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2013年1月

2013年1月30日 (水)

石川啄木伝 東京編 65

 7月28日。博文館に乗り込んで、長谷川天渓に直談判したが、「二筋の血」や「天鵞絨」に原稿料を出すわけがない。それにしても天渓がよく原稿を突っ返さなかったものだ。
  矢張小栗氏の居候にならう、それで不可かつたら死なう! これだけの考へしか出なかつた。燻んだ顔をして室に入つて、岩崎君からの手紙を読んでると金田一君。完爾として入つて来て、”主婦が乱暴な事申上げたと云つて頻りにあやまつてました。” !!! 
   宿では金田一君から話してくれたので、今後予に対して決して催促せぬと云つたといふ。友の好意! そして十六円出してこれを宿に払いなさいと!

 少年の石川一が明星のバックナンバーを借りに来て以来のつきあいである。あの時から金田一は啄木の文学の才能と啄木の核心である純粋な心とを信じ続ける。
 それにしても甘ったれの啄木だ。これですっかり元気がでる。郁雨に手紙を書く。
 動あるのみ。これが僕の得た目下の結論だ。君。遂に盲動あるのみだ。真に真面目に考へると、死ぬ外ない。遂に遂に盲動あるのみだ!
 「盲動」とは、売れる小説を書くことを、憑かれたように闇雲に追い求めることだ。
 8月2日。「その人々」を起稿、2枚書いた。札幌の2週間を書くのだという。
 3日5枚目まで書いて投げ出す。
 8月4日与謝野寛から書留と為替5円。その金で蕪村の句集、唐詩選、義太夫本、端唄本二冊買う。
 8月5日。
 十時起床。義太夫本を読む。傾城阿波鳴門巡礼歌の段、涙落ちて雨の如し。物の本をよみて泣けること数年振なり。……
 六時頃相携へて初音亭に娘義太夫をきく。初見えの友昇、寺子屋をかたりて熱心愛すべし。十時帰る。……
 床につきて蕪村句集を読む。唯々驚くに堪へたり。四時の時計をきいて初めて巻を捨て燈を消せり。

 小説は当然書けない。しかし歌会があるので歌はできる。

2013年1月28日 (月)

石川啄木伝 東京編 64

 小説のできから言えば風葉にはとても及ばないにしても、この欠点は「雲は天才である」に始まるこれまでの啄木小説の欠点をそのまま言い当てているような評言である。
 次は相馬御風が引く風葉自身の言葉である。
 僕は元来何事に対してもその事一つに凝り固まつて底の底まで究める事の出来ない人間です。……かうやつて小説も随分永く書いては居るが、どうも僕にはチヤンとした方針が立たないので、たゞその時々に応じて作をなして居るだけです。(相馬御風)
 1908年の「作家」石川啄木がまさにこうである事、すでに見た。今の啄木には批評の根底がない。 
  氏は聡明な人だ、聡明な人だから、常に時代思潮の潮先を見て、どうかして其の流れに乗じやうとする、……
 氏には一定の主義、立ち場及哲学、思想と云ふものが無い……
 氏の立ち場が、いかに動揺して止まぬかを見る……
(以上江東生)
 啄木がこれまで時代思潮の先端を俊敏に察知して思潮の穂先を飛ぶように走るのをわれわれは見てきた。しかし北海道で自然主義という時代思潮を見てからの「作家」啄木はまさに江東生のいう風葉とそっくりである。「菊池君」「病院の窓」「天鵞絨」「二筋の血」は「立ち場が、いかに動揺して止まぬか」を見せている。
 風葉は翌09年5月豊橋に引っ込んで、次第に通俗小説作家になってゆく。東京に戻ることはなかった。
 このようにもう事実上書けなくなっている作家に共鳴するものを感じて、「居候」になりたいというのは、「作家」啄木の惨めな失敗を予告するようなものだった。啄木は決していい小説は書けない、「一定の主義、立ち場及哲学、思想」を確立するまでは。しかし啄木にそんな気はない。売れる小説を書くことを、憑かれたように闇雲に追い求めるだけである。

2013年1月26日 (土)

石川啄木伝 東京編 63

 

然し考へた。自分は自分の歌をかいた扇を持つてゐる。死ぬと、屹度これで自分だと言ふ事が知れるだらう。――かくて予は死ななかつた。そして、新聞記者をした事があるだけに、自分の轢死の記事の新聞に載つた体裁などを目に浮べた。
 余裕のある自殺「衝動」だ。他の多くの一流作家のように先ずは勤めに出ればよいのだ。しかし今自分のやりたいことを今やりたい、これが啄木の幼少期からの習い性だ。下宿に帰り着いた。
 室に入ると、女中が夕飯の膳を持つて来た。”モウ済んだ。” そうですか、” ”ああ、何とした気だらう。自分は今日昼飯とも朝飯ともつかずに、一度喰つたきりなのに!
 7時半になって、長谷川天渓の自宅を訪ねた。いわば夜討ちである。押しつけてきてある「二筋の血」と「天鵞絨」のどちらかの原稿料をもらおうというのだ。天渓は留守だった。
 さて、ここで小栗風葉を訪れたことの意味を探っておこう。
 1908年(明41)当時の評論家たちは、小栗風葉と夏目漱石を「すぐ近くに並べて評価した。二葉亭が様式上の大御所であり、風葉と漱石はともに次点だった」。  だから啄木が居候できて小説の書き方も学べそうな大家として小栗風葉を考えたのはまったくの的外れではない。まして真山青果らと戸塚村に引きこもって「戸塚党」を成していた風葉である。居候しやすそうな噂も聞いていたかもしれない。この5月初めに親しく話した森田草平、生田長江も「戸塚党」なのだから。
 しかし、今の啄木が風葉に惹かれることこそ問題なのである。次に引くのは「中央公論」1908年(明41)9月号所載の「小栗風葉論」からの諸家の言である。
 小栗君は兎に角文章が旨い。寧ろ少し旨過ぎる程旨い。だものだから時には文章の為に筋が変つたり、又書かなくてもよい所を書いたりするやうな弊も出るやうに思はれる。(小杉天外)

2013年1月24日 (木)

石川啄木伝 東京編 62

 北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。そこで気がついたが、頭が鈍つて、耳が――左の耳が、蓋をされた様で、ガンガン鳴つてゐた。
 近代詩上における白秋啄木時代(山本健吉)の若き両雄がこの時はじめて二人きりになって会談したのだ。話題は「追放令一件」。それから「小栗云々の事では、”それは考へ物でせう”と言つてゐた。成程考物だとも思つた」。さすがの啄木も借金の申し込みまではできなかったらしい。
 北原は今詩集(邪宗門)の編集中であった。寿司などをごちそうになった。「途中まで送つて、神楽坂に出るみちを教えてくれた。」それから羨ましそうに記す。「北原君は十一円の家賃の家に住つて、老婆を一人雇つてゐる。」
神楽坂を下って飯田橋で電車に乗った。六時を過ぎていた。
  電車で春日町まで来て、広い坂をテクテク上ると、電車が一台、勢ひよく坂を下つて来た。ハツト自分は其前に跳込みたくなつた。
 しかし啄木は自殺するには余りに自分がかわいい男である。とは言え今回の自殺衝動は劇薬的な「持薬」ではあった。

2013年1月22日 (火)

石川啄木伝 東京編 61

 鶴巻町の藤条静暁の下宿を訪ねるがいない。下宿の主婦に道を聞いて、戸塚村字戸塚五番地の小栗風葉宅を目指した。「旧交もある事であれば、居候においてくれと頼むつもりであつた。」この時点でなぜ風葉なのか? これは「作家」石川啄木の現在と深く関わる興味深い問題である。後述する。
 風葉宅は見つからなかった。どうやら戸塚村ではなく、下戸塚村に入り込み捜しまわったらしい。そして「若松町(?)とか、喜久井町とか、南町とか榎町とか、それはそれは、生れた以来初めての町許りアテもなく汗みづくになつて辿り歩いた。」下戸塚村を北北西に向かうべきところを、東の牛込若松町に入り込み、それから北北東の牛込喜久井町、早稲田南町に来てしまった。
 初めての町の炎天の下を、両側を珍らしげに見て歩いた。胸の鳩尾から流れる汗が鈍つた頭にもそれと知れる。これらの家を、今初めて見て、そして終りに見るのだ、俺は死ぬのだから。と考へたのは、トある新らしい家の建つた小坂を降りて曲つて、南町三十三番地先を通つた時。
 このあたりから東方に向かい、牛込榎町か南榎町に入った時、北原白秋の下宿が近いことを思い出したらしい。

2013年1月20日 (日)

石川啄木伝 東京編 60

 九十三度(33.9度C-引用者)の炎天。灰色になつた白地の単衣が垢にしめつて、昆布でも纏うてゐる様な心地だ。英和辞書――自分の最後の財産を売つて、電車賃と煙草代を拵へた。
  江戸川の終点まで電車にのつた。小日向台の樹が、窓から見えた。六年前を思浮べて、胸が痛んだ。

 「江戸川の終点」とは江戸川橋であろう。「電車」は東京鉄道会社の路面電車である。江戸川橋に近づくと右手に大館みつ家のある小日向台が見えてきたのであろう。1902年(明36)真冬1月に着の身着のままで大館家を追い出されたのだった。ホームレス生活、自殺衝動、病気、敗残の帰郷。
 思い浮かべて、さぞ「胸が痛んだ」ことであろう。しかし天才主義を呼号して傲然と借金生活に飛び込んだ2度目の上京後の生活ぶりとその破綻はわれわれのすでに見てきたところ。真冬と真夏の違いこそあれ、ついに下宿追い出しという同一結果にいたったのである。働けば良いのにと、誰もが思うだろう。啄木にその気はない。

2013年1月18日 (金)

石川啄木伝 東京編 59

 7月24日。
「今日は煙草がない。」夕方まで禁煙でがんばったが、とうとう「弓町の平民書房に阿部君を訪ねた。この男も矢張一文なしであつた。」悄然として帰宅すると金星会添削料三一銭が郵送されてきた。さっそく高級煙草敷島を三個買ってきた。「ゆるやかな煙が限りなく目をたのしませる。」
 7月27日。
  ……女中の愛ちやんが来て、先月分からの下宿料の催促。いふべからざる暗怒をかくして、自分は冷やかに応答した。女中は五六回つづけて来た。とうとう、先月分の十五円若干を、明夕までに払はなければお断りするといふ事になつた。
 当然だ。2ヶ月間3食昼寝付きでタダでおいてくれる下宿などあろうはずがない。その上女を連れ込む不良下宿人だ。

2013年1月16日 (水)

石川啄木伝 東京編 58

 7月23日。
  十一時に目をさまして、枕の上で渋民の秀子さんからの手紙を読んだ。温かい涙が不意に両頬をぬらした。心ゆく許り泣いた。……秀子さんは今月末に渋民を去つて郷里に帰り、九月からは九戸郡にゆくといふ。"私の渋民、渋民の私といふもアト十日だけの事です”と書いてあつた。
  自分が渋民を去つてから、故郷と秀子さんとは同じものになつて頭の中に宿つてゐた。渋民を思出して此人を思出さなかつた事はない。此人を思出して、そして、渋民を懐はなかつた事はない。故郷と此人と自分と、この三つは、或意味に於て一つの縄に繋がつてゐた。  ……
  一日故山の事許り考へた。単純な生活が恋しい。何もかもいらぬ。唯故郷の山が恋しい。死にたい。

 こうした日記が後日読み直され『一握の砂』の歌々の源泉になるのである。

2013年1月14日 (月)

石川啄木伝 東京編 57

 女たらしの文章だ。この書簡が不真面目ばかりを書いているかというと、立派な現代短歌論も展開してもいる。
 型にはまりてその才を自ら束縛するといふ事は、何人にもある弊に候ふが、今後は全力あげてその型を打破する様にお努め被遊べく候。それには、簡単なる叙景叙事の歌と、少しでも誰かの作に似た様な事は全然お捨てなさるべく候。かくて初めて、自らの作りたる型の束縛を脱却し、常に清新なる手法を以て清新なる歌をよみうべき事と存候。
 啄木は実際にこうして自らの短歌の道を切り開いて行く。『一握の砂』『一握の砂以後』(『悲しき玩具』)に「簡単なる叙景叙事の歌と、少しでも誰かの作に似た様な」歌のない訳がここにすでに書かれている。
 手紙の結びはこうだ。
 まだ見し事なき君、若し御身のお写真一枚お恵み下され候はば如何許りうれしき事に候ふべき!
 芳子がこの願いを聞き届けるには、かなり躊躇を要する事情があった。
 7月22日。
  起きたのが十二時。下宿料の催促を受けた。
 謹直な赤心館主人夫婦は昨夜の女客の「長居」にひどく神経をとがらせたのだろう。

2013年1月12日 (土)

石川啄木伝 東京編 56

 7月21日。夕方から「久振で貞子さんが来た。十時頃までゐて帰つた」。   
「すでに情交のある若い男と女が五時間も別れ話をしているわけがあるまい」とわたくしが書いたのは5月20日の啄木のことだったが、この日も” 無事”の数時間が過ぎたわけではあるまい。その箇所ではつづけてこうも書いたのだった。「赤心館もとんだ下宿人を置いたものだ。これで金払いも悪ければ最悪の下宿人だ」と。(はたして翌日「下宿料の催促をうけ」る。)
ところでこの21日、啄木は貞子が帰ってから、長い手紙を書きはじめる。筑紫の菅原芳子宛だ。
 なつかしき芳子の君
 今朝、まだ覚めやらぬ夢の中にて寝がへりをうち候ひしは八時半頃にや候ひけむ。ふと枕辺のお文見出で候ふ時のうれしさ御察し下され度候。……ものの十分間許りも夢現の中にうれしき思ひ致し候。力ある柔かき腕に抱かれたる心地にもたぐふべきにや。心暗くのみ打過し候ふ今日此頃、かかる喜びと安けさを味ひ得候ふを先づ謝し奉候。
 いかなればかかる優しさ! かくも目の前の文字を疑ひ、はた、我とわが心の怪しきときめきを疑ひて、長き御文を仰向きの顔に蔽ひ、いひ許りなきなつかしさをもて残んの墨の香を嗅ぎ候。

2013年1月10日 (木)

石川啄木伝 東京編 55

 7月19日。吉井勇が来て「浜町十三軒の淫売屋の話」をとくとくとしゃべる。啄木はうらやましさをにじませて、日記にその話を記す。「病院の窓」のモデル佐藤衣川が下宿の窓の下を通りかかる。部屋に呼び入れる。佐藤が帰った後、月城阿部和喜衛が遊びに来る。豊巻剛、岡山儀七、小林茂雄とともに盛岡で「小天地」の編集発刊を熱心に手伝ったメンバーの一人だ。この阿部がどんな経緯があったのか、今弓町2丁目1番地の平民書房(出版社)に泊まっ ている。その平民書房はついこの1月8日の「屋上演説事件 」の舞台である。
 7月20日。
 古い日誌を取出して、枕の上で読む。五行か十行読むと、もう悲しさが胸一杯に迫つて来て、日誌を投げ出しては目を瞑つた。こんな悲しい事があらうか。読んでは泣き、泣いては読み、これではならぬと立つて卓子に向つた。やがて心が暗くなつて了つて、ペンを投じて、横になつて日誌を読んだ。かくする事何回かにしてこの一日は暮れた。
 身一つ、心一つ、それすらも遣場のない今の自分!
 "死”といふ問題を余り心で弄びすぎる様な気がするので、強いてその囁きを聞くまいとするが、何時かしらその優しい囁きが耳の後から聞える。敢て自殺の手段に着手しようはせぬが、唯、その死の囁きを聞いてゐる時だけ、何となく心が一番安らかな様な気がする。

 この日も「持薬」を飲んでいる。金田一が来ていろいろ慰めてくれる。

2013年1月 8日 (火)

石川啄木伝 東京編 54

 7月11日。
 万葉集を読む、あるかなきかの才を弄ばんとする自分の歌がかなしくなつた。
 吉井の勧めであろうか、中学時代愛読書だった万葉集を読みはじめたのだ。啄木にしてはずいぶん謙虚でしおらしい日記である。
 6月27日ころから7月27日ころにかけて、啄木は生涯で一番「死ぬ、死ぬ」と書く。死ぬ気はまったくない。そう書くことでむしろ生きる力を回復しているかのごとくである。後にうたったように「持薬をのむ」ように 死ぬことを思ってみるのである。
 7月18日。
  起きたのは八時頃であらう。
  しめやかな気持が続いてゐる。この数日は、女といふものが自分の心から遠ざかつた様だ。其代りに、生命その者に対する倦怠――死を欲する心が時々起つて来る。歌を作つてるのは、煙草をのむと同じ効能がある。それ以上の事はない。そして、一人何もせずにゐると、自分は遂に敗れたる哀れな―― soul だ!
  日一日と麻痺してゆく心! これが人生の最も悲惨なる悲劇だ。イヤだ、イヤだ。
  並木君が来た。明日立つて函館に帰るといふ。何か用がないかといふ問!
  吉野君にかなしい手紙を書いた。そしてせつ子にも書いた。並木が帰るのに、何も京子に買つてやれぬから許してくれと。
  並木君が帰つて、若し自分の現下の境遇をその儘話したら、母と妻の心は怎うだらう。若し又、何気なく表面だけの嘘を云つてくれて、そして母と妻がそれを信じて安心するとしたら怎うだらう。予は今、自分一個の処置にさへ窮してゐるぢやないか!
  Three of themを読んでしまつた。Iliaは遂に石の壁に頭をうちつけて死んだ!

2013年1月 6日 (日)

石川啄木伝 東京編 53

 

ところが鉄幹が直して「明星」に発表した歌は、
   石ひとつ落ちぬる時におもしろし万山を撼る谷のとどろき
と、なつている。
  これでは、山の上から自然に大きな石がころがり落ち、山をゆすぶるようなひびきが、谷底からとどろいてくるのがおもしろいという、客観描写で、自分から積極的にころがし落すという、はげしい感情とは、およそ反対で、作者の意図とはまるでちがつたものになつている。したがつてこの歌からは、石破という意味、感情が全然うけとられない。啄木が直されたために、感情が虚偽になつていると不満をいつているのも、当然といわねぼならない。

 これもほぼ正鵠を得ている。
 自ら落とした石が、自然に落ちた石に変えられてはたまらない。
 岩ではなく「石」であるから、そんなに大きなものではない。それを「一」つ落としたところ、ものすごい破壊を引き起こし、ついには谷底で「一」つの山を揺るがすようなとどろきとなった、と言うのである。それを「万山」に変えられては二重にたまらない。
 啄木は明星に原稿を送る時にはすでに、この歌一首を自分が落とした「石一つ」になぞらえていたのだと思われる。先に見たとおり、この歌を作ることによって歌人石川啄木のビッグバンは始まったのだった。
 寛が手を入れたと思われる歌は、20首前後ありそうだが、啄木が「皆原作より悪い。感情が虚偽になつてゐる。……少し気持ちが悪い」というのは分かるような気がする。
 ただし「たはむれに母を背負ひてその余り軽きに泣きて三歩あるかず」は啄木の原稿だが、「三歩あゆまず」に変えたのは寛らしい。そして啄木はこの手直しは結局受け入れた。

2013年1月 4日 (金)

石川啄木伝 東京編 52

 石川正雄は6月23日12時(実際は24日午前0時)ころにはじまる歌の奔流の第1首の明星に送った原稿つまり「石破集」第1首の原稿を次のように推定した。
  石一つ落して聞きぬおもしろし山を撼(ゆ)る谷のとどろき
と。これでは第4句が五音であって、短歌になっていない。石川正雄は推敲跡のはげしく入り乱れた原稿から「一」の字を読み取れなかったのである。決定稿はこうでなくてはならない。
  石一つ落して聞きぬおもしろし一山(いちざん)を撼(ゆ)る谷のとどろき  (ルビは近藤)
 ともあれ、石川正雄は自身の読み取った破調の短歌にもとづいてこう述べた。
  石ひとつの歌は、そのはげしい自棄的な気持をもてあまし、山の上から大きな石をころがし落し、あたりを滅茶滅茶にしながら、深い谷底で爆雷のような轟音をあげて、石そのものが木つ葉みじんになるという、捨鉢な気持を歌つたものと、推量され、石を破るという、途方もない表現は、ここからきたものと考えられよう。
  ……
  かれがこの歌を冒頭に据え「石破集」と題したのは、そこに浮かびあがる複雑多様な感情を歌つた集という意味ではなかつたろうか。

 この歌をただ一人正解に近いところまで読んだ人ならではの卓見である。ついで石川はこうも言う。

2013年1月 2日 (水)

謹賀新年

  あけましておめでとうございます

いつもご訪問してくださる常連のみなさまに先ずお礼申し上げます。

このブログのアクセス数は60/1日、訪問者数30/1日といったところです。分けても若手研究者や大学院生、群大・成城大等での教え子など、若い人が訪問してくれるのが最大の励みとなっています。外国からもアクセスがあります。この4か月間では英語・中国語・韓国語・ロシア語・ドイツ語・トルコ語・フランス語の各圏からの訪問が合計500近くありました。

今年もこのブログほそぼそと続けようかと思います。できれば石川啄木を好きな方々にお奨めくださいますようお願いいたします。

現在わたくしの石川啄木伝執筆は四百字詰原稿用紙換算で、約2000枚に達しました。しかしまだ石川啄木の1909年(明42)12月(「心の姿の研究」)です。400~500枚書いて完結するのにあとどのくらいの時間を要するのか。一往のメドを2年間と考えています。ずいぶん調べて来たはずの石川啄木ですが、さしかかる時期時期で未知・未解決の問題はわき上がってきて、それを解決するのに1か月かかることもめずらしくなく、その間の執筆は1字1行も進みません。

今年は啄木にとってもっとも重要な時期1910年(明43)を書きますが、その前にこの1月は3冊の大著を読みたいと思っています。石川登『境界の社会史』(京都大学学術出版会)、和田春樹『朝鮮戦争全史』(岩波書店)、そして秋山虔先生の『平安文学の論』(笠間書院)です。(『境界の社会史』の著者石川登京大教授はわたくしの成城学園中学時代の教え子です。)

3冊を読み終えてから石川啄木(明治42年末~43年)執筆にとりかかります。

今このブログに連載している「石川啄木伝 東京編」は2011年1月21日起稿~2012年6月18日脱稿の原稿(わずか192枚)をもとにしています。

去年同様偶数日に投稿してゆく予定です。

では今年もよろしくお願いいたします。

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