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2013年4月

2013年4月30日 (火)

石川啄木伝 東京編 108

 11月10日 夕方、栗原から原稿料を形に四円借りた。
  八時半頃に遂々出かけた。寒さに肌が粟立つ夜であつた。浅草にも遊び人が少なかつた。苑中は不景気、従つて随分乱暴に袖をひく。
  Kiyoko は金の入歯をした、笑くぼのある女であつた。Masako は風邪気だと言つて、即効紙を額にはつてゐた。――
 妙に肌寒い心地で十二時に帰つた。
   モウ行かぬ。

 Masakoは気に入った女性であったらしい。これで2度目のようだ。翌年1月19日・20日の日記で、さらにローマ字日記で、われわれはこの頃のMasakoにたびたび出会うことになる。
 11月13日の日記。きつい吉井批判が綴られる。
 何の事はなく、予は近頃吉井が憐れでならぬ。それは吉井現在の欠点――何の思想も確信もなく、漫然たる自惚と空想とだけあつて、そして時々現実暴露の痛手が疼く――それを自分自身に偽らうとして、所謂口先の思想を出鱈目に言つて快をとる。――それが嘗て自分にもあつたからであるからかも知れぬ。又、比較的自分が話して快い太田君などを得たからかも知れぬ。
 啄木が吉井の中に認めていると思い、記していることは、今の啄木そのものと言える。吉井が鏡になって、そこに自分が映るのが不快なのだろう。

2013年4月28日 (日)

石川啄木伝 東京編 107

 11月2日以後7日以前の日記を詮索すると、千束町に行ける日は11月6日しかない。11月1日に入手した5円の内、1日の買い物に遣った金と、塔下苑で遣った「七十銭」と掏られた「四十銭五厘」の残りがあったのであろう。それを掴んで千束町でMasako. を買い、さらにMine.を買ったのであろう。
 6日、日記を書き終えてから浅草に向かったと見える。帰ってからその記入を躊躇したのかも知れない。しかし翌日「こころの竹」のことを書いていて、記入する気になったのではないか。ともかく6日に千束町で買春の「はしご」をしたのは確かである。
 11月8日、並木が遊びに来た。「話をしながら」「鳥影」の「(三)の一を書いて送つた。並木君は”心の竹”を読んで、大分そゝられていた。」
 並木は四時半にいったん帰宅して、ふたたびやってきた。
 七時頃に並木君と二人、活動写真を見てゐた。そこから出て散歩(?)した。一人帰つたのは十二時過る五分。
 並木君は、”I don’t like to make the second page.”と言つた。予は然し信じなかつた。

 並木はともかく、啄木は塔下苑でまたしても「はしご」をしたらしい。金は並木に借りたのであろう。なにしろ月末には原稿料が入る!

2013年4月26日 (金)

石川啄木伝 東京編 106

 さて、原稿用紙が買えないというのだから、「与謝野氏から貰つて来た五円」(日記11月1日、既出)は7日の朝にはもうほとんど無いことになる。そしてこの日の日記は末尾につぎのような謎めいた記述がある。
  吉井君が来てゐる時、貸本屋が来たので、何気なしに徳川時代の木版本”こころの竹”三冊をかりた。著者の名は女好庵主人とあるが、春水の別号なさうで、それはそれは驚くべきほど情事を露骨にかいたものであつた。
  Hitachiya, Masako. ―― Tatsumiya, Mine. 856.  Senzoku-cho 2 chome.

 ローマ字表記の人名は1日の記述とおなじく買春の相手であろう。マサコとミネ。ヒタチヤとタツミヤは屋号であろう。千束町2丁目は分かるが、856.は分からない。番地であろうがこんな大きな数字の番地はない。356.ならある。
 難しいのはこの買春はいつのことか、である。日記が書かれた7日でないことは確かである。なぜなら、この日は平野宅から帰って、赤痢のことを教えてくれた増田のところで話し込み、昼食後は吉井が来て、夕方吉井と一緒に観潮楼歌会に出席。散会は10時少し前であった。なによりも先立つものがない。朝原稿用紙を買う金も無かったのである。

2013年4月24日 (水)

石川啄木伝 東京編 105

 11月4日「終日執筆。(二)の四、五の両回完成」。
 11月5日。
 貸本の秋声作”多数者”を読了して、虚子作”鶏頭”をよんでると、六時頃、珍しくも太田正雄君がやつて来た。九時半まで快談――然り、快談した。予は恐らく此人と親しくなることであらう。
 太田正雄(木下杢太郎)との急接近である。
11月6日。
 あはれ、前後九年の間、詩壇の重鎮として、そして予自身その戦士の一人として、与謝野氏が社会と戦つた明星は、遂に今日を以て終刊号を出した。巻頭の謝辞には涙が籠つてゐる。
11月7日。
 朝早く起きたが原稿紙が足らないので、九時に平野君へ行つて一円借りた。今起きたと言つて、まだ食事もせずにゐた。そしてパンを食ひ乍ら話した。昨夜口語詩を罵倒する一文を書いたと言つてゐた。
 杢太郎との親交、万里の口語詩罵倒などは、間もなく始まる耽美派の文学運動および啄木のそれとの接近と別離に微妙なかかわりを持つことになる。

2013年4月20日 (土)

石川啄木伝 東京編 104

 …………歩いて帰らねばならぬかと思つた時、予は異様な沈着した悲みと決心を覚えて、足が軽くなつた。然し田原町へ来て電車を見ると、歩くのが急につまらなくなつて、辻俥に乗つて帰つて、宿に払はした。
 人力車夫は人を乗せて赤心館まで歩くのだ。若い啄木は健脚なのだから自分の足で歩いて帰ればいいのである。そうしなかったどころか、俥賃を「宿に払はした」!
 「白鳥君の”何処へ”」ではないが、啄木はどこへ向かっているのか。
 今日は「鳥影」連載の初日である。よりによってその日に買春。実は「鳥影」(二)の三が書けないのだ。
 11月2日。
 終日ペンを執つて、(二)の三を書改めた。そして遂に満足することが出来なかつた。全編の順序を詳しく立てて見ようとした。遂に纏まらなかつた。夜の九時頃には、後脳が痛んで来て、頸窩の筋が張つた。
   ……
 この日の苦悶は、予をして何故に小説を書くかを疑はしめた!

 5ヶ月後にはじまる「ローマ字日記」の苦悶そのものである。字が漢字・仮名かローマ字かの違いがあるだけだ。もう一つ違いがあるとすれば、家族の上京が差し迫っていない(節子が就職してくれた)ことである。しかしこの一時逃れの付けは、啄木の一生でもっともつらい払いを要求することになるであろう。この日は島崎藤村の「春」を読んでいる。

2013年4月18日 (木)

石川啄木伝 東京編 103

 映画館のあと「池の横へ行」ったとはそれだけ塔下苑に近づいたということである 。
 足はいつしか塔下苑に進んだ。…………O-Mitsu-san!…………妙な気持であるいてゐると一人の男が後から来て突当つた。後で気がついたが、此時予は、七十銭を引いて四十銭五厘と実印と入つてゐた財布をすられたのだ。此夜の出来事は、”鳥影”が新聞に出初めたと共に、予にとつて生れて初めての経験であつた。…………
 金を握る→浅草に向かう→映画館に入る→塔下苑に行って女を買う。「ローマ字日記」の終わり頃(09年6月初め)までの7ヶ月間の定番である。
 もっとも「金を握る」の前に「小説が書けない」が入るのだが。
 長い「…………」は女性を買ったことの表現であろう。「O-Mitsu-san」に「!」が付いているのは生まれて初めて買った女性の名であること、その名が妹「みつ(子)」と同じであったことによるのだろう。二つ目の「…………」は不思議な暗合も含めた「妙な気持」の表現と思われる。
 俊敏の権化のような啄木もこの夜はよほどスリに狙われやすい顔をして歩いていたらしい。

2013年4月16日 (火)

石川啄木伝 東京編 102

 11月1日。この日「鳥影」の連載が始まった。女中が新聞を部屋に入れて行くと、「ハツと目がさめ」る。一葉はスクラップ。一葉は妻へ、一葉は節子の母と妹たちへ送る。日記は続く。
  起きて、また新聞を見乍ら飯を食つた。そして、昨夜与謝野氏から貰つて来た五円を持つて出かけて、足袋や紙や共に、大形の厚い座布団を二枚買つて来た。今迄夏物のうすくなつたのを布いてゐたつたのだ!
 貸本屋から白鳥君の”何処へ”。
 金が無ければ「夏物」を敷いていてもよさそうなものだが、それは啄木にとっては「!」つきのガマンだったのである。どう考えても貧乏育ちの感覚ではない。
 夜、なんといふこともなく心がさびしくて、人の多勢ゐる所へ行きたくなつた。そし て八時頃にふらりと出かけて、四丁目から電車で浅草に行つた。電車の中に、目と鼻が、節子に似た女がゐた。
 日曜だから非常な人出であつた。予は先づ、富士館といふへ入つて、息苦しい程人いきれのする中で活動写真を見た。そこを出て、見世物小屋の前を池の横へ行くと、十四位の美しい衣服をきた半玉が、四辺を恥かし気に見廻し乍ら、十許りの見すぼらしい装をした(妹?)に煮た豆を買つてくれてゐた。予は、一葉の或小説を読んだ時の様な、言ひ難い哀愁の楽みを覚えて、其の二人の後姿を人なだれの中から見た。……

2013年4月14日 (日)

石川啄木伝 東京編 101

 27日の日記で吉井批判が始まる。
 10月28日「一時頃主婦を呼んで下宿料を待つて貰ふ談判、うまく成功」。「呼んで」の3文字が嫌みである。滞納している下宿料の延滞交渉である。どうして自分の方から交渉に行かないのか。
 30日「朝飯を七時に済まして、戸塚村に小栗風葉氏を訪ねたが、運悪く不在」。これほど風葉にこだわるのは、今の啄木が目指している小説が他の誰よりも風葉のスタイルであるからだろう。(自己を直視しないで売れる小説を書く法。今一番売れる小説を書いている。)
 31日「約の如く夜雨を犯して千駄ヶ谷にゆき、五円貰つた」。下宿代は当面払わなくていい。そうなると遣いたくて居ても立ってもいられなくなるのが啄木だ。
 この月は18日の「独歩第二集」以後もたくさん小説を読んでいる。貸本屋という新兵器が登場したお蔭であろう。小説執筆の参考にするのだろう。
 20日秋声「凋落」独歩「濤声」、22日風葉「天才」、24日小杉天外「コブシ」上、トルストイの短編、26日「コブシ」中・下、31日ツルゲーネフ(二葉亭四迷訳)「浮草」。この外ダヌンチオの「the Victim」も栗原から借りて読んだようだ。

2013年4月12日 (金)

石川啄木伝 東京編 100

 10月26日。
 今日はよい日であつた。午前に栗原君から葉書。”鳥影”を島田社長と合議の上貰ふことに確定したと言つて来た。
 どんなにうれしかったか、日記よりも手紙、それも栗原への礼状によく表れている。
 只今御葉書拝受、御高情誠に忝けなく、驚喜仕候。恁うなれば小生も怎やら生甲斐がある様な気致し、一生懸命やるべく候間何卒向後よろしく御願ひ申上候。続稿すぐ着手可仕候。登載の日より何卒新聞は恵与の程願上候。
 「驚喜仕候」は本当の気持ちであろう。この文面のあと哀れっぽく理由を述べながら、原稿料の前借りを願い出ている。どうしてこうも甘いのだろう。もちろん東京毎日は受け入れない。
 清岡等、新渡戸仙岳、桜庭ちか子、宮崎郁雨・岩崎正、妻節子にもさっそく葉書で報告している。
 栗原には「続稿すぐ着手可仕候」と言いながら、夜になると吉井と一緒に浅草へ。
 ロンドン大火のキネオラマは面白かつた。それから例の提灯の小路を歩いたが、吉井君のお蔭で知らなかつた辺まで見た。
 浅草→映画館街→塔下苑→買春というお定まりコースの始まりである。この日は金がないから、買春はしない。

2013年4月10日 (水)

石川啄木伝 東京編 99

 14日
 夜、久振で金矢光一君が来た。実は少しハツとした。それは外ではない。今書いてい   
 る”鳥影”は、この金谷君の家をモデルにしてあるからだ。最
(ママ)も、人物はその儘とつたのではなく、事件も空想だが…………七郎君と、光一君の母だけは、然し大分その儘書かれる。
 翌日「十二番の室にゐる医科卒業生増田といふに刺を通じて、二時間許りも赤痢病に関して訊ねた。」とある。
 おそらく和製インサーロフの吉野満(みつ)太郎を赤痢にするための取材だと思われる。実際には智恵子を赤痢にするのだが。そしてまた、赤痢を調べたことが、「スバル」創刊号の小説「赤痢」の執筆にも通じてゆく。
 16日小栗風葉の「恋ざめ」を貸本屋に借りて読みひどく感心。「実にうまいものだ。今の所か程の文章家はあるまい」とまで書く。
 18日「貸本屋が来たので、”独歩集第二”をかりて読む。うまい!」
 19日並木武雄と一緒に文部省の美術展を観に上野へ行く。和田三造の「煒燻」と荻原守衛の「文覚」に感動している。啄木の絵や彫刻を観る目の卓越性を示している。

2013年4月 8日 (月)

石川啄木伝 東京編 98

 この小説の構想には「ツルゲーネフの『その前夜』などからの示唆が多分にあったことと思われる」という窪川鶴次郎の指摘がある 。実際は「示唆が多分にあった」などというものではなく、啄木は『その前夜』の骨組みをそっくり借りようとしたのである。
 『その前夜』ではインサーロフのニコライ邸訪問によってかれとエレーナの恋愛が、つまり小説の本筋が始まるわけであるが、この小説でも主人公吉野満太郎の小川家来訪によって、かれと智恵子の恋愛がつまり本筋が始まるのである。
 したがって13日の日記で題を「鳥影」と決定したことの意味は大きい。(五)の二によると、障子に鳥の影が映ると、来客があるとの俗信が、渋民辺にはあったらしい。したがってこの決定は小説の主要人物の来訪・登場が暗示された題であろうとの推測が成り立つ。
 つまり日記に、題を「”鳥影”とすることにした」とあるのは、この小説の骨組みを『その前夜』に求めたことの表現であったのだ。
 そうなると「全体の趣向もずつと変へ、複雑にし、深くして、そして稿を改めることにした」ことも、『その前夜』の模倣が念頭にあってのことであろう。
 9日に突然バルカン半島の動向に反応した啄木であったが、13日の『その前夜』模倣の着想との間に意識のつながりがあったのかもしれない。インサーロフとエレーナは風雲急を告げるバルカン半島のブルガリアに行こうとしていたのであり、病気のインサーロフはベニスで客死するがエレ-ナは夫の意志を継いでブルガリアに向かうのであるから。したがってバルカン半島→『その前夜』という連想はあり得るのである。

2013年4月 6日 (土)

石川啄木伝 東京編 97

 10日、節子から函館の宝小学校に務めてもよいかと問うてきた。京子は光子に預け、自分は代用教員になって生活費を得ようというのである。「噫!同意の旨を返事した。」
 夕方から千駄ヶ谷の新詩社で徹夜の歌会。
 翌日新詩社に栗原元吉(古城)が来て、東京毎日新聞への連載小説執筆を啄木に勧めてくれた。「五六回分を二三日中に」書いて、栗原に届けることになった。この話「八分通りまでは成功しさうだといふ。」
 日記の調子から見ると、啄木この話に浮かれたという様子はない。自信のないせいかと思われる。徹夜の頭で吉井、平野と一緒にまた鈴本へ娘義太夫を聴きに。そこには木下杢太郎も来ていた。
 13日になって大阪新報に連載50回ばかりを書くと張り切っていて、あえなくぽしゃったままの原稿「静子の恋」を取り出す。読み直すと
 我ながら面白くない。誇張してゐる。幼稚である。全体の趣向もずつと変へ、複雑にし、深くして、そして稿を改めることにした。サ、さうすると、適当な題がない。昨夜一晩で、”鳥の骸”としておいたが、それも面白くない。色々悩んだ末に、”鳥影”とすることにした。

2013年4月 4日 (木)

石川啄木伝 東京編 96

 10月7日。「青地君」を7枚書いた。吉井が太田正雄(以後木下杢太郎で統一する)を連れて来た。この日から4月4日まで杢太郎との密接な親交がはじまる。
 8日、「青地君」を17枚目まで書いた。5月に書いて行き詰まった「菊池君」の焼き直しである。ただ小説が青地君の「轢死」で始まっている点は新しい。これは日露戦後文学のテーマでもあるし、1年後の詩「夏の街の恐怖」にも流れて行くテーマである 。
 10月9日「青地君」を24枚まで書いて中断。「菊池君」が書けなかった啄木に「青地君」が書ける条件は何ら加わっていない。当然の結果だ。
 9日、新聞を読んでバルカン半島の動向に注目している。ここは6年後に第一次世界大戦の発火点となる。そういう場所に特別の関心を示す啄木の頭脳は高性能のレーダーのようである。
 しかしこの能力を発揮するような小説は書けない。なぜならこういう能力が全く働かないのが自然主義なのだから。小栗風葉はその極みのような人で、その人の小説を見習おうとしている啄木なのである。
 夕方平野とふたりで上野広小路の鈴本亭に娘義太夫を聴きに行く。

2013年4月 2日 (火)

石川啄木伝 東京編 95

 夜になって、この日届いた明星を読む。第9号で10月号(10月5日刊)である。この号に啄木の歌「虚白集」102首も載る。佳作が群れている。いくつか引いておこう。
  皎として玉を欺く少人も秋来といへば物をしぞ思ふ
  そを読めば愁知るといふ書焚ける古人の心よろしも
  さらさらと雨落ち来り庭の面の濡れゆくを見て涙わすれぬ
  秋立つは水にかも似る洗はれて思ひことごと新らしくなる
  二十三ああわが来しは砂原か印しし足の跡かたもなし
  今日のみの春の日低しすこしだに早くな撞きそ寺寺の鐘
  かりそめに忘れても見まし石甃春生ふる草に埋るるがごと
  かなしきは秋風ぞかし稀にのみ湧きし涙の繁に流るる
  月かげとわが悲みとあめつちに遍き秋の夜となりにけり
  秋風は寝つつか聞かむ青に透くかなしみの珠を枕にはして
  父のごと秋は厳し母のごと秋はなつかし家持たぬ子に

 これらは兼題または結び字による題詠である。「虚白集」は『一握の砂』「秋風のこころよさに」の母胎となる。

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