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2012年12月

2012年12月30日 (日)

石川啄木伝 東京編 51

 7月10日「明星」7月号が届く。「巻頭に予の歌″石破集″と題して百十四首。外に散文詩四編、選歌」と記す。「与謝野氏の直した予の歌は、皆原作より悪い。感情が虚偽になつてゐる。所詮標準が違ふのであらうから仕方がないが、少し気持ちが悪い」とも書く。
 6月24日25日の2夜が歌人啄木のひそやかな誕生だとすれば、「明星」7月号は歌人石川啄木デビューを告げている 。
 さて、「石破集」である。このタイトルはだれがつけたのか。啄木か寛か。「石破」とはなにを意味するのか。
1906年(明39)1月~1908年(明41)7月までの「明星」を見ると、個人の歌の特集で「○○集」というのは、この「石破集」しかない。他は「新詩社詠草」である。ただし05年(明38)7月の「明星」に「涼月集」と題する歌群があるが、その歌群の著者は「石川啄木・せつ子」である。「石破集」は啄木の命名と見てよいであろう。 
 「石破」の意味は? 
 太田登は唐の詩人李賀の「李憑箜篌引」中の句「石破天驚」から取ったとするが 、啄木が李賀を読んだことを示すものは「古詩韻範」のみである。同書巻の四に李賀の「美人梳頭歌」がある。これは読んでいるが、1911年(明44)8月のことである 。それ以前に李賀を読んだことを示す資料はない。太田の着想は今のところまだ根拠を欠く仮説の域を出ない。成句としての「石破天驚」が明治40年代の日本人にどのくらい知られていたのか、という問題もあろう。この考証は残っているが、ここでは別の可能性をさぐる。
 石川正雄が復刻版「暇ナ時」にはさんだ「解説」で説くところが興味深い。

2012年12月28日 (金)

石川啄木伝 東京編 50

 啄木がおそらく一番責任を感じているのは母に対してだ。この書簡の前の方にこんな記述がある。「すき歩き」も終わりごろ、「……薬瓶をさげた、腰の曲つた白髪のお婆さんを見て、目をつぶつて帰つて来た。……老いたる母!といふ感じが胸にひらめくと、僕は早速宿へ帰つてきた」と。
 夜遅くなって、「性欲の圧迫に耐へ」かねたのか、芳子宛に手紙を書く。老母妻子のことはすっかり忘れている。
 先つ頃の絵葉書取り出て、日毎に君が御目に映るべき海の色など思ひやり候。あはれ、おばしまに腰うちかけて朝な夕なに数へ給ふ沖の白帆の影、その帆の下に若しも此身のありて、遙かにおん身を望み見る事もあらばなど、つめたき茶を啜りての思ひそことしもなし。潮の香深きそよ風に惜気もなく吹かせ給ふ黒髪の夏の御姿、まだ見ぬ人――おそらくは永へに相見る期もあらざるべき人の、あへなくも面影に立つを、我とわが心に消しつつ、猶且つ心は西の夕の紫の雲にあくがれ渡り候。
 妄想の恋はいよいよ発展して行くことになる。ただ端倪すべからざるは啄木。書簡中で芳子に説いてやる短歌論は、すでに歌人石川啄木の卓論である。それは『一握の砂』に向かってたしかに流れて行く。

2012年12月26日 (水)

石川啄木伝 東京編 49

すき歩き、浮気論、作歌、哄笑、‥‥‥何れも皆、僕の心が一切の現実を暴露した、泣かず笑はざる「真面目」の苦痛から脱出せむとする一種の逃路だ! 而して遂に、その逃路も結局は「女」に行くのだ。女! 女! 金があつたら酒と女!
 小説が書けない自分・「真面目」を直視できない自分がどんな逃げ道を用意しているか自覚している。逃げ道のどん詰まりは貞子だ、芳子だ、つまり「女」だ。
  僕は、若し性欲の圧迫に耐へきれぬ事があつたら、昨年の吉井君の様に芸妓女郎を買ふかも知れぬ。ズツト下つては正宗君と共に淫売屋へ走るかも知れぬ。
 「正宗君」はとんだお手本になりそうだ。皮肉屋の白鳥もこれを知ったら、苦笑するであろう。今の啄木は「逃路」を遁走中で、自分のことしか頭にない。病気の京子も忠実な妻も郁雨に委せきりだ。こうした情報は岩崎を通じて当然郁雨の耳に入る。郁雨自身釧路から同様の内容の手紙をもらっている。それはすでに見た。今は節子に言わなくても、いつか節子に告げる日が来るであろう。それは当然だ。啄木の放埒を知り、節子の忠実を目のあたりにして、言わずにいられぬ日がきっと来る。

2012年12月24日 (月)

石川啄木伝 東京編 48

 この部分はあとでつづきがあるので引いておいた。
 かくて今日は十二時に起されて、枕の上で三通の消息を読んだ。一つは京子の病状、また医者にかかつた事を報じてよこした妻の葉書。一つは筑紫なる菅原芳子からの長い長い手紙。どんな人か見た事はないけれど、字も優しく、歌もやさしい。この手紙にかいてよこした歌が急に数段の進歩を示してゐる。望みのある女詩人だよ。(僕のお弟子のうちでは。)そして手紙によると、一人娘なので両親の商業をつがねばならぬ身なさうで、兄弟でもあればすぐにも東京に行きたいと言つて来た。人は、殊にも女は、恋をすると急に歌がうまくなるね。まだ見ぬ人の温かい消息ほど、罪のない仄かな楽しみを与へるものはない。
 菅原芳子が啄木の指導を受けて急に歌がうまくなってきたと言う。それは「恋をすると急に歌がうまくなる」(つまり芳子が啄木に恋し始めている)からだと言う。夫からの送金もないのに郁雨の厚情にすがり、必死で京子の看病をし、姑の嫌みに耐えてがんばる妻のことは念頭からさっぱりと消えているようだ。

2012年12月22日 (土)

石川啄木伝 東京編 47

 7月6日「刑余の叔父」を25枚書いたが、ここで断。これから10月7日までちょうど3ヵ月小説は1字も書けない。またまた逃避行動に移るであろう。「二筋の血」以来の逃避行動の最大の収穫は歌人石川啄木の誕生であった。新詩社の歌会と観潮楼歌会の刺激は「魂の解体した」野放図の啄木(パンドラの箱が開いてしまった啄木)の文学上の逃げ場を用意してくれた。北海道にいては歌人啄木の誕生は遅れたであろう。いやまったく別の経路を辿ることになったであろう。
 老母・妻子・郁雨・金田一等の被った迷惑もこうして報いられて行く。
 7月7日に出した3通の手紙は啄木の「魂の解体」状況を示して遺憾がない。
 まず郁雨宛。
 久しく御無沙汰した。これといふ理由もない。
今朝(といつても暁に寝たので十二時に起きた。)岩崎君の最初の手紙、かなしき手紙と共に、せつ子からの、京がまた腸胃や心臓を悪くして君のお情けで藤野医師の診察かうけたといふ葉書が来た。泣かず笑はざる心の味!
君、僕は今外の言葉を持合せない。唯感謝する。唯感謝する。泣かず笑はざる心をもつて唯感謝する!
 ……
 近況は岩崎君へ書く。

 次に岩崎宛に書いた。いくつかの部分を引く。
 五日には正宗白鳥君を訪問した。頗るブッキラ棒な人間で虚礼といふものを一切用ゐない。僕は大すきだ、この大将、箱崎町へ淫売を買ひに頻々行くといふので猶更面白い。今月の趣味の「世間並」にその事が書いてある。あの妙な主人公が正宗君の性格そのまんまだ。

2012年12月20日 (木)

石川啄木伝 東京編 46

 7月3日の日記ではめずらしく政治に触れる。
 此夕、時事新報は号外を出して、西園寺首相病気のため、内閣総辞職を報じた。元老の圧迫の結果であらう。
 この総辞職は元老山県有朋による西園寺内閣「毒殺」であったとされる。この「毒殺」は山県を軸としてその一派、明治天皇・西園寺内閣・元老井上馨と松方正義、幸徳秋水を初めとする日本の無政府主義者・社会主義者・在米の無政府主義者等々の錯綜する複雑な動きの一つの帰結であった 。そして赤旗事件から大逆事件に至る道筋のおぞましい一里塚でもあった。西園寺に代わって桂太郎の強権政治が登場した。
 最も政治に無関心に過ごしているこの時期でさえ、啄木はこういう事件のかくれた重大さを、不思議と感知する。
 7月4日、観潮楼歌会。啄木は吉井や白秋の歌から刺激を受けているらしい。「自分の気に入つたのは」として、次の2首を引いている。
  (兼題-人妻)人妻の目をうつくしと思ふ子といつなりしかと独り怖るる (勇)
  (兼題-戸) 春の鳥な鳴きそ鳴きそ赤々ととの面の草に日の入る夕 (白秋)
 7月5日、森川町1番地桜館に住む正宗白鳥を訪問。1時間半ほど話して来た。いずれ白鳥の影響の出た小説も生まれるだろう。この日の日記に浅草の凌雲閣が初めて現れる。
  浅草の十二階から望遠鏡で下を見おろすと、蜘蛛の網の如く細い小路で、男が淫売婦に捉まるところが見えると、金田一君から聞いた。
 とうとう啄木と東京きっての歓楽街・浅草が結びついた。……

2012年12月18日 (火)

石川啄木伝 東京編 45

 

 目をさますと、凄まじい雨、うつらうつらと枕の上で考へて、死にたくなつた。死といふ外に安けさを求める工夫はない様に思へる。生活の苦痛! それも自分一人ならまだしも、老いたる父は野辺地の居候、老いたる母と妻と子と妹は函館で友人の厄介! ああ、自分は何とすればよいのか。今月もまた下宿料が払へぬではないか?
  To be, or not to be?

 働かないで金が欲しい啄木、働かないで家族を扶養したい啄木がここにいる。
 だが、啄木をこう切り捨ててしまっては不公平だろう。「小説を書く」という仕事はしたいし、しようとしているのだ。丸1ヶ月間は努力したのだ。しかし勤めに出たくない、この一念は容易に抜けることのない一禎「薫陶」の賜物だ。
 ついに下宿代を払えぬまま、7月1日を迎えた啄木は1日くさくさした末に夜、「刑余の叔父」を起稿し6枚ほど書いた。下宿代を稼ぐためだ。先月15日に平野から借りたThree of Themの冒頭部分とそこから想起したFoma Gordyeeffをヒントにこの小説を着想したと推定される 。
 7月2日、「趣味」で正宗白鳥の「世間並」を読んで感心する。そして面会を求める手紙を書く。

2012年12月16日 (日)

石川啄木伝 東京編 44

さて、24日、113首を作り終えるとすぐ「そのうち百許り与謝野氏に送つた」が、翌25日から26日午前2時にかけて141首作ると、26日にまた「昨夜の歌を清書して送つた」(日記)。
27日「夜、゛宝掘り゛といふ一幕物のドラマを書かうかと思つたが、長谷川氏から、今月はどうしても原稿料出せぬといふ手紙が来たので寝た。」 
博文館に置いて来た「二筋の血」「天鵞絨」が長谷川天渓によって体よく断られたのである。こうしてお定まりの逃避思考が始まる。
  噫、死なうか、田舎にかくれようか、はたまたモツト苦闘をつづけようか、
まことに安易な「死なうか」である。「田舎にかくれようか」というが田舎も田舎、植民地北海道という田舎の果てから、野望(というより妄想)に燃えて出て来たばかりではないか。「モツト苦闘を」というが、すでに半月逃げてばかりいるではないか。職に就けば書けないと思い、職に就かなくても書けないのだが、金がないから書けないとすりかえる。
28日には直接新詩社におもむきその後作った6首を追加・編集し「石破集」と題した最終稿を置いて来た。
この日新詩社に行くと与謝野寛がこのたびの啄木の歌に驚いており、「晶子さんも予の心をよんでから歌を作つたと云つた」という。歌の達人たちは啄木の新しい達成を早くも認めたのだ。
  “石川君は食ふ心配をさせずにおけばいい人だ”と与謝野氏が言つた。食ふ事の心配! それをした為に与謝野氏は老いた。それをする為に予も亦日一日に老いてゆく。
「食ふ心配」をしないで生きて行きたいのだこの男は。父一禎の生活感覚が身に染み込んで抜けない。
29日もまた同じことを繰り返す。(いやこの男はこれから1年以上同じことを繰り返す。)

2012年12月14日 (金)

石川啄木伝 東京編 43

ふたたび父母の歌にもどる。
  134、わが父が?燭をもて蚊をやくと一夜寝ざりしこと夢となれ
そしてあと7首詠んでは終わる。「この日夜の二時までに百四十一首作つた」と日記にある。とうとう歌の奔流は収まった。2夜で合計254首も作ったのである。
 この経験は啄木に次のものをもたらした。
1、カタルシスを終え、小説が書けないことから生じるストレスをしばし逸らすことに成功した。精神にある種の安定を得た。これは啄木にとっての一つの歌の効用の発見でもあった。
2、短歌の韻律を自在に操れる自信を得た。これは実は父一禎の英才教育の賜物でもあって幼時からすでに啄木に内在していたのである。それがこのたびの奔流によって、表出した。すなわち自己に内在していた歌の天才の発見であった。
3、奇怪・異様な歌々もその時々の啄木の情緒の姿ではあった。歌はそれらを表現する手軽な(啄木にとっては)、詩形であった。奔流の終わり近くで父母妻子を詠んだ時、歌は真実の心の姿をも率直に詠むことの出来る詩形であることも知った。こうして「複雑なる近代的情緒の瞬間的刹那的の影を歌ふに最も適当なる一詩形」 であることを発見した。
4、また歌を詠むにあたっては既成の歌言葉・既成の表現(お歌所風は言うに及ばず、それを革新した新詩社風にも、根岸派風、竹柏会風にも)囚われぬ各個人独自の言葉・表現があり得ることを発見した。これを小田島理宛て書簡から引くとこうなる。「文学に捉へられて強ひて句を編む弊に陥り給ふな。天地の間に住する一個人として、場所や境遇に拘束せられず、真に感じ真に思ふ所をその儘うたひ出でなばと存じ候。」
 5、以上のうち3と4は窪田空穂の短歌原論「短歌作法」から摂取したと推定される。
6月26日午前2時は歌人石川啄木誕生の瞬間と言えよう。

2012年12月10日 (月)

石川啄木伝 東京編 42

 そしてのちの名歌が誕生する。ただし五句は「三歩あるかず」。
116、たはむれに母を背負ひてその余り軽きに泣きて三歩あるかず
 父をうたう次の歌も佳い歌だ。曹洞宗の総本山から神童の息子に乗り替えようとして、宗費を息子の学費に流用した父のなれの果てだ。
120、わが父は六十にして家を出で師僧の許に聴聞ぞする
 母はどこまでも息子に尽くす。息子のためにはどんな苦労も辞さない。
122、あたたかき飯を子に盛り古飯に湯をかけ給ふ母の白髪
125、今日は汝が生れし日ぞとわが膳の上に載せたる一合の洒
 父にも悪いことをした。あれは何度目の帰郷の時だったか、何の事件の時だったか。
130、父と我無言のままに秋の夜中並びて行きし故郷の路
 突然父母を離れて、とんでもない歌を詠む。
132、女なる君乞ふ紅き叛旗をば手づから縫ひて我に賜へよ  
 6月23日の東京朝日新聞が、後に赤旗事件と呼ばれる事件を「日本の露西亜化」「錦輝館前の大騒動」「革命の赤旗」「妙齢の佳人」などの見出しでおもしろおかしく報じた。24日には国民新聞も「美人の無政府演説」「無政府の赤旗」などの見出しでセンセーショナルに報じた。132は赤旗事件を詠んだ歌なのである。
133、君にして男なりせば大都会既に二つは焼けてありけむ
 この歌の第三句の最初の形は「二人して」である。ここまで詠んでこの句を抹消し「大都会既に二つは焼けてありけむ」と詠んだのだ。「二つ」は「二人」を暗示しているわけである。「二人」とは誰か。東京朝日新聞は24日にも「無政府主義社会党員騒擾続報」を出したが、記事中に「女に似気なき豪語」を放つ者として「菅野、木暮、二婦人の豪語」を紹介している。事件の実際から言えば、「菅野」は管野須賀子、「木暮」は神川マツ子である。したがってこの歌は管野・神川を詠んだことになる。

2012年12月 8日 (土)

石川啄木伝 東京編 41

 日記には「父母のことを歌ふ約四十首、泣きながら」とある。作りながら泣き始めたのだ。
102、津軽の海その南北と都とに別れて泣ける父と母と子
 「津軽の海」の南(野辺地)に父、北(函館)に母、都にはひとり息子。
103、飄然と家を出でては飄然と帰りたること既に五度
 家を出た時はいつも主に父に迷惑をかけた。
107、今日切に猶をさなくて故さとの寺にありける日を恋ふるかな
 幼き日に記憶が退行して行く。
108、我れ父の怒りをうけて声高く父を罵り泣ける日思ふ
109、母われをうたず罪なき妹をうちて懲せし日もありしかな
 どの歌もどの歌も佳い歌だ。奇怪でも異様でもない。真実が最上の言葉で詠まれている。
111、われ人にとはれし時にふと母の齢を忘れて涙ぐみにき
112、母よ母このひとり児は今も猶乳の味知れり餓ゑて寝る時
114、我が母は今日も我より送るべき為替を待ちて門に立つらむ
 母に送るべき金が有ったって、百合の花と足袋と香油と青磁の花瓶と銀台の洋燈を買ったくせに。でも114のように思っているのも啄木なのだ。母に妻に金を送る時は印税がどかんと入った時だ。
115、百二百さるはした金何かあるかくいふ我を信ずるや母
 渋民にいた頃こんな事を言って母を煙に巻いていたのも本当らしい。

2012年12月 6日 (木)

石川啄木伝 東京編 40

 夕方に百合の花をまた買つて来て、白のうちに1本の赤を交へてたのしんだ。夜に金田一君と2人例の散歩。電柱の下に立つてゐた美人を見た。
 昨夜と同じ精神状態になって来たらしい。
 「すき歩き」から帰ってからだろう。また歌の奔流がはじまった。日記は記す。
   頭がすつかり歌になつてゐる。何を見ても何を聞いてもみな歌だ。
 赤いインクをペンに付けて歌を記し始める(赤インクは冒頭六首まで)。うち最初の三首。
1、風のごととらへがたなき少女子の心を射むとわれ弓をとる
2、三百の職工は皆血を吐きぬ大炎熱の午後の一時に
3、火をつくる大エンヂンのかたはらに若き男の屍をつむ(推敲前の形)
 またしても奇怪・異様な歌々のはじまりである。止め処もなく作り続ける。
49、庭の木の七本撼れど一本も動かず地に座して涙す
58、わがかぶる帽子の庇大空を覆ひて重し声も出でなく
59、炎天の下わが前を大いなる沓ただ一つ牛の如行く
66、大木の枝ことごとくきりすてし後の姿の寂しきかなや
 86首まで作って来てようやく吐き出す奇想もほぼ尽きたらしい。
87、我は今のこる最後の一本の煙草を把りてつくづくと見る
 もう1首作ったところで突然父母妻子を歌いはじめる。
89、灯なき室に我あり父と母壁の中より杖つきて出づ
91、われ天を仰ぎて嘆ず恋妻の文に半月かへりごとせで
94、父母のあまり過ぎたる愛育にかく風狂の児となりしかな
97、いと重くやみて痩せぬと文よめど夢に見る児は笑みて痩せざり

2012年12月 4日 (火)

石川啄木伝 東京編 39

 さて、啄木のカタルシスはつづく。うち幾首か。
88、今日九月九日の夜の九時をうつ鐘を合図に何か事あれ
105、茫然として見送りぬ天上をゆく一列の白き鳥かげ
113、白馬にまたがりてゆく赤鬼の騎兵士官も恋せしあはれ (この歌後に抹消)
 午前11時頃歌の奔流は止まった。この昨夜中からの約11時間でつくったのは全部で113首目であったが、啄木はかぞえ違いしたのか、作ったのは「百二十首の余」と記した。
 翌6月25日。
 豊後臼杵町の菅原芳子から絵葉書をもらう。寛に頼まれて「明星」4月号のために釧路にいて歌の選者をつとめたとき、啄木は菅原芳子の歌をもっとも厚遇した。その芳子から絵葉書が届いたのだ。貞子に辟易している今、こちらに啄木の関心が動き始める。
 「後藤宙外氏から、春陽堂が十年来の不景気のため稿料掲載日まで待つてくれといふ葉書!」当時は日露戦後恐慌の最中であった。だからこの「不景気」はただごとではない。雑誌に掲載するに値しない原稿に金を払う余裕などなくて当然だ。
 しかし啄木にとっては戦後恐慌も「不景気」もどうでもよい。これで今月の下宿代支払いのメドはなくなった。これこそ大問題だ。「!」が啄木のショックを表している。またしても強いストレスがかかった。小説が書けない。金が入らない。食住が絶たれる。家族を呼べない。堂々めぐりの懊悩がストレスを増幅する。

2012年12月 2日 (日)

石川啄木伝 東京編 38

 盛岡中学時代に真剣に読んだ高山樗牛「日蓮上人とは如何なる人ぞ」には、「東方の小国日本」「東海の仏子日蓮」などがあり、啄木羨望の詩集From the Eastern Sea(ヨネノグチ)の日本語訳は『東海より』であるが、「東海」は日本を指す。啄木自身「東方海上の一島国」(古酒新酒)、「日本は……東海の一孤島」「大文明を東海の天に興す」(林中書)、などと使っている。これらに拠ると「東海の小島」は日本である。
 しかし「磯」「砂」「蟹」となると別のイメージが動員されている。山本健吉が指摘・解説するように 、函館時代の詩「蟹に」には次の詩句がある。
  東の海の砂浜の
  かしこき蟹よ、今此処を

 この砂浜のある海は青柳町の家からはちょうど東にあった。まさに「東の海」である。
啄木にあっては「磯」は波打ち際の意である。「特に岩や石が多い所」という限定はない。したがって詩中の「砂浜」は「磯」である。そして「蟹」。
 「磯の白砂に……蟹と」にはこうした海のイメージも動員されたことであろう。同時に川崎むつをが固執したように、啄木が少年時代に訪れた青森県大間のイメージなども動員されたかも知れない。
 「我泣きぬれて……戯る」にはまた別のイメージや体験が動員されたことであろう。
 ただしこれらは考えて一つ一つ呼び出されたのではないであろう。一瞬のうちに動員され、即座に歌になったのであろう。
 ここではこれ以上の解釈は措く。必要に応じて論じて行くことにしよう。

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