。良平はその計1円をもって家出を決行したのだ。貯金などは想像もできない。
 啄木が函館で大島経男から借覧した中村星湖『少年行』の主人公奈良原武の家出をみてみよう。武の父は川口湖(河口湖)の北岸川口村で糸繭を商う兼業農家である。武は山梨中学に入りたいが、とても父の許しが得られそうもない。そこで家出を決意する。金は良平同様一文もない。「明治三十○年」のことである。武は父の取引先の仲買人に糸荷を運んだがその時受けとった売掛金5円25銭に母からもらった小遣いの10銭を足した5円35銭を握ってそのまま家出を決行する。そして夜道を誤って崖に出、水中に落ちて意識を失う。溺れ死ぬところを助けられ蘇生する。
 少年たちの家出でさえ、これほどの困難を伴うのである。まして若い女たちにおいてをや。

2012年10月20日 (土)

石川啄木伝 東京編 17

 この大凶作の翌年である明治39年度に啄木は代用教員をはじめたのである。その2年後の41年といえど渋民村の農民の現金収入は極わずかだったはずである。「毎月十八円といふ村内最高額の」 月給をとる校長の一家4人が、宿直室に住んで、家賃と燃料代その他を倹約していたことを思い出したい。「矢張九円近くも貯めてゐた」百姓の娘などあり得ないのではないか。
 啄木も読んだと思われる小説に徳冨健次郎の『寄生木』がある。主人公篠原良平は岩手県下閉伊郡山口村随一の資産家=地主の次男である。その祖母(一代前の地主一家の主婦)が長い長い年月掛けて貯めた”私得(ほまち)”は、明治28年4月現在で10円だった。たかが自作農の娘が9円の「私得」など持てるわけが無かろう。その良平は盛岡中学に入りたくて家出しようとするが、次男であるが故に1円どころか無一文であった。
 こう考えるとお定を家出に誘ったお八重のセリフもひどく現実離れしている。(東京までの)「汽車賃は三円五十銭許りなさうだが、自分は郵便局へ十八円許りも貯金してるから、それを引出せば何も心配がない。若し都合が悪いなら、お定の汽車賃も出すと言ふ。」
 お八重は大工の娘である。長女で小さな妹がいるらしい。米もほとんどとれない寒村で大工をやっていてどれほどの収入があるのやら、その娘は「十八円許りも貯金してる」のだという。それなら父親の兼大工は「村内最高額の」月給取りの校長よりも断然高収入という事になるだろう。
 そんな事があり得るのか。

2012年10月18日 (木)

石川啄木伝 東京編 16

 主人公お定は19歳。渋民村のある自作農の長女である。下に17歳の弟(これが長男)、さらにもう一人の弟がいる。「お定の家は、村でも兎に角食ふに困らぬ程の農家で、借財と云つては一文もなく、多くはないが田も畑も自分の所有、馬も青と栗毛と二頭飼つてゐ」るという。
 そしてお定は「背恰好の?乎(すらり)としたさまは、農家の娘に珍らしい位、丸顔に黒味勝の眼が大きく、鼻は高くないが、笑窪が深い。美しい顔立(かおだて)ではないけれど、愛嬌に富んで、色が白く、漆の様な髪の生際(はえぎわ)の揃つた具合に、得も言へぬ艶(なまめ)かしさが見える」という娘である。「農家」云々の10文字を除くとまるで漱石の世界に出て来る東京の娘である。
 そして彼女は「二三年前から田の畦(くろ)に植ゑる豆を自分の私得(ほまち)に貰つてるので、それを売つたのやら何やらで、矢張九円近くも貯めてゐた」。
 この小説の作品内時間は執筆時とほぼ同時期を想定してよいであろう。すなわち明治41年かその少し前である。
 以下は上田博『啄木 小説の世界』(双文社出版、1980年)からの引用である(41~42ページ)。
  岩手県の明治三十八年の大凶作は天明、天保以来の惨状と言われた明治三十五年の大凶作を凌ぐ惨状をひきおこした。……米作は平年作の六十六%もの減収で、気仙郡のごときは平年の七%しか収穫できない有様であつた。岩手は平時でも一反当りの米の収穫は東北六県中最下位であり、啄木の住む岩手郡は生産高一人当りの順位は県下十四郡中八番目という低さであった。このような生活水準の低さは大凶作の前にはひとたまりもなかった。
  ……雪の凶作地に入った朝日新聞特派員は、小学校児童の出席が三十九年一月には六割に充たず、登校する生徒のほとんどが足袋をはかず、弁当を持たず、四分の一の児童は教科書や筆墨を持たないと報道している。

2012年10月16日 (火)

石川啄木伝 東京編 15

 「病院の窓」は先の述べたような代物である。鴎外が見ればそのつたなさは一目瞭然であろう。「天鵞絨」はどうか。 
 この作品を評価する人はいなくはない。たとえば窪川鶴次郎、岩城之徳、猪野謙二、小田切秀雄、上田博などを挙げることができる 。そうした中にあっても今井泰子の「天鵞絨」評価は際立つ。岩城、上田の評価はあきらかに今井の影響下にある。
 今井泰子は『石川啄木論』において「天鵞絨」に15ページを費やした。ちなみに、「呼子と口笛」に費やしたのが27ページである。今井の評価の核心を引こう。
 ……「天鵞絨」は、筆致ものびやかで作品のまとまりもよい。啄木において小説の水準に達している作品は、思うに「天鵞絨」と「道」ぐらいなものである。
 ……「天鵞絨」は、従来ほとんど顧慮されない作品であるが、啄木の小説としてはむしろもっとも鑑賞に堪えうる作品と思われる。

 はたしてそうか。

2012年10月14日 (日)

石川啄木伝 東京編 14

 かくて「予の閲歴とは無関係」の少女を主人公に「天鵞絨」を起稿した。「これは田舎から逃げて東京に出て、三日女中をして帰る女の事をかくのだ。」
 晦日なのに下宿代は払えない。下宿代を払わない石川、女を呼び込んで情交する石川、女や友人が来れば食事を出させる石川、朝寝坊の石川、自分でもって行けばいいものを下の部屋の友人に手紙を持って行かせる人使いの荒い石川……。
 とんだ下宿人を金田一さんは紹介したものだ。赤心館の主人夫妻も女中達もあきれて持てあまして相当怒り始めているだろう。
6月1日、親切な金田一はまた中公の滝田の所へ行ってくれる。金田一がこんなに尽くしてくれるのは啄木が下宿代を払えるようにとの友情からだ。啄木は「天鵞絨」を快調に書いている。
3日「病院の窓」と「母」が中公から帰ってきた、「無事に!!」。
4日「天鵞絨」93枚脱稿。「八時過ぎ“病院の窓”と“天鵞絨”持つてつて鴎外先生の留守宅に置いて来た。」そして森鴎外に宛てて手紙を書く。かつて野口米次郎や姉崎嘲風に書いた時と同様相手の同情を乞う手紙だ。あの頃より悪いのは根拠のない自惚れである。
こう追伸する。
 書いてゐて飯が食へるものなら、私はいくらでも書きます。書き初めさへすれば一日に二十枚は屹度書けます。私は私の書くものが習作だといふ事を知つてゐますから、決して自惚れませんが、正直に申上げればこれより拙いのが矢張活字になつてゐるやうです。

2012年10月12日 (金)

石川啄木伝 東京編 13

 貞子の頻繁な「訪問」をもてあました(と言うよりも家族の上京を前にしての、関係の深まりが不安になった(妊娠の恐れ、節子との修羅場、家庭崩壊劇等々)。啄木は、彼女が来たら金田一に部屋に来てお邪魔虫になってくれるよう頼んだ。  
 23日の夕方その「邪魔」にあった貞子は翌日朝駆けしたものらしい。天罰覿面と言うべきか。貞子と同時に速達が届いたのだ。
 それにしてもこの不実な夫と忠実な妻とその健気な節子に心打たれつつ節子を誠心誠意支えようとする郁雨と時間がたてば三角関係が次第に形成されるのはむしろ自然というものであろう。函館で会ったはじめから節子と郁雨は気が合ったし、啄木もそれを意識して「ふたり」のために援助を頼む、という言い方をしていることはすでに見た。
 こうして先の5月26日になる。「病院の窓」91枚を脱稿した。金田一京助が読んでくれ、すぐに中央公論の滝田樗陰の所へ持って行ってくれた。まだ脱稿前の23日、啄木は小樽の藤田武治・高田紅果宛の手紙に「多分七月の中央公論に出るだらう」と書いている。自分を正確に秤量できないのだから、自分の作品を秤量できるわけがない。
 5月28日「母」を起稿。「四枚かいて裂いて了」った。その「母」31枚を31日に脱稿。金田一が午前午後2回、中公の滝田の所へ行ってくれた。「留守」だった。したがって金田一の足労にもかかわらず「病院の窓」への返事はない。持って行ってくれた「母」は「唯戻り」。つまり置いてくることもできなかったのだ。

2012年10月10日 (水)

石川啄木伝 東京編 その12

 翌日の日記。
〝病院の窓〃の筆を進めて六十二枚目。
 昼頃、On the eveを読み了つた。ツルゲーネフは矢張十九世紀の文豪で、予は遂に菊坂町の下宿に居て天下をねらつて居る野心児であつた。彼は死んだ人で、予は今現に生きてゐる……
  彼は小説をあまりに小説にし過ぎた。それが若し其の小説なら、予は小説でないものを書かう。
  予は、昨夜彼と競争しようと思つた事を玆に改めて取消す。予の競争者としては、彼はあまりに古い。話上手だ、少し怠けた考を持つて居る。予は予の小説を書くべしだ。

 空虚な天才意識と持てあまし気味だが情事に浮かれている啄木に痛棒の一撃が。
 5月24日。
  六時半何やら夢を見て居て、何の訳ともなしに目が覚めると、枕元に白いきものを着た人が立つて居る。それは貞子さんであつた。食前の散歩の序、起してやらうと思つて来たとの事。
  ……起きると宮崎君から至急といふ手紙。ああ。
  京子が……大脳何とか云ふ病気で、……昏睡! ああ、予の頭は氷つた様な気がした。昨夜かいた断片のうちに、幼児の墓に二十年振で父が帰つて来て、お前は死んでよい事をしたと云ふ意味の詩がある。予の頭は氷を浴びせられた! 京子の昏睡!
 ……此手紙を書いた朝には、昏睡からさめて、物を言つたと云ふので、漸く心を安めた。せつ子の心と友の情だけでも屹度癒る。さうだ、友は”屹度なほす〃と書いてよこした。あゝ二百里外の父は!
  貞子さんは八時少し前に帰つて行つた。
  予を思ふといふ此人が、例になく朝早く来て予を起した。起されて起きて、遥かなる海の
彼方の愛児が死に瀕してるといふ通知! 予は、噫、冷やかなる自然の諧謔に胸を…刺された。

2012年10月 8日 (月)

石川啄木伝 東京編 その11

 「病院の窓」91枚を脱稿するのは5月26日だが、少し前に戻ろう。
貞子は18日にも来た。来ると啄木の部屋にいた金田一と並木武雄は座をはずし、「下の室(金田一の部屋-引用者)に行つた」。貞子は2時頃から8時頃までいた。この日も情交があったのだろう。しかし間もなく妻子老母の来る身である。啄木は別れ話を切り出したらしい。
 20日。
 三時頃に貞子さんが来た。来た時は非常に元気がよかつたが、段々と靜(ママ)んで来た。噫、段々沈んで来た。昨夜決心したと云つて居たが、其の決心が、逢つて話してるうちに鈍り出したのだ。温かな夕べ。
八時頃かへつて行く。

 すでに情交のある若い男と女が五時間も別れ話をしているわけがあるまい。赤心館もとんだ下宿人を置いたものだ。これで金払いも悪ければ最悪の下宿人だ。
 この日の夜から、ツルゲーネフ作・相馬御風訳『その前夜』(内外出版協会)を読みはじめる。この4月に出版されたばかりの本だ。半分ほど読んだ。感想をこう記す。
  どの人物も、どの人物も、生きた人を見る如くハツキリとして居る書振り! 予は巻を擲つて頭を掻きむしつた。心悪きは才人の筆なる哉。
 ツルゲーネフは啄木からみると「才人」である。かれ自身は「天才」なのだ。この意識に注目しておきたい。啄木の「天才」振りを見るために日記をもう2つ引いておこう。
 5月22日の日記。
 “On the eve”を読みつづける。噫、インサロフとエレネの熱き恋! 予は頭を掻乱される様だので、室の中を転げ廻つた末、〝ツルゲーネフ! 予の心を狂せしめんとする者は彼なり。”と書いた手紙を下の金田一君にやる。金田一君が来た。予は唯モウ頭が乱れて、〝ツルゲーネフの野郎〃と呼んだ。そして必ずこのOn the eveと競争するものを今年中にかくと云つた。
 女中を呼んで、二階の金田一に手紙を届けさせたのだ。

2012年10月 6日 (土)

石川啄木伝 東京編 その10

 もっともこの「天才」意識の裏側には、2月8日の郁雨宛書簡にあったように、自信崩壊の恐怖があることもたしかである。依拠すべき批評の根底を欠いていることの危うさ、自己の半生の直視が必要かも知れないとの予感、いつまでも「身も心も宇宙の浮浪漢」などと威張ってはいられない現実生活の切迫等が折りに触れて胸中に浮かんで来るのであろう。しかし啄木は自己に不利なことは徹底的に見ない。決して見ない。都合のいい方に考える事で逃げる、回避する。1904年(明37)7月その天才主義を確立して以来の啄木のたぐいまれな能天気は健在である。北海道での貴重な経験もなんのその、元の木阿弥ならぬ元の啄木だ。
 以上によって啄木の天才意識と作中人物観と創作態度との関係を確認しておこう。
 作者石川啄木は「天才」(選ばれた人)である。この世の人々は(したがって作中の人物達も)自分より一段下の人達つまり教化の対象なのである。決して自分と対等の人間達なのではない。これは樗牛「文明批評家としての文学者」を読み、ついには自分に「天才」を確信した時以来不抜の観念である。自分が作中で批判の対象となることは考えられないのである。竹山と野村と作者啄木の関係を想起されたい。しかも釧路時代からすでに自分の「天才」に対して時として疑いが浮上するのだ。これほど怖ろしいことは無い。これを直視することから逃げ続ける限り、作中では必ず自分を祭り上げるか、批評の対象を自分より一段下の人達として設定するのである。啄木が自分と世の人々が対等であることの発見は、鹿野政直のいう「生活者」としての自分の発見を不可欠の条件とする 。この発見までは「書けない地獄」を這いずり回るしかない。
 これが「雲は天才である」から「病院の窓」を経て1909年5月稿「札幌」に至る小説失敗の内的からくりである。
 ナルキッソス(ナルシス)は水仙になったが、啄木は何になるのだろう?

2012年10月 4日 (木)

石川啄木伝 東京編 その9

 自己の文学的運命を極度まで試すために上京したのに、今を盛りの自然主義から、いや「蒲団」を書いた花袋の創作態度からさえまったく学ぼうとしていない。どこまでも夫を信じひどい苦労に耐え、どこまでも夫に忠実に従ってきた妻節子。母と子供を一緒に預けたまま函館に置き去りにしてある妻。
 その妻を裏切ったこのたびの情事である。「肉霊の争ひ」を書くというのなら、かつて美しい愛の理想を謳いながら今その恋妻を裏切り、「肉」とやらに沈んだ自分の批評でなくてはなるまい。佐藤衣川=野村の問題ではあるまい。自分を「ナポレオン」に祭り上げて、他人の「肉霊の争ひ」をあげつらってどんな近代小説が書けるというだろう。
 しかも野村の描き方も稚拙である。人々の関係の構造を通じて野村を描かずに、野村と他の個々人のとの関係をそれぞれ単線で描き、それを通じて野村を描こうとするから、おそろしく退屈である。言ってみれば作者がくだらぬ男・野村についておしゃべりしているのを聞くだけなのである。くだらない男のことを聞かされるくらいくだらないことはない。
 さきの引用文中に郁雨あて書簡が引かれてあった。その「肉霊の争ひ胸中に絶ゆる事なく、下り坂一方の生活のために廉恥心なくなり、朝から晩まで不安でゐる人間」とは一語一句そのまま、釧路時代と今の啄木自身の一面ではないか。啄木は自分のこととは思っていない。自分はエリートなのだ。心の底では「天才」なのだ。「ナポレオン」なのだ。その高みから野村を見ているつもりなのだ。これほど自己批評能力のない作家などあり得るのだろうか。

2012年10月 3日 (水)

石川啄木伝 東京編 その8

 「菊池君」が行き詰まって途方に暮れていたところに、貞子との情事が発生したので、啄木は「自然主義」を地でいったことになる。相当のインパクトだった。そして石井の指摘通りこれを小説化することを思いついた。花袋の「蒲団」を読んだことで情事が着想を呼んだのであろう。
 花袋は「蒲団」において「羞づべき内面、自己のいはゆる『醜なる心』を赤裸々に描き、社会的体裁を捨てて、自己の真の姿をみつめようとした態度が、正直、真摯な作者の人間性の表現として、世を驚かしたのである」。
 啄木は「病院の窓」において、自分の「羞づべき内面、自己のいはゆる『醜なる心』を赤裸々に描」こうとはしない。「社会的体裁を捨てて、自己の真の姿をみつめようと」はしない。釧路で再会した佐藤衣川をモデルにした主人公野村の「肉霊の争ひ」を書こうというのである。ご本尊は作品中では「竹山主任」となって現れる。
 打見には二十七八に見える老(ふ)けた所があるけれど、実際は漸々(やうやう)二十三だと云ふ事で、髯が一本も無く、烈しい気象が眼に輝いて、少年(こども)らしい活気の溢れた、何処か怎(か)うナポレオンの肖像画に肖通つた所のある顔立で、愛想一つ云はぬけれど、口元に絶やさぬ微笑に誰でも人(ひと)(ずき)がする。一段二段の長い記事を字一つ消すでなく、スラスラと淀みなく綺麗な原稿を書くので、文選小僧が先づ一番先に竹山を讃めた。社長が珍重してるだけに恐ろしく筆の立つ男で、野村もそれを認めぬではないが、年が上な故(せゐ)か怎(どう)しても心から竹山に服する気にはなれぬ。
 どうだろうこのナルシシズムは。「病院の窓」という作品はこの場面に象徴的に表れている。

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