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2012年11月

2012年11月30日 (金)

石川啄木伝 東京編 37

 とは言え、『一握の砂』を代表する歌がここに生まれてしまったのである。すこしこの歌にとどまろう。
 この歌の4首あとに
 67、百万の屋根を一度に推しつぶす大いなる足頭上に来る
という歌が作られる。
 啄木が盛岡中学時代に愛読した土井晩翠の第二詩集『暁鐘』(有千閣・佐養書店、1901年5月) に「おほいなる手のかげ」がある。第2連のみを引くが全3連ともに3、4行の詩句は同一である。
 百万の人家みなしづまり
 煩悩のひゞき絶ゆるまよなか
 見あぐる高き空の上に
 おほいなる手の影あり。

 掲出歌には、この詩の影響がはっきりと見て取れる 。「百万の屋根」と「百万の人家」、「大いなる足頭上に」と「上に/おほいなる手」。こうした晩翠の詩句とともに異様なメージが呼び出される。「百万の屋根」といえば当時の東京市が相当するだろう。その東京を「一度に推しつぶす」足! この足ゴジラの比ではない。何百万倍も大きい。
 啄木について「頭が絶えずものすごい高速回転で回っている人です」と言ったのは井上ひさしであるが 、上記の詩句の影響関係は、この夜の啄木の頭脳も1首つくる度にイメージと言葉とを「ものすごい高速回転で」動員していたことを暗示している。
 「東海の小島」歌の場合にも言葉とイメージとが瞬時に総動員されていたであろうことは疑いない。

2012年11月28日 (水)

石川啄木伝 東京編 36

 

夜があけて、本妙寺の墓地を散歩して来た。たとへるものもなく心地がすがすがしい。興はまだつづいて、午前十一時頃まで作ったもの、昨夜百二十首の余。
 墓地を散歩して来て「心地がすがすがしい」とは変なものだが、啄木の生まれ育ったのが宝徳寺であり、裏手に墓地があり、遊び場が寺の境内であったことを思えば、納得が行く。(現代でも横浜の外人墓地・雑司ヶ谷墓地・青山墓地などの見学希望者・訪問者は後を絶たない。)
 むしろ「たとへるものもなく」という形容句の方が興味深い。作歌=カタルシスの効用が絶大であることを示す。そしてそれは啄木と歌の新しい関係の誕生を示している。
 散歩から帰って「午前十一時頃まで作った」歌を見てみよう。初めの二首。
 56、君が名を七度よべばありとある国内の鐘の一時に鳴る
 57、天外に一鳥とべり辛うじて君より遁れ我は野を走す
また「演技過剰の歌」がはじまった。そして七~九首目。
 62、野にさそひ眠るをまちて南風に君をやかむと火の石をきる
 63、東海の小島の磯の白砂に我泣きぬれて蟹と戯る
 64、青草の床ゆはるかに天空の日の蝕を見て我が雲雀病む
 先に福島章の分析を引いたが、当の文脈上では「東海の小島」の歌こそが分析の典型的な例として挙げられていたのである。この歌を作っている時の啄木にあっては、「東海」歌は62や64の歌と同次元なのである。三枝の「図式化」にはめるなら、「自然体の歌」というよりもむしろ「演技過剰の歌」に入るだろう。

2012年11月26日 (月)

石川啄木伝 東京編 35

 21首目には後の名歌が生まれる(「示せし」は2日後「示しし」に推敲)。
 21、頬につたふ涙のごはず一握の砂を示せし人を忘れず
 三枝昂之はこの歌をめぐって次のように言う。
   実作者の自分が連作を作るときの現場を重ねていえば、オーバーアクションの連続の中にふっと訪れたコーヒーブレイクの歌、と感じる。
……
   ここでこの夜の啄木の歌を少々強引に図式化し、「演技過剰の歌」と「自然体の歌」と、二分しておこう。みてきた歌の中では21の歌だけが「自然体の歌」である。狂ったように歌に取り憑かれる歌漬けに日々の中で、ときおり訪れるこのような「自然体の歌」、コーヒーブレイクの歌が、やがて啄木の中心的な領域になる。

 日記には「興が刻一刻に熾んになつて来て、遂々徹夜」とある。夜明け方の歌になって、こんな歌が生まれる。(「君が」は二日後に「己が」に改められる。)
 51、君が名を仄かによびて涙せし十四の春にかへるすべなし
 53、故さとの君が垣根の忍冬の風をわすれて六年経にけり
 三枝の解釈を参考にしつつ、啄木のこの時期この夜の精神状態を勘考すれば、ストレスを歌の形で相当吐き出すことに成功して、ストレス以前の啄木がふっと息を吹き返すのではなかろうか。そのとき21の歌がさらに51や53の歌が生まれたのであろう。

2012年11月24日 (土)

石川啄木伝 東京編 34

 奇怪で異様な歌々である。啄木はここ10日以上そと見には脳天気に振る舞う様をわれわれは見てきた。内面のストレスは異常な態様であるらしい。小説が書けない苦しみだけがストレスの原因となっているではない。書けない自己の正体の直視からも逃げ回っているために、ストレスは闇雲な形を取る。このストレスを啄木は短歌の奔流として吐き出しはじめたのである。カタルシスが始まったのだ。奇怪な歌々は啄木のストレスの姿と考えると理解しやすい。
 この時の啄木に関する福島章の分析は示唆に富む。「このときの啄木の精神状態」は「意識性や論理の支配する通常の状態ではなく、クリス流にいえば、自我の機能が一時的にかなり弱まって、イメージや象徴のレベルでものを考えていた<創造的退行>の状態にあった……。キュービー流に、心の働きが前意識体系に委ねられていた状態、といってもよい。発達的にいえば幼児の白昼夢の心性に似ている」のだと言う。
 もっとも印象的で奇怪な歌をあと2首。
13、はてもなき曠野の草のただ中の髑髏を貫きて赤き百合咲く
16、半身に赤き痣して蛇をかむ人を見しより我はかく病む

2012年11月22日 (木)

石川啄木伝 東京編 33

 小説を書けなくなって以来すでに12日、逃避行動にうつつ抜かす啄木だが、今夜は仄かに百合の香につつまれながら「心安」く眠れるのであろうか。無意識にかかるストレスは相当のものであろう。月末も近づいて来た。下宿代を請求される日も近い。
 天才の不思議が起こる。百合の花の香につつまれて眠るはずだったこの夜、床に入ってから突然興が湧きあがって来た。12時(24日午前0時)ころから「こ志をれ」5首のつづきを作り始める。作り始めはなかなか調子が出なかったらしい。かなりの推敲を経て何とか得たのがつぎの1首だった。
  石一つ落して聞きぬ千仞の谷轟々と一山(いちざん)を撼(ゆ)る 
 この1首に苦労したあと、一瀉千里の勢いを得たらしい。数字はできた順を示す番号。
2、人みなが怖れて覗く鉄門に我平然と馬駆りて入る
3、我とわが愚を罵りて大盃に満を引くなる群を去りえず
4、つと来りつと去る誰ぞと問ふまなし黒き衣着る覆面の人
5、牛頭馬頭のつどひて覗く大香炉中より一縷白き煙す
6、大海にうかべる白き水鳥の一羽は死なず幾千年も
7、我常に思ふ世界の開発の第一日の曙の色
8、西方の山のかなたに億兆の入日埋めし墓あるを思ふ

2012年11月20日 (火)

石川啄木伝 東京編 32

 大杉、荒畑は神田警察署に拘引されたうえひどい暴行を受けた。荒畑のことを心配して署に出向いた管野須賀子も暴行を受け、神川マツ子とともに拘留された。
 神田錦町一帯でこの赤旗争奪戦が展開したのは午後6時から7時にかけてのことである。この事件がのちの幸徳事件(大逆事件)を具体的に準備することになる。  
 啄木と金田一はこの日も、暮れると「すき歩き」に出かけた。
 23日も小説は書けない。
  十時に起きて、小雨を犯して紫陽花と白い鉄砲百合を三十銭だけ買つて来た。……花を新らしくした心地はよい。
 この日のやったことも金田一とのおしゃべり、手紙書きなど。「外に貞子さんから今夜是非来てくれといふ葉書が来たが行かなつた」。おそらく貞子の母がいない日なのであろう。葉書に籠めた貞子の願いは見当がつく。啄木は記す。「恋をするなら、仄かな恋に限る。」そして前述の散文詩「二人連」「祖父」を作り、「一寸出て花瓶を買つて来た」。ちょうどその留守に貞子が来た。まことに「恋をするなら、仄かな恋に限る」?
   百合の花の香の仄かに籠つた室に寝る心安さ!

2012年11月18日 (日)

石川啄木伝 東京編 31

 つまりフィクションの散文を書こうとすると、言葉から言葉へ、想から想へと移るうちに、先が見えなくなるのが今の啄木なのだ。テーマになりそうな材料をやたらと捜し求め 、そのうちの一つを構想を練りあげぬままに書き始めるらしい。書くべきテーマがあり、それをいかに小説化するかという発想は見えない。編集者の目の色を窺い、文壇の動向に自らを合わせる事ばかりを考えている。
 さて、この6月22日赤旗事件が起きた。
 当日午後1時から神田錦町3丁目の錦輝館(映画や演説会などに使われたクラブハウス)で、社会主義者山口孤剣の出獄歓迎会が催された。
山口は政府のむごい言論弾圧で1年と2カ月半も投獄されていた。在京の社会主義者等約70名が錦輝館に集い出獄祝いをしたのである。閉会まぎわという夕方6時ごろ会場内に波乱が生じた。
 日ごろの官憲のあまりの圧制、集会・結社・言論・出版等の自由へのあまりの制限にがまんしきれなくなっていた若手の無政府共産主義者、大杉栄・荒畑寒村らが小さな赤旗(たて90センチ、よこ120センチほど)をふりまわし屋外へ飛び出したのである。  
 これをめぐつて乱闘を含むひと騒動となり、結局14人が逮捕された。その中には仲裁に入って仲間と警官の双方をなだめ、旗を巻かせて騒ぎをおさめた社会主義運動の指導者堺利彦・山川均も入っていた。

2012年11月16日 (金)

石川啄木伝 東京編 30

 しかし、翌日作の「二人連」「祖父」を含めたこれら6編の散文詩について大岡信はこういう。
  
 これらの散文詩に共通する特徴の一つは、ほとんどすべての作品が、話にきっちり結末がついてはいないということである。彼は夢中で書き進めたあと、ぱたりと熱がさめようにその作を打ち切る癖があったらしい。
 
 啄木は京子重態の速達を受けとった5月24日に詩を8編作りそのうちの7編を明星に送った。そのうち「泣くよりも」「嫂」「殺意」「辯疏」が6月号に載った。この4編(どれも小さな詩で、長くて19行、短いものは9行)については同じ大岡信が「機知に富む彼の一面をみごとに示しており、技術的にはまさに手だれの業という感じがする」と評価している。
 つまり今の啄木には小説・散文詩になると、「話にきっちり結末がついて」いないものを書く傾向があるということだ。しかし啄木の評論はいつも明晰かつ論理的である。『あこがれ』の各詩編も構成はしっかりしていた。小説でも翌09年(明42)9月執筆(推定)の「葉書」、10年2月執筆(推定)の「道」では「話にきっちり結末がついて」いる。だから啄木は構成のしっかりした小説が書けないのではない。

2012年11月14日 (水)

石川啄木伝 東京編 29

 6月22日、夕方金田一とすき歩き。この日、小説の代わりに散文詩を初めて作った。「曠野」「白い鳥」「血の海」「火星の芝居」の4編。これも今の場合は逃避の一つの形である。
とはいえ、「火星の芝居」における、「火星」の「劇場」の「花道」の部分など啄木流の奇想はまさに天外のものである。その部分を引いてみよう。
  『……第一劇場からして違ふよ。』
  『一里四方もあるのか?』
  『莫迦
(ばか)な事を言へ。先づ青空を十里四方位の大(おほき)さに(き)つて、それを圧搾して 石にするんだ。石よりも堅くて青くて透徹るよ。』
  『それが何
(なん)だい?』
『それを積み重ねて、高い、高い、無際限に高い壁を築き上げたもんだ、然も二列にだ、壁と壁との間が唯五間
(けん)(ぐらい)しかないが、無際限に高いので、仰ぐと空が一本の銀の糸の様に見える。』
『五間の舞台で芝居がやれるのか?』
『マア聞き給へ。其青い壁が何処まで続いてゐるのか解らない。万里の長城を二重にして、青く塗つた様なもんだね。』
『何処で芝居を演
(や)るんだ?』
『芝居はまだだよ。その壁が詰り花道なんだ。』

 青空が真に美しかった時代の、青空が真に好きな詩人による、天馬空を行くが如き空想である。

2012年11月12日 (月)

石川啄木伝 東京編 28

 小説が書けなくなってからのかれの行動のほとんどは、逃避行動である。なにから逃避しているのか。自分の小説がなぜ売れないのか、を真摯に検討することからの逃避である。今の自分に何が欠けているのかを検討することからの逃避である。それらを検討することは自分の「天才」を検討することになるのである。そんなおそろしいことを検討できるわけがない。
 しかしここは地獄の一丁目である。つづけてかれの逃避行動を見て行こう。
 6月19日、夕方来た吉井と話し込む。夜になってふたりつるんで東大前の夜店をひやかしに行く。そこでふたりは美しい女を見つけるとその後をつけて行くという「遊び」を覚えた。
 これを称して「すき歩き」。今でいうストーカーである。道で会った金田一をもこれに誘い込む。
 20日、今日もやって来た並木武雄と話し込む。このだべりも小説と向き合わなくてすむ格好の避難場所である。そして暗くなると並木と「すき歩き」。
 21日、朝から金田一とおしゃべり。並木が来て1円貸してくれたのでさっそく夏座布団2枚買う。
 新詩社に行く。晶子から3円受けとって(どんな金か不明)、帰りに夏帽子を買う。留守中貞子が来て置き手紙。

2012年11月10日 (土)

石川啄木伝 東京編 27

 6月16日、「何もしたくない日」と記す。小説の執筆は11日の「天鵞絨」脱稿と同時に止まっている。あきらかに自信喪失気味である。
 17日、川上眉山の自殺の報に「よそ事とは思へない」と記す。貞子が来て3時間も居て帰った。
 18日朝もやってくる.。「何も書く気になれぬ日であつた」と記すが、そんな日は12日から始まっているのだ。「歌を五つ六つ作たり、寝ころんでGorkyを読んだり」「菅原芳子へ手紙を出した」り、「古雑誌を読ん」だりして1日を過ごす。作った歌「五つ六つ」というのは歌稿ノート「暇ナ時」にある「こ志をれ」という題のあとに書き込まれた5首を指すのであろう。この時点での啄木の歌に対する自信のなさを示す題である。  
 だから憂さを晴らすのは詩作であったし(5月24日の8編)、6月22、23日の詩作なのである。
 植木貞子に長期間にわたってちょっかいを出して抜き差しならぬ関係に落ち、今辟易しているのに、懲りる啄木ではない。今度は釧路時代から目を付けていた菅原芳子にちょっかいを出し始める。

2012年11月 8日 (木)

石川啄木伝 東京編 26

 甘えられた妻はたまったものではない。おそらく息子を早くから家庭持ちの苦労に陥れた嫁として節子を憎んでいるであろう気の強い姑。その姑と病気の子を抱えて夫の仕送りも無しに、宮崎郁雨の世話になっている節子。節子以上に郁雨の世話を苦痛に思っているカツ。三人を預けられた郁雨。しなだれかかってくる啄木の止め処のない甘ったれには寛容な郁雨も困惑しおそらく辟易しているであろう。
 金田一も衣服を質に入れて工面した金で、花瓶を買ってきてくれる啄木にあきれて、乾いた砂地に水をまくような感覚を味わっているであろう。金田一の友情の根本には啄木の才能への不抜の信頼がある。もっともはやく石川一の才能を認めたのは、そして今の日本でもっともその才能を信じているのは金田一京助である。
 ともかく「天才」啄木の近しい人々の傍迷惑はこれまでも、これからも、続く。

2012年11月 6日 (火)

石川啄木伝 東京編 25

 6月15日、平野万里からマクシム・ゴーリキーのThree of Them  を借りてきて読みはじめる。しつこくも春陽堂後藤宙外の自宅宛てに原稿料を払ってくれと手紙を出す。「森先生の口利きではないか」とも言い添える。この日の日記から。
   金を欲しい日であつた。此間太平洋画会で見た吉田氏の(魔法)、(スフインクスの夜)、(赤帆)など買ひたい。そして、吉野君岩崎君を初め、小樽の高田や藤田、渋民の小供等を呼んで勉強さしたい。……
 美術の好きな啄木らしい、友達に篤い啄木らしい、「日本一の代用教員」啄木らしい空想といえば言える。しかしここで思いがけない大金たとえば100円が啄木の手に入ったとしよう。きっと絵を買ってしまうだろうと思わせるのが啄木なのだ。
 真っ先に母と妻子に送金しよう、下宿代を払おう、と発想しないであろう点で啄木は異常なのである。それは単に金銭感覚だけの問題ではない。もっと深い啄木の病根によるのである。家族扶養義務の軽視(ほとんど放棄)、自らの食と住のつまり生存の基本条件の獲得の軽視(それは生業の軽視につながる)がかれの精神の根底に横たわっているのである。この二つ軽視は天才主義の残滓である。残滓がなぜあるか、自らを「天才」とする意識(選良の意識)があるからだ。それがこの甘ったれを自らに許すのである。

2012年11月 4日 (日)

石川啄木伝 東京編 24

 この日の買い物の1つに洋横罫ノート(21×16.5㌢)がある。啄木は表紙に直径4.8㌢ほどの○を書き、中に「ヒマナ時」と記した。さらに第1ページに「暇ナ時 六月十四日ヨリ」と記した。そしてこの日のことと思われるが8首を作る。うち6首を引こう。
 手に手とる時忘れたる我ありて君に肖ざりし子を思出づ
 われ死なむかく幾度かくりかへしさめたる恋を弄ぶ人
 漂泊の人はかぞへぬ風青き越の峠にあひし少女も
 別るべき明日と見ざりし昨の日に心わかれて中に君みる
 日に三度たづね来し子は我とはぢ苦し死なんといつはりをいふ
 あなくるしむしろ死なむと我にいふ三人のいづれ先に死ぬらむ

 観潮楼や新詩社の歌会が刺激になったのか、歌稿ノートを作ったのである。8首のモチーフは貞子がらみであろう。3首目の「風青き越の峠」は宮城県石巻市牡鹿半島の「風(かざ)(こし)(とうげ)」であるという。とすると、「少女」は4月26日荻浜で言葉を交わした佐藤藤野であろう。「二筋の血」でこの名前がヒロインに宛てられているのをすでに見た。美しい叙情的な歌である。直接的に貞子に関わると見られる他の歌は、その関係にふさわしく叙情性にとぼしい。

2012年11月 2日 (金)

石川啄木伝 東京編 23

 さて、翌12日「二筋の血」と「天鵞絨」を持って博文館に長谷川天渓を訪い、会ってはもらえなかったが、2編を置いて来た。下宿には金田一が折角作ってくれた12円全額は収めず、10円だけ収める。この神経は不思議である。この日金星会のある会員から3円の会費が為替で届いた。これで5円になる! 啄木はさっそく買い物だ。1円65銭出して単衣を買う。金田一はさらに5円貸してくれた。明日の買い物は派手だろう。なにしろ8円35銭もある。
 13日、銭湯に行き、床屋に行き、原稿用紙と百合の花と足袋と香油と切手を買った。それでも殊勝なことに下宿代の残りを払い、金田一に1円返した。植木貞子は昨日も今日も押しかけてくる。友人が次々と来ておしゃべりしていく。
 14日、春陽堂に原稿料催促の手紙。「病院の窓」が金になる原稿だと思っているところが度し難い。絵葉書を6枚買ってきて渋民の子供たちに出す。また外出して銀台の洋燈を買う。夜には青磁の花瓶を買って金田一に届けている。そんな無駄遣いをされた金田一の心中はやるせなかったであろう。啄木の金銭感覚は狂っている。しかしこれは死ぬまで治らない。

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