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2013年1月26日 (土)

石川啄木伝 東京編 63

 

然し考へた。自分は自分の歌をかいた扇を持つてゐる。死ぬと、屹度これで自分だと言ふ事が知れるだらう。――かくて予は死ななかつた。そして、新聞記者をした事があるだけに、自分の轢死の記事の新聞に載つた体裁などを目に浮べた。
 余裕のある自殺「衝動」だ。他の多くの一流作家のように先ずは勤めに出ればよいのだ。しかし今自分のやりたいことを今やりたい、これが啄木の幼少期からの習い性だ。下宿に帰り着いた。
 室に入ると、女中が夕飯の膳を持つて来た。”モウ済んだ。” そうですか、” ”ああ、何とした気だらう。自分は今日昼飯とも朝飯ともつかずに、一度喰つたきりなのに!
 7時半になって、長谷川天渓の自宅を訪ねた。いわば夜討ちである。押しつけてきてある「二筋の血」と「天鵞絨」のどちらかの原稿料をもらおうというのだ。天渓は留守だった。
 さて、ここで小栗風葉を訪れたことの意味を探っておこう。
 1908年(明41)当時の評論家たちは、小栗風葉と夏目漱石を「すぐ近くに並べて評価した。二葉亭が様式上の大御所であり、風葉と漱石はともに次点だった」。  だから啄木が居候できて小説の書き方も学べそうな大家として小栗風葉を考えたのはまったくの的外れではない。まして真山青果らと戸塚村に引きこもって「戸塚党」を成していた風葉である。居候しやすそうな噂も聞いていたかもしれない。この5月初めに親しく話した森田草平、生田長江も「戸塚党」なのだから。
 しかし、今の啄木が風葉に惹かれることこそ問題なのである。次に引くのは「中央公論」1908年(明41)9月号所載の「小栗風葉論」からの諸家の言である。
 小栗君は兎に角文章が旨い。寧ろ少し旨過ぎる程旨い。だものだから時には文章の為に筋が変つたり、又書かなくてもよい所を書いたりするやうな弊も出るやうに思はれる。(小杉天外)

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コメント

初めまして。昨年末から、現代詩の勉強を始めました。口語詩の成り立ちを考えている内に、啄木が三行に行わけで詩を提示した意味を知りたくなりました。藤村の新体詩、白秋の短唱にも興味を持っています。(彼らの試みが、どこを目指していたのか、現在にどのように継承されているのか、という点が特に。)
これから、少しずつ近藤先生の解釈と共に読み進めていこうと思っています。とりいそぎ、ご挨拶まで。

コメントありがとうございます。啄木の三行書き短歌=三行詩については、『復元 啄木新歌集』(桜出版) の「解説」245~253ページをご覧下さい。なお『復元 啄木新歌集』をお持ちでない場合、書店では入手できませんのでAmazon等からご購入ください。「短歌」(角川書店、2010年12月号)でも同文をご覧になれます。もっとも以上ではあなたの問題意識に直接お答えしたことにならないのを遺憾に思います。すみません。木股知史『石川啄木・一九〇九年』(沖積社、2011年)のⅣ章「詩心と詩語」はとてもご参考になると思います。お奨めします

ご丁寧にありがとうございました!まずは図書館。
先生の「読み解き」は、作者自身が「あのとき、僕はこういいたかったんだ、こんな気持ちだったんだ」と語っているようで、驚きの連続です。
今現代に生きる私たちが、今の感性と感覚で「勝手に」読んで感動する啄木も、また肯定されるものだとは思いますが、作者との対話、のためには、様々な地道な(すみません)検証が不可欠なのですね。

読者は「勝手に」読む権利があります。それは「読者読み」です。どれだけ多くの人にどれだけ「勝手に」読ませる力があるか。これがその作品の価値の大きさとも言えそうです。しかし研究者の読みは作者と作品にどれだけ深く内在できるか、にかかっています。研究者は一切の「勝手」を排除すべく努めます。悲しいかな私のような凡人研究者の読みにはいろいろの「勝手」が入りこみます。最近秋山虔先生の『平安文学の論』(笠間書院)を拝読してつくづくわが至らなさを思いました。

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