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2013年3月

2013年3月30日 (土)

石川啄木伝 東京編 94

 10月5日。
 午後三時頃まで机に向つて、遂に想がまとまらず。
 吉井君が来た。日がくれてから、平野君を誘つて鈴本亭に義太夫をきく。……美人の顔を黙つて見てると、実に気持が可い。這麼時予の心は三様に働く。一つの心は、義太夫を聴いて味つてゐる。一つの心は、美しい顔を眺めて喜んでゐる。そして一つの心は、取留もない空想に耽つてゐる。

 9月の下宿代は未払いだから、金を作らねばならない。そのためには小説を書かねばならない。「遂に想がまとまらず。」
 それにしても、この小説を書けない小説家の自己省察の鋭く繊細なこと。この異能は短歌創作において駆使されることになる。
 6日。
 “青地君”と云ふ題だけ書いて、十枚も紙をしくじつた。金田一君へ来た中央公論を持つて来て読む。……風葉、秋声、青果、白鳥、皆うまいが、何れも左程傑出したものでもない。風葉の”世間師”が就中読ませる。近頃の作のうちで最も気に入つたものだ。
 小説は書けない。しかし7月と同様、今全盛の自然主義小説を啄木が志向しているのはあきらかだ。就中風葉に傾いている。

2013年3月28日 (木)

石川啄木伝 東京編 93

 新詩社からもどり、やってきた吉井に写真の一件を話し「筑紫の人の事で大笑ひ」。
 4時、連れだって観潮楼歌会へ。この日のメンバーは森鷗外、佐佐木信綱、伊藤左千夫、平野万里、吉井勇、北原白秋、与謝野寛、太田正雄(木下杢太郎)、服部躬治、古泉千樫、石川啄木、遅れて賀古鶴所。啄木はこの日は「空前の盛会」と記す。
 たしかにこの年の12月杢太郎、白秋、山本鼎、啄木らがパンの会を始め、耽美派が誕生。観潮楼歌会への若手出席者は閑散となる。啄木と杢太郎は、この日初めて会った。
 なお、この3日新詩社への出がけに、本郷「四丁目の文明堂といふ本屋の店先で、野村長一君に逢つた。昔とは見違へる程肥つてゐたが、別老けてはゐなかつた」とも記す。最初の上京時啄木が非常に世話になった長一(のちの胡堂)は今東京帝国大学に在学中である。
 10月4日、金田一と二人で明星百号に載せる写真を撮りに九段の佐藤という写真屋へ 。写真を撮ったあと二人で日本初の洋風近代式公園・日比谷公園へ。「人工の美も流石に悪くない。松本楼でビールを飲み乍ら晩餐をとつて」いる。それから浅草に行って、塔下苑をさまよい、大勝館で活動写真をみて、四丁目の藪でまたビールを飲んでと大いに散財している。もちろんすべては金田一の財布から出たのだ。

2013年3月26日 (火)

石川啄木伝 東京編 92

 10月2日、節子と妹光子から手紙が届いた。母カツが29日の夜に岩見沢の山本千三郎・とら夫婦の許へ向かったという。口減らしのためであろう。岩見沢へ直通の汽車は一本しかない。函館発午後7時、翌朝7時28分着の便だ。啄木が函館の焼け跡を去った時と同じ池田行きである。年老いたカツには乗り換えなど不可能と判断したのであろう。夜汽車に乗って揺られて行く。
  ……北海の秋の夜汽車の老いたる母が心! 妻は是非東京で奮闘してくれと言つて、人数も少なくなつた事なれば、アト一月や二月郁雨君の厄介になるにも少しは心の荷が軽くなつたと言つて来た。予は泣きたかつた。然し、涙が出なかつた!
  ……
  筑紫から手紙と写真。目のつり上つた、口の大きめな、美しくはない人だ。
  ……
  血笑記を読んで了つて、色々と物思ひに耽つてるうちに夜が更けた。源氏の“野分”の巻を読み乍ら寝た。

 「血笑記」は二葉亭が訳したレオニード・アンドレーエフの小説。この7月易風社から出た。
啄木は血まみれの印象を与える『血笑記』を読んだあと、こんどは源氏物語の野分を読んだ。須磨源氏なら第12帖までだが、野分なら54帖中の28帖を読んだことになる。
 翌日「晶子さんと栗を喰べ乍ら源氏の話などをし」ているが、行幸以降は読まずに古本屋に売ってしまったらしい。

2013年3月24日 (日)

石川啄木伝 東京編 91

 9月26日の日記。
 白楽天詩集を読む。白氏は蓋し外邦の文人にして最も早く且つ深く邦人に親炙したるの人。長恨歌、琵琶行、を初め、意に会するものを抜いて私帖に写す。詩風の雄高李杜に及ばざる遠しと雖も、亦才人なるかな。
 27日。
 白詩に親しむ。共に琵琶行を吟じて花明君の眼底涙あるを見、憮然として我の既に
泣く能はざるを悲しむ

 29日。 
 杜甫を少し読む。字々皆躍つてゐる様で言々皆深い味がある。無論楽天などと同日に論ずべきものではない。これに比べると、白は第三流だ。
 小説の評価は的外れのようだが、唐詩の批評は尋常ではないようだ。長恨歌、琵琶行等を筆写した「私帖」は残念ながら残っていない。しかし白楽天のこれらの傑作もかれが読んでいたと言うことである。しかしその白楽天への評価の厳しいこと、李杜特に杜甫への傾倒ぶり、「二十二歳の若者とは思えぬ批評眼の高さに、改めて驚く。」 (石川忠久)
 「白楽天詩集」は近藤元粋評訂の『白楽天詩集』(青木嵩山堂)であろう。
 30日。
  夜、金田一君と麦酒をのみ、蕎麦をくひ乍ら、宋元明詩選を読んだ。陶然として酔ううて室に帰つたのは十時半頃、それからハウプトマンのHannele を少し読んで寝た
 「宋元明詩選」は近藤元粋著『宋元明詩選』(青木嵩山堂)であろうがなんという読み方ができるのか。訓点も註も詩句ごとの改行もない漢詩集である。「麦酒をのみ、蕎麦をくひ乍ら」読んでいる!

2013年3月22日 (金)

石川啄木伝 東京編 90

 9月21日。万朝報に投稿した懸賞小説「芽出度落選!」。貞子から転居の知らせ。「遠からず女中に出るといふ!」 
 小説が書けないからいろいろなことをやって気を紛らしている。「国民新聞の徳富氏へ履歴書を書いて送つてやつた。無論駄目とは思ふけれど」 自分で結果まで書いている。源氏物語は第7帖目の紅葉賀まで来た。
 23日の日記。
 せつ子から長い手紙。家族会議の結果、先づ一人京子をつれて上京しようかと思つたが、郁雨君にとめられたといふ。冷汗が流れた.三畳半に来られてどうなるものか。噫。大谷女学校に教師の口、当分出ようかといふ。
 真山青果の読売新聞連載小説「死態」にえらく感心して「日本文壇近き将来の第一人は、夫れ真山青果か!」と記す。
 同じ23日後藤宙外に手紙を書き原稿料の催促。「遂に自ら処決するの勇もなく」だの「ご返事次第にて、実は何とかせねばならぬ訳」だの読みようによっては穏やかならぬ文面を含む。
 同じ日菅原芳子宛に手紙を書き、末尾近くに「お写真待上候」と書き加える。
 25日は源氏物語を蓬生から少女まで7帖も読み進める。どれだけ読めているかは推し測れないが、唐詩のようにはいかないだろう。

2013年3月20日 (水)

石川啄木伝 東京編 89

 ともあれ、この時以後啄木は鷗外に対して微妙な疎隔の念を抱くようになった。
 9月20日「空中書(三)」を書く。見てみよう。近時清国論である。
  之を表面より看れば、清国は二十世紀の原頭に横臥せる旧文明の残骸なり。……老耄年久しうして容易に起つ能はざるものゝ如く、徒らに列国耽視の場たるの観なきにあらず。
これは当時の日本と帝国主義列強の中国観をそのままに伝えている。
  雖然、少しく其内情を探査するに及んでは、かの膨大なる国土に鬱積せる潜勢力の偉且つ雄なる、何人か瞠目して而して驚嘆せざらむ。惟ふに、世界に二大伏魔殿あり。一は即ちザールの天下にして、他は即ち愛親覚羅氏の国。

 啄木は言う。凄い潜在力をもつ国が二つある。一つは「ザール」すなわちツァーリ(皇帝)のロシア、もう一つは愛親覚羅(清朝帝室の姓)氏の国すなわち外でもない清国。
 両国ともに国民の潜勢力が未知数である。ロシアに虚無党あり、清国に哥老会あり。
そして「ザールの社稷恐くは鮮血渦中に没し去ること無からむか」と記す。これから9年後の1917年にロシア十月革命、1年後の18年7月にはニコライ二世とその家族銃殺。予言があたった。
 日本と清国についてはこう予言する。文中の「李杜」は李白と杜甫。
 人よく今の日本を以て古希臘に比す。其説必ずしも所依なきにあらず。然らば乃ち、古羅馬の大業は之を志那の将来に待たむ乎。世界第二十一世紀の劈頭に大呼するもの、夫れ李杜二聖を出せるの民乎。
 この中国に関する予言は100年後にどうなったか。21世紀に隣国を見ているわれわれは驚嘆するほかない。大予言である。

2013年3月18日 (月)

石川啄木伝 東京編 88

 それにしてもよほど腹が立ったのだろうか。鷗外の目にとまる心配のない岩手日報に憤懣をもらしたのだろう。
 啄木の方にも理がないわけではない。
 陸軍は日清戦争で4万1千余の脚気患者と4千余の同病死者を出し、日露戦争で25万余の脚気患者と2万8千にのぼる脚気による死者を出した。ちなみに日露戦争中の海軍の脚気患者は87名、同病死者は3名である。また日露戦争の戦死者は4万6千4百余名という。   戦闘ではなく脚気によってむざむざ死んだ人の数「2万8千」は「脚気惨禍とも称すべき状況であった」。この惨禍の原因は白米6合を中心とした「陸軍兵食論」にあるが、これに「重大な関与と責任」を負うのが森林太郎であった。
 この面から見る森鷗外は「科学的観察」をあまりに軽んじており、「大理を学」んだ者の言動とはかけ離れている。  
 しかも啄木を怒らせた発言は日露戦争後間もない1908年のものである。これが空疎に聞こえた啄木の耳もまた端倪すべからず。  

2013年3月16日 (土)

石川啄木伝 東京編 87

 清田の結論は「鷗外が青年を『空中書』のように批判したことは十分考えられる」ということであった。
 そして「死を求むる者は死に就かしめよ。彼仮令生くると雖も、また社会にありて何の用をかなさむ。」という啄木を怒らせた鷗外の言についてはこう分析する。「鷗外が敬し、親愛の情を深く抱いて、そのMaxから孫真章の命名の来由となった人物」マックス・フォン・ペッテンコーファーの人生態度が根底にあるのであろう、と。
 啄木の言い分に即してみるとしよう。啄木はやたらと自殺を考える男である。最初の上京時大館ミツ方を追い出された時期の自殺衝動、これは理解できる。しかし、節子と婚約した直後、北海道へ落ちてゆくとき、そして今年の六月末から七月末にかけての「死ぬ、死ぬ」は狂言に近い。
 「空中書(二)」を書いたのは9月18日。この日から数えて「頃日(=近頃)」の観潮楼歌会は7月4日か9月5日である。集まったメンバーなどから推すと7月4日の方であろうか。それなら「死ぬことを/持薬をのむがごとくにも」思っていたちょうどその時期である。鷗外のちょっと過激な言に啄木が過敏に反応することは大いにあり得たのである。

2013年3月14日 (木)

石川啄木伝 東京編 86

 

頃日某処に博士某と会す。某は博覧達識自ら当代の哲人を以て任じ、人また一世の学匠を以て許す。
 座に大学の少年数輩あり。話頭偶
(たまた)ま時代思潮の惑乱に及び、博士意気軒昂、漫に青年の浮佻を罵る。一生あり、眉を挙げて曰く。『然れども、若しここに人あり、人生々存の価値を否定して自ら死を求とせよ。誰かよく彼に説いて其最後の断案を棄却せしむるものぞ。』と。
 博士怒を包んで冷笑して曰く、『死を求むる者は死に就かしめよ。彼仮令生くると雖も、また社会にありて何の用をかなさむ。』
 僕心に博士某を愍むの情に不堪。語るに一医生の事を以てす。某沸然色を作
(な)して曰く『已んぬるかな、当代少年の薄志弱行にして大理を学ぶに適せざる事。歴史的感覚と、科学的観察と、哲学的見識と、この三つを欠くが故に彼等遂に済ふべからざるなり。』
 烏有先生足下。人智の小を以て人生宇宙の大を窮めむとするは哀れむべし。若し夫
(それ)径三寸の脳中已に至高の大理を収め得たりとなし、然も人生の活機に面相接して痛切に畏懼する少年を一人だに済ふ能はざる博士に至つては、其無邪気寧ろ愛すべからずや。嗚呼、歴史的感覚乎。科学的観察乎。哲学的見識乎。『人生の事、知るべからず。味ふべき而己(のみ)。』好い哉言や。
 この「博士某」は森鷗外ではないか、と言ったのは斎藤三郎である 。その後60年近く経って清田文武がはじめて斎藤の推測を委曲を尽くして考察した 。

2013年3月12日 (火)

石川啄木伝 東京編 85

 9月16日突然思い立って万朝報の懸賞小説に応募すべく「樹下の屍」というのを書き始める。並木が遊びに来たので、話をしながら書きあげてしまい、並木が帰る時に投函を依頼する。もう投げやりである。
 9月17日、5月から岩手日報客員となっている新渡戸仙岳に宛てて通信文「空中書」を書くことを思いつく。署名洛陽一布衣で(一)を書いたのはこの17日、(二)は18日、(三)は20日の執筆である。それらが岩手日報に載るのはそれぞれ10月の13日14日16日であるが、執筆時の啄木の心事を知るためにここで(二)と(三)を見ておこう。
 (二)に署名がないのは洛陽一布衣が前提なのであろう。宛先は烏有先生(=実際にはいない仮の人物の名。実は新渡戸仙岳)。1面トップの記事である。
 冒頭と第2段落は大要次のようである。
 僕(記者すなわち洛陽一布衣)は昔烏有先生と談じたことがあった。先生は最後にこう言われた。『人生の事、知るべからず。味ふべき而己(のみ)。』と。
 僕は「一医生」を知っている。東大卒業直前に突然退学し、鎌倉の禅房に籠もって座禅をはじめた。その理由は、医学が非常に発達したと言っても、その医学は風邪の原因も分からず、必ず治せる病気は万病のうちの二、三に過ぎぬ。『此浅薄な智識を以て人間の生死を司ると謂ふ。』どうしてそんなことをやっていられよう。そこで「哲理」の本を読んだが、その「古今の学者」は「現今の医家の類のみ」。自分を救えないのに人を救おうとするのは、間違っている。だからこの禅房で『自己一人の事をなさむとする也』。これが彼の理屈である。僕は了解し『好し。』と言った。

2013年3月10日 (日)

石川啄木伝 東京編 84

 詩に託するものがこれだけとは。詩人啄木を根底で支えていた天才主義喪失のあとの思想はこれほどにも貧弱なのだ。今は詩が主戦場ではないからそれはそれでいいとして、作家としての根底が無いとあってはそうは行かない。詩人啄木が詩の分野でさえ根底を欠いているとすれば、素人である小説の分野で根底のあろうはずがない。その致命的欠陥の結果はすでに見たところである。
 しかし短歌だけはいつでもどこでも、面倒な手続きなしにできてしまう啄木である。次の一首もおそらくこの日の作である。
 故郷の空遠みかも高き屋に一人のぼりて愁ひて下る
 小説が書けない啄木は平野万里の歌会に出たり(そこで悪戯をしたり)、歌を作ったり、整理して明星に送ったり、送られてくるようになった岩手日報をめぐる思い出話を書きつづったりして、日々を消化する。

2013年3月 8日 (金)

石川啄木伝 東京編 83

 啄木は白秋の返答に対してこう記す。
 無論これらも、強き刺戟を欲する近代人の特性を、一方面に発揮したものに相違ないが、我々の”詩”に対して有する希望はここにないのだ。
   ……
 人が大人になる、すると、今迄興味を有つて来た事の大半に、興味を失つてくる。そこで更に新らしい強い刺戟を欲する。ト共に、何か知ら再び小児の時代の単純な自然な心持に帰つて見たくなる。これらの二つの希望のうち、どれが詩的かと云へば、無論小供の時代に帰りたいといふ方が詩的だ。……
  予が北原の詩のうちで、所謂邪宗門流のものをとらずして(極言すれば邪路に迷へるものとして、)却つて同君があまり力を注がぬらしき”心の花”の”断章”などを、現下詩壇の一品とする所以だ。乃ち、我々は我々の情的希望のうち、詩的な方面を詩によつて充たさむとする。道理ぢやなからうか。

 こうして啄木は白秋の『邪宗門』(一九〇九年三月刊)にまとめられてゆく官能的耽美派的傾向を批判し拒否する。 

2013年3月 6日 (水)

石川啄木伝 東京編 82

 さて、「吊橋(つりばし)が匂つたり」は「中央公論」08年9月号に載った白秋「新詩六篇」中の1編「吊橋のにほひ」による。最終連を引いてみよう。
  真白なる真夏の真昼
  汗
(した)るしとどの熱に薄曇り、
  暈
(くら)みて歎く吊のにほひ目当にたぎち来
  小
(こ)蒸気の灰き唸や、
  日は光り、烟
うづまく。
 「硝子が泣いたりする」は「中央公論」08年7月号に載った白秋「幽湍外拾篇」中の1編「幽閉」によるらしい。「泣いたりする」のは「硝子」ではなく、「ぐらすの戸」で密閉された室内の「のあかり」である。最初の連を引こう。
  るぐらすの戸もて
  封
じたる、白日(まひるび)の日のさすひと間
  そのなかに蝋
のあかりのすすりなき。
 これに対する白秋の答えが振るっている。「皆三角形の一鋭角の悲嘆より来るものにて」とは、山本健吉によるとこういうことである。
  白秋が「皆三角形の一鋭角の悲嘆」というのは、彼が『神曲』地獄界に倣って書いた、
  
    ここ過ぎて曲
(メロデア)の悩みのむれに、
    ここ過ぎて官能の愉楽のそのに、
    ここ過ぎて神経のにがき魔睡に。 
                          (邪宗門扉銘)
 の序詞のいう「曲節」「官能」「神経」の謂であろう。

2013年3月 4日 (月)

石川啄木伝 東京編 81

 こんな記述もある。
 今夜より、毎夜枕につきて後源氏物語をよむこととせり。
 晶子の勧めに依るのだろうか。どんなテキストの源氏物語なのか不明であるが、鷗外さえもてあまし、漱石はついにきちんとは読めなかったらしい源氏物語である 。啄木は源氏物語を読めるであろうか。
 9月10日
  古今集を読み終へた。悪技巧に囚へられた歌が多くて、呀と思ふ様なのが少い。よいと思ふのは、大てい万葉古今の過渡時代の作だ。
  北原からハガキ、転居の通知旁々やつた予のハガキに対する返事だ。吊橋が匂つたり、硝子が泣いたりするのは、君一人の秘曲だから我々には解らぬと云つてやつたのを、それは”皆三角形の一鋭角の悲嘆より来るものにて、さほど秘曲にても候はず、ただ印象と、官能のすすり泣きをきけばいいでは御座らぬか。…………この時僕の脳髄は毒茸色を呈し、螺旋状の旋律にうつる。月琴の音が鑲工の壁となり、胡弓が煤けた万国地図の色となる。”と書いて来た。

 源氏・万葉・古今などは釧路にいては縁が無かったであろう。上京は無謀であったが、森鷗外・与謝野夫妻他白秋・勇らにいたるまで一流の文学者との交流はなおのこと、貴重である。

2013年3月 2日 (土)

石川啄木伝 東京編 80

 9月8日金田一の部屋を出て、自分の部屋にいよいよ移る。
 九番の室に移る。珍な間取の三畳半、称して三階の穴といふ。眼下一望の甍の谷を隔てて、杳かに小石川の高台に相対してゐる。左手に砲兵工廠の大煙突が三本、断間なく吐く黒煙が怎やら勇ましい。晴れた日には富士が真向に見えると女中が語つた。西に向いてるのだ。
 「珍な間取」と言い「穴」と言う。金田一のおかげで住みかを確保できて感謝するよりも、金田一の部屋に比べてこの部屋が不満なのだろう。幼いときからいつでも自分に最上のものが与えられた啄木はまだ、特定の時と場所にある自分の位置というものがわかっていない。まだ本能レベルで自分はエリートつまり「天才」なのだ。
 とはいえこの部屋は間もなく創刊される文芸雑誌「スバル」の編集室となる。またこの部屋の窓からの景色は歌になり、数十年後の大気汚染の予言を引き出しもする。まことに啄木端倪すべからず。

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