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2013年2月

2013年2月28日 (木)

石川啄木伝 東京編 79

 9月7日
 予は昨夜同君から貰つた五円で、袷と羽織の質をうけて来た。綿入を着て引越して来たのだつた。女郎花をかつて来て床に活けた。茶やら下駄やら草履やらも買つた。
 袷と羽織の質請けはいいとしても……。まだ金が残っている。無くなるまで遣わずにいられないのが啄木だ。
 予は一人散歩に出た。四丁目で金矢光一君に逢ふ。此人は今度高商へ及第したのだ。伴立つて方々を歩いた末、浅草に行つて”塔下苑”を辿る。
 ほうら出た、である。もっとも今はまだ「偵察」である。
 帰りにとある蕎麦屋で喰ふ。銚子も一本。帰ると十二時少し過ぎ。大門が閉つてゐた。
 赤心館を追い出された反省などどこにもない。手に金を握れば住んで2日目にはもう門限破りだ。援助の蔭にある金田一の苦衷もなんのその。

2013年2月26日 (火)

石川啄木伝 東京編 78

 予は、唯、死んだら貴君を守りますと笑談らしく言つて複雑な笑方をした。それが予の唯一の心の表し方であつたのだ!
 本を売つて宿料を全部払つて引払ふのだといふ。本屋が夕方に来た。暗くなつてから荷造りに着手した。

 金田一は国語学とアイヌ関係の文献を残して、ほとんど全部の文学書を売り払った。
  ……高等学校時代から親しんでゐたシェリーやキーツやの綺麗な表紙が、今更未練がましく目に浮び、それよりも、初めて読んだドイツの詩集ハイネのブッフ・デル・リーデルの思出多き赤い金ピカの本や、涙を流して読んだロゼッチのハウス・オブ・ライフなどが、誰の手に買はれて渡るだらうなど、考へたつてわからないことを一人で暫く考へてゐた。
 金田一がとっておきの洋書まで売り払った悲しみ苦しみが痛々しく伝わってくる。
 午後九時少し過ぎて、森川町一番地新坂三五九、蓋平館別荘(高木)といふ高等下宿に移つた。家は新らしい三階建、石の門柱をくぐると玄関までは坦かな石甃だ。……
 三階の北向の室に、二人で先づ寝ることにした。成程室は立派なもの。窓を開けると、星の空、遮るものもなく広い。下の谷の様な町からは湧く様な虫の声。肌が寒い程の秋風が天から直ちに入つてくる。
 枕をならべて寝た。色々笑ひ合つて、眠つたのは一時頃であつたらう。

 またしても金田一に助けてもらって当面の衣食住の確保ができた。金田一はこの援助の他に五円も恵んでくれた。
 金があるとすぐ遣わないではいられないのが啄木だ。これは父親譲りで死ぬまで治らない。

2013年2月24日 (日)

石川啄木伝 東京編 77

 9月5日は観潮楼歌会の日だ。「袷は質に入れてあるので、袖口のきれた綿入を着てうそ寒い。為すこともなくうつらうつらと煙草の粉を吸つてると」2時頃吉井勇がやって来た。2人で兼題の歌をつくり、5時に鷗外宅へ。佐佐木信綱が来ていた。鷗外は遅れて賀古鶴所・与謝野寛とともに香の会から帰宅した。伊藤左千夫も来た。平野は啄木と吉井が迎えに行った。
 散会は11時。「主人は俳句の会も起したいが、山縣公の常磐会があるので、とても今の所ヒマがないと言つて居られた。」すでに赤旗事件が起こっている。大逆事件に向かう導火線は点火され燃えているのだ。赤旗事件から大逆事件にいたる過程の大本締めが山縣有朋である。
 9月6日
 十一時頃に起きた。枕の上で矒乎(ぼうと)考へ事をしてゐたのだ。
 金田一君が来て、今日中に他の下宿へ引越さないかといふ。……怎して然う急に問うと、詰り、予の宿料について主婦から随分と手酷い談判を享けて、それで憤慨したのだ。もう今朝のうちに方々の下宿を見て来たといふ。

2013年2月22日 (金)

石川啄木伝 東京編 76

 日記の続きを引こう。
 泣菫の詩人的生活は終つた。有明も亦既に歌ふことの出来ない人になつた。与謝野氏は、こゑの未だ尽きぬうちに、胸の中が虚になつた。今、唯一の詩人は北原君だ。北原の詩で、官能の交錯を盛んに応用した、例の硝子のにほひの詩は、要するにキネオラマに過ぎぬが、此頃毎号心の花に出してゐる”断章”の短い叙情詩に至つては、真の詩だ、真の真の詩だ。心にくき許り気持のよい詩だ。今の詩壇の唯一人は北原だ!
 負け嫌いの啄木にしてはまれに見る手放しの絶賛だ。それでも負け嫌いが現れるのは次の負け惜しみ一行であろう。
 然し北原には恋がない!
 そこでこれから4ヶ月後、啄木はうぶな白秋にとんだ「恋」を教えるだろう。白秋はこの面でも啄木を超え、牢獄につながれることになるであろう。
 ともあれこのころから白秋は短歌において啄木に一歩を譲り、啄木は詩において白秋に一歩を譲ることになるであろう。

2013年2月20日 (水)

石川啄木伝 東京編 75

 9月1日、読売新聞が啄木の送った釧路新聞の記事を送り返してきた。不採用は当然だ。
 日記の後半にこう記す。
  夜寝てから興を覚えた。久振に、数年振に興を覚えた。二時頃までに”青き家”その他十篇ばかりも詩の稿を起した。
 この日「心の花」9月号が届いたのだ。そこには北原白秋の「断章」が20編載っている。2編ほど引いてみよう。
  なやましき晩夏(おそなつ)の日に、
  夕日浴び立てる少女
(をとめ)
  余念なき手にも揉
(も)まれて、
  やはらかににじみいでたる
  色あかき爪
(つま)くれなゐの花。
     ――その十六、色あかき爪くれなゐの花

  泣かまほしさにわれひとり、
  冷
(ひ)やき玻璃(はり)(ど)に手もあてつ。
  窓の彼方
(かなた)はあかあかと沈む入日の野ぞ見ゆる。
  泣かまほしさにわれひとり。
     ――その二十九、泣かまほしさにわれひとり

 その時代の文学と思想に現れた最尖端を見逃したことのない俊敏の精のような啄木である。詩に薄田泣菫・蒲原有明が現れると、すぐかれらの真価を直観し、学び、摂取したことはすでに見た。
 今北原白秋が自分を抜いて詩の世界の最先端に立ったことを、啄木は「心の花」の7、8、9月号の「断章」を通じて認めたのである。が同時にこれまた詩人啄木の生涯を通じる特徴であるが、詩歌の尖端的傑作に出会うと、それらに刺激され触発され自分も必ず創作を試みるのである。
 それがこの夜の「”青き家”その他十篇ばかり」の詩である。

2013年2月18日 (月)

石川啄木伝 東京編 74

 8月29日。
 昨日の新聞に広告された、読売社の三面記者五名募集へ、心ならずも履歴書をかいて、釧路新聞へ書いたのと共に送つた。希望俸給四十五円か五十円と書いた。俺にこんな巨額な金をくれる奴はない。それは確だ。不本意で応ずるのだから、態とこんな詰らぬ事に不平を洩したのさ。
 こんな男を雇うはずがない。
 この日新詩社で徹夜百首会。与謝野夫妻、茅野蕭々夫妻、吉井勇、平野万里、北原白秋ら13人で始まった。
 森鴎外の観潮楼歌会では次の歌会のための題(たとえば、斯く・さぞ・瓶・海、など)を出しておく。兼題である。新詩社の場合、題はその場で出されたらしい。この日であると、月・充つ・耳・溜・など(新詩社ではこうした題を「結び字」と言った)。これを一首の中に詠み込んで歌を作り(この夜は一人百首)、互いに発表しあうのである。啄木は一番早く30日午前6時に作り終わった。
 啄木の作った歌から引こう。太字が結び字。
  雨後のほどよくぬれし屋根瓦ところどころに輝くもよし
  岩手山秋はふもとの三方の野につる虫を何ときくらむ
  秋のこゑまづいち早くに入るかかる性こそかなしむべかり
  水たまりくれゆく空と紅の紐と浮べぬ秋雨の後

 結び字を離れたらしい歌にもいいのがある。
  いつしかに泣くといふこと忘れたる我泣かしむる人のあらじか
  汪然としてあゝ酒の悲みぞ我に来れる立ちて舞ひなむ
  秋の空廓寥として影もなし覚めたる人の心にも似て

2013年2月16日 (土)

石川啄木伝 東京編 73

 それでもけなげな節子は「啄木の非凡な才を」信じようとする。それは少年石川一と共有した少女時代からの夢を追いつづける事であった。
 しかし郁雨は啄木の「道念」が融け始めた釧路時代からあからさまな手紙を通じて啄木の「自然主義」的な言動を知っている。だから「犠牲になる」云々の言葉も出たのであろう。節子は「何とも云はれず悲しくなる」。郁雨は同情する。それから姑カツとの救い様のない確執に耐える節子。郁雨の同情はいっそう募る。
 ほぼ同じ頃漱石が東京朝日新聞に連載中の「三四郎」で、イギリスのことわざPity’s akin to love.(かわいそうだと思う心は愛情に近い)を「可哀相だた惚れたつて事よ」と与次郎に訳させている。
 節子は郁雨を「兄さん」と呼んでいる。啄木は互いに猛烈に接近しそうな関係になったとき小奴を「妹」と呼んだ。女が男を「兄」と呼び、男が女を「妹」と呼ぶとき、2人の距離は非常に近い。節子満21歳、郁雨23歳である。
 さて、現在の啄木に戻ろう。啄木はこの妻を侮辱して前言を記したのだ。

2013年2月14日 (木)

石川啄木伝 東京編 72

 啄木からの手紙を待つ節子、啄木の才能を信じる節子。しかし花婿のいない結婚式以来の夫啄木との生活を思い、その後会心の小説は一編も書けない夫を思い、上京後手紙もろくすっぽよこさない夫を思うとき、節子の心に疑惑が生じるのはやむを得ない事であった。
 「ゲザのたぐひではないかと思ふと何とも云はれません」と言う。ゲザは森林太郎『美奈和集(水沫集)』中の一編「埋木」の主人公の名前である。少女時代節子は啄木の勧めで『美奈和集』一冊または「埋木」一編を読んだのである。
 ゲザ・フアン・ザイレンは9歳頃にバイオリンを習うや驚くべき才能を示した。短時日のうちに美少年のバイオリニストとして喝采を博するようになった。ただ思慮に浮ついた面ががあり、仕事においては熱中と倦怠が交互し、持続して努力する性向に欠けていた。
 高名のピアニスト・ステルニイに見いだされ、バイオリニストとしてますます喝采を博したが、そのうち作曲もはじめた。未完成品だがかなりの傑作「悪魔」を作った。美しい婚約者もできた。しかしステルニイの奸計にかかって婚約者を奪われ、しかも彼女は自殺に追い込まれる。ゲザは酒に走りアル中になった。その上「悪魔」の譜面もステルニイにそっくり剽窃されてしまう。落魄したゲザは再起を期してパリに出るが、時すでに遅く、バイオリニストの技術も作曲の能力もすでに失われていた。そして廃人になって年老いて行く。
 節子は啄木を信じているが、時として啄木の中にゲザが見えてしまうのだ。

2013年2月12日 (火)

石川啄木伝 東京編 71

(承前)
あゝ覚悟をし得ぬ他人……あゝ私はこの為めに今迄どのくらゐ苦しむか知れません。私は啄木の母ですけれども実は大きらひです。ほんにきかぬ気のえぢの悪ひばあさんですから夫もみつちやんもこまつてますよ。こんなこと私は両親にも夫にも云はれませんからねー
あゝほんとうに私の不平をきいて下さるのはお兄さん一人ですわ、はしたない女と思し召すでせうが可愛相と思ふて下さいませ、思へば一昨年の十一月でしたが私お産をする為めに里へ帰へつたのが三月まで盛岡にくらし五月宅が渡道する時より私この地に参るまで母の世話になりしが九月に入りて札幌の二週間日報時代はとかくしてすごしましたが今年になつてより又々東西に分れて私はこの北海の秋に親しむ身となつてるので御座ひます。無理にでもくつついて行きたいのですが私が先に行くと母がまたなげられた捨てられたといひます去年も色々事情があつての事ですけれど私一人を悪ひ悪ひと云ふのですよ、だれだつてかまわぬ気ならあんな無理してまでも呼びませんわねーほんとうに誤解いつたらひどいんですよ夫は何も知りますまひが私ばかりくるしいんですよ、私一人で忍で居ればいいと思つて何も云ひませんがね……あゝ夫の愛一つが命の綱ですよ、愛のない家庭だつたら一日も生きて居ません、私は世のそしりやさまたげやらにうち勝た愛の成功者ですけれど今はかく泣かねばなりません……しかし啄木は私の心を知つてるだらうと思ひます。もしも誤解でもする様だとこれ位悲しい事はありません、盛岡へ行く事も私はゆかぬと云てやりましたからキツトめんどうだと思ふてあゝ云ふてよこしたのでせう、なんだかあまりグチになりますから之でよしませう。
おはりに一つ兄さんに折入つてお願ひ申度事があります、ほんとうにすまないですけれど月末までに質の方どうかして下さいませんか。一月にも兄さんのおかげで助かりましたつたが実は六月きりでしたのを七月の末までこれで先月もだめで今月末までのばし
て置きましたが半分も売つて利子にしようと思ひましたらあんまり安いからと今迄三月もまつてくれたので御座ひます、今の処は半分でもいいのですからどうぞお願ひ致します、誠にすみませんけれどねー兄さん      節
   お兄様
     御許に
お返事はいたゞかなくとも宜しふ御座います
京子せわしき為乱筆御ゆるし下され度候
月末の払や何は先日いただいたので大丈夫にて候間質の方のみ何とぞ何とぞお願ひ申上候  サヨナラ

 二人は近所に住んでいたが、節子はあえて手紙を書いたのである。

2013年2月10日 (日)

石川啄木伝 東京編 84

 しかし他方ではすでに見たように「此頃毎号心の花に出してゐる”断章”の短い叙情詩に至つては、真の詩だ、真の真の詩だ。心にくき許り気持のよい詩だ。今の詩壇の唯一人は北原だ!」と評価しているのだった。これらの「短い叙情詩」はやがて『思ひ出』(一九一一年六月)の源流となるといってよいであろう。そして『思ひ出』こそ白秋の詩業中の最高傑作として後世に評価され、またもっとも後世に影響を与える詩集ともなるのである。
 両詩集が出版されるずっと以前に、未来の両詩集を見た上に評価までしてしまう予言となっている。おそろしい批評眼である。
 しかし詩人啄木自身の立ち位置は不明瞭である。
 小説界に起つた自然主義は、詩壇にも同様の現象を誘起した。自ら自然主義と称した手合も、早稲田派の末派などには少くない。此傾向はまた、”口語詩”なるものを作らしめた。
  自然主義詩に予の満足しえない理由、否、寧ろ全然不賛成な理由は、上に書いたことで明かだと思ふ。

 浪漫主義の啄木的形態としての天才主義はもはや啄木の詩作の根底に据わりえない。釧路で書いた「卓上一枝」でその破産をすでに告げていたのだった。だから今の啄木は詩人としての足場がないのである。自然主義は「寧ろ全然不賛成」なのだという。残るは白秋詩にある「二つの希望」だけ。その一方はしかし「極言すれば邪路に迷へるもの」として自分はとらない、と言う。結局詩に託すべきものとして残ったのは「小供の時代に帰りたいといふ方」のみ。

石川啄木伝 東京編 70

 こうして、生きるためのセックスという点では「普通の女」も「”彼等”」も、していることはおなじである。たしかに啄木が言うとおりである。
 しかし次の点において啄木の意見は不当である。
 一、女が歴史的社会的制約の下でおかれているセックスの現状をおとしめている点で。
 二、おとしめた上で、結婚の(「普通の女」との)セックスも買春のセックスも同じであるとして、買春を合理化しようという下心がある点で。
 もう一つある。「普通の女」として今具体的に思い浮かべているのは妻節子なのである。夫をひたすら支えて生きようとする節子を侮辱している。作家になるためには節子も娘京子もお荷物なのだ。小説が書けなければ書けないほど(それは今の啄木に力が無いからなのだが)、妻子の存在が疎ましいのだ。
 啄木がこんな日記を書いた4日後の8月27日、節子は宮崎郁雨宛てに次のような手紙を書いた。長いけれど全文を引こう。

 葉月二十七日 阿つさは又々この二階をおそうて来ました。東京よりのたより切角まつてますがうちにはまだ来ません。啄木が偉くなれるかなれぬかは神ならぬ身の知る事が出来ませんがたれしも偉くなろうと云ふ自信は持つて居るでせう。ですがそう思ふて居る人がはたして偉くなり得る力を持て居るかどうかわかりませんのネ……然し私は吾が夫を充分信じて居ります。大才をもちながらいたづらにうづもるるゲザのたぐひではないかと思ふと何とも云はれません、世の悲しみのすべてをあつめてもこの位可なしい事はないだらうと思ひます。古今を通じて名高い人の後には必ず偉い女があつた事をおぼへて居ます。私は何も自分を偉いなどとおこがましい事は申しませんが、でも啄木の非凡な才を持てる事は知つてますから今後充分発展してくるやうにと神かけいのつて居るのです。だから犠牲になる等と云はれると何とも云はれず悲しくなるのです。私一人なら、決して決して(2つめの決して=くのじの踊り字)こんな弱いことは云はせませんがねー兄さん……四年も前から覚悟して居りますもの、貧乏なんか決して苦にしません、黄金とか名誉とか地位がはたしてどのくらゐの価があるのでせうねー兄さん……  (以下次回)

2013年2月 8日 (金)

石川啄木伝 東京編 69

 8月22日。
  昨夜歩いた境地――生れて初めて見た境地――の事が、始終胸に去来した。
  結婚といふ事は、女にとつては生活の方法たる意味がある。一人の女が一人の男に身をまかして、そして生活することを結婚といふのだ。世の中ではこれを何とも思はぬ、あたり前な事としてゐる。否、必ずあらねばならぬこととしてゐる。然るに”彼等”に対しては非常に侮蔑と汚辱の念を有つてゐる。
 少し変だ、彼等も亦畢竟同じ事をしてゐるのだ。唯違ふのは、普通の女は一人の男を択んでその身をまかせ、彼らは誰と限らず男全体を合手に身をまかせて生活してゐるだけだ。
 今の社会道徳といふものは、総じて皆這麼
(こんな)不合理な事を信条としてゐる。
 ずいぶんご立派なお説である。しかしいやな物が纏わりついている。それはなんだろう。
 当時の女はある年齢に達すると「生きる=生存する」ためには「結婚」しなければならなかった。本来最高の幸せ最高の快楽であるはずのセックスは夫=男への義務と化した。セックスとそれに伴う出産・育児が、家事と共に女の義務であった。この義務を果たしてのみ女は生存できるのである。もし結婚しないのであれば職業を持つ道もあるように思えるかも知れない。しかし産業革命が完了し、これから資本主義を全面的に展開しようという20世紀初頭の日本には女性の近代的職業としては小学校教師か看護婦くらいしかなかった。それ以外では江戸時代を引き継ぐ髪結いとか芸者の仕事そして売春などである。もっともせつなくてもっとも手っ取り早い仕事が売春であった。

2013年2月 6日 (水)

石川啄木伝 東京編 68

 8月21日。
 夜、金田一君と共に浅草に遊ぶ。蓋し同君の嘗て凌雲閣に登り、閣下の伏魔殿の在る所を知りしを以てなり。
 7月5日に金田一から話を聞いていたのだった。興味津々だった。今日はいよいよ”実地調査”というところだ。
 凌雲閣の北、細路紛糾、広大なる迷宮あり、此処に住むものは皆女なり、若き女なり、家々御新燈を掲げ、行人を見て、頻に挑む。或は簾の中より鼠泣するあり、声をかくるあり、最も甚だしきに至つては、路上に客を擁して無理無体に屋内に拉し去る。歩一歩、”チヨイト””様子の好い方””チヨイト、チヨイト、学生さん”"寄つてらつしやいな"
 塔下苑と名づく。蓋しくはこれ地上の仙境なり。

 十時過ぐるまで艶声の間に杖をひきて帰る。
 ずいぶん猥雑で猥褻な界隈である。ここを「地上の仙境」といい、「十時過ぐるまで」徘徊したというのだから、啄木の胸の内もさぞ猥雑で猥褻だったのだろう。

2013年2月 4日 (月)

石川啄木伝 東京編 67

 植木貞子が啄木の留守中に来て「明治四十一年日誌」と「天鵞絨」の原稿と歌稿ノート「暇ナ時」を持ち去ったのである。「机上に置き手紙あり、曰く、ほしくは取りに来たれと。」
  予は烈火の如く怒れり。……
  小樽なる桜庭ちか子女史より来信。また母が自ら書きたる手紙を読む。

 貞子とのことはいわば痴話げんかである。日記その他は8月19日夕方貞子が自ら持ってきて、さめざめと泣きながら返していった。ただし貞子の悪口を書いた7月29日~31日の分は裂かれていた。
 母からの手紙は深刻である。何十年も字を書いていないカツが、少女時代に習った字を思い出し思い出しして書いているのである。内容ははやく東京に迎えてくれというのであろう。「心は益々乱れたり。」 当然だ。
 戻って来た日記にあとで(おそらく19日に)書き足した記述によると、14日茅野蕭々宅をたずねて「信濃の新聞」に就職の斡旋を頼んでいる。しかし啄木に就職する気はない。就職活動らしきことをすることで、苦境から目をそらせているのだ。「好き歩き」とたいして変わらない。17日「大坂新報のために小説”夏草”を書き初む。(十七日夜より)」とあるが、書いた形跡は見当たらない。小説を書けないから手紙を書いたり、金田一と将棋を指したりして日を送る。7月末の窮境も月末までは忘れられるのが啄木だ。

2013年2月 2日 (土)

石川啄木伝 東京編 66

 8月8日千駄ヶ谷(新詩社の)歌会。平出修、平野万里、吉井勇らも来ている。
 歌会の前に明星廃刊と「新たに与謝野氏と直接の関係なき雑誌を起こすこととな」った。この相談会で「最も弁じたのは商売柄平出君」だったという 。平野・吉井・啄木の3人が編集に当たることになる。文芸雑誌「スバル」(この時は誌名未定)創刊決定の瞬間である。
 与謝野夫妻の外に平野・吉井・北原白秋もいるのだから、秀歌がたくさん生まれた事であろう。啄木にも美しい歌々が生まれる。
 ふるさとの寺の御廊(みろう)に踏みにける小櫛(をぐし)の蝶を夢に見しかな (蕪村)
 はたはたと黍
(きび)の葉鳴れる故郷の軒端ぞ恋し秋風吹けば      (唐詩)
 愁ひ来て岡に上れば名も知らぬ鳥啄
(ついば)めり赤き茨(ばら)の実    (蕪村)
 蕪村の句が(一首目と三首目)、唐の詩が(二首目)啄木の歌を変えはじめたのだ 。
 徹夜の歌会を終え、九日の夕方四時ころ赤心館にもどると小事件が起きていた。

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