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2013年5月16日 (木)

石川啄木伝 東京編 116

 これだけ自己の暴露、自己の解剖ができるなら、自然主義的な作品を書くことは可能であろうが、そうは問屋が卸さない。過去のことだから小説にここまで書けるのである。現在の自分のことになると、もう書けないこと「病院の窓」ですでに見た。自分と貞子のことは書かないで、他人事として「霊肉の争ひ」を書いたのだった。今も浅草に通う自分のことなど小説にできはしない。七月七日岩崎宛手紙で見たように、正宗白鳥なら「箱崎町へ淫売を買ひに」行ってそれを小説「世間並」に書いてしまう。
 自己の真実(性欲も含めて)の直視は、自然主義のもっとも偉大な文学的実践の一つであった。これが出来なければすぐれた自然主義作家にはなれない。まして自然主義を超える作家(たとえば漱石や鷗外のような)になることなど論外である。
 かくてこの日もまた無内容な「鳥影」(四)の六を書く。真夏の7月に地主の家に大の大人が男女14人も集まって歌留多大会である。作者に書くことがなくて、マス目を埋めるための場面でしかない。「連想」を書けた能力に出番は無い。

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