« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »

2013年5月

2013年5月30日 (木)

石川啄木伝 東京編 123

 本郷三丁目まで約1キロ。そこから上野駅前の電車乗り場「ステーシヨン前」まで約1.4キロ。二人手を取り合っての散歩だから、計2.4キロに40分、電車の待ち合わせと浅草(おそらく田原町)まで(約1.6キロ)の乗車時間合わせて15分。以上で約55分ないし1時間。
 ソバ屋に上がったのは8時半ころであろう。
 二本の銚子に予はスツカリ――釧路を去つて以来初めての位――酔つた。九時半、そこを出て、再び手をとり会つて十町許りもあるいた。
  予の心は陶とした!
  唯、陶とした!
  上野から電車、宿まで送つてまた電車で帰つた。羽織の紐の鐶を一つ残した程酔つた。別れる時キツスした。

  ……
  金田一君の室に行つて二十分許り、心のままを語つた!
  ああ、何といふ日であらう!!!

 9時半までの1時間、ソバを食べ銚子2本を飲んだだけの1時間であろうか。5つの「!」は、それだけからでは解せられない。

2013年5月28日 (火)

石川啄木伝 東京編 122

 

釧路の変動をきいた。小奴は、予が立つて以来、ウント暴れたといふ。日景が予の悪口をいひ、毎日の様に小奴のことを新聞に出したといふ。…… 
 
2人の動きを追うために時間を推測しながら読んで行こう。啄木はひとしきり釧路の話を聞くと、小奴を散歩に連れだした。ソバを食べおしゃべりするだけなら、本郷に行きつけのソバ屋がある。上野にももちろんソバ屋はある。しかし啄木は小奴を浅草に誘う。魚心水心の二人は蓋平館で長話する気はなかったであろう。せいぜい30分くらいしてつまり7時頃、下宿を出たと思われる。
 散歩しようと言つて二人出た。本郷通りで予が莨を買つてる間に一寸見えなくなつた。”狐だ!”と予は実際思つた。二十間許り彼方に待つてゐた。
 それから三丁目から上野まで、不忍池の畔を手をとつて歩いた。ステーシヨン前から電車、浅草に行つてソバ屋に上つた。

2013年5月26日 (日)

石川啄木伝 東京編 121

 

六時半頃のことだ。女中が来て、日本橋から使が来たといふ。誰かと思つて行つて見ると、俥夫が門口に立つてゐる。誰からと聞くと、一寸外へ出てくれといふ。
  “釧路から来たものだと言つてくれ。”
といふ女声が聞こえた。ツイと出ると、驚いた、驚いた、実に驚いた。黒綾のコートを着た小奴が立つてゐるではないか!
  “ヤア!”
 と言つたきり、暫くは二の句をつげなかつた。俥を返して入つた。
 或る客につれられて来たので日本橋二丁目の蓬莱屋に泊つてるといふ。予は唯意外の事にサツパリ解らなかつた。

2013年5月24日 (金)

石川啄木伝 東京編 120

 小奴は啄木が釧路を去って以後、気持ちが相当荒れたらしく 、釧路新聞に日景によって書き立てられたらしい。今は大阪炭山鉱業所(釧路)の石炭担当重役逸身豊之輔 の愛人として逸身に連れ添って上京したのである。逸身には釧路に妻と一男二女がいた。経営は順調で羽振りもいいらしい。
 啄木は上京後7ヶ月間にすっかり道念は融けてしまい、植木貞子と関係を持っただけでなく、塔下苑の女たち数人を買っている。菅原芳子にも手を出したくてラブレターを綿々と綴り、さらに平山「良子」にも引っかかった。
 そんな小奴とそんな啄木が今出会おうとしている。「卓上一枝」(三)で見たように、啄木と小奴は、在釧当時から魚心水心の間柄であった。

2013年5月22日 (水)

石川啄木伝 東京編 119

 平山良子は男である。平山良太郎という。菅原芳子らと臼杵で小さな文学サークルを作っている。芳子から啄木の”女好き”を聞いていたのであろう。手紙に添えて京都・祇園の名妓の写真を同封した。「仲々の美人だ!」 マンマと引っかかった。
 「上京以来初めての収入」30円を受け取った。栗原に借りた5円は返さなかったので、6、7円残ったのであろうか。「女中共へ」の2円を節子に送っていたら、喜んだであろうに。天宗でのテンプラと酒は啄木のおごりであろう。
 12月になった。なんと小奴が蓋平館を訪ねてきた。
 10月26日の日記によると、小奴から絵(写真)ハガキが来ている。上京の予定が決まっていたのであろう。「その後の御様子お知らせ下され度願上候」と。31日啄木は「床の上で釧路の坪仁子へ別れてから初めての手紙書いた」。
 そして12月1日である。

2013年5月20日 (月)

石川啄木伝 東京編 118

 そして、生活のため中学の絵の教師になり才能を埋もれさせて行く盛岡の友のことを「平凡の悲劇」だと言い、「家庭の事情なんて事がてんでよくない。生活問題は誰にしろ有るさ。然し芸術上の才能はそうはゆかない。そいつが君、戦ってもみないで初めツから生活に降参するなンて、意気地が無いやね」と言うような男である(〈七〉の三)。そのうえかれは「天才」である(〈八〉の三)
 このたび渋民村に何しに来たのか。「田舎にはロマンチックが、……夢が……叙情詩(リリツク)が残つて」いるからだと言う。かれは「苦しくつて、怺(たま)らなくなると何時でも田舎に逃出す」のだそうだ。吉野はインサーロフどころか本質的にはルージンや青木松太郎により近い。
 年末の30日まで全59回だらだら引き延ばされて行くこの小説につきあうのはもうよそう。
 11月30日。
  おそく起きた。
  平山良子から写真と手紙。驚いた。仲々の美人だ!
  スラスラと鳥影(七)の二をかき、それを以て俥で午後三時毎日社へ行つた。そして三十円――最初の原稿料、上京以来初めての収入――を受取り、編輯長に逢ひ、また俥で牛込に北原君をとひ、かりた二円五十銭のうち一円五十銭払ひ、快談して帰つた。宿へ二十円、女中共へ二円。日がくれた。栗原君の新居を訪ふと病床にありと。Victimを返してかへる。
  異様な感じにうたれた。
  九時頃から金田一君と共に四丁目の天宗へ行つてテンプラで飲んだ。大に喋つた。十二時酔うてかへつて寝た。

2013年5月18日 (土)

石川啄木伝 東京編 117

 11月22日。この日「(五)の一鳥影のところを」書き、また「”昴”に出すべき”赤痢”を書き出した」。小川家の障子に「鳥(とり)(かげ)」が映ったので、静子が「兄様、今日は屹度お客様よ。」と言い、信吾が「ハハヽヽ。迷信家だね。事によつたら吉野が今日あたり着くかも知れないがね。」と応ずる。
 そして智恵子が来訪し、吉野満太郎(みつたらう)の来訪となる。エレーナならぬ「智恵子」はその名を函館区立弥生尋常小学校での同僚橘智恵子に借りたのであろう。和製インサーロフ吉野満太郎は東京の美術学校を出た画家で信吾の友人である。「吉野は、中背の、色の浅黒い見るからに男らしく引緊つた顔で、……烈しい気性の輝く目は、美術家に特有の、何か不安らしい働きをする」男なのだそうだ(〈五〉の四)。これは啄木得意の自画像であり、「秋風記」の啄木と「病院の窓」の「竹山」の描写を合わせるとこんなところになる。「汝青木松太郎」がインサーロフになれないことは、「連想」で自ら確認しているのに、やはり主人公には自分を書き込まずにはいられないのだ。それにしても「ミツタロウ」と「マツタロウ」は偶然の一字違いではあるまい。
 今の作者そっくりの脳天気な吉野は「職業とてもない、暢気な身上なのだ」(〈六〉の一)。

2013年5月16日 (木)

石川啄木伝 東京編 116

 これだけ自己の暴露、自己の解剖ができるなら、自然主義的な作品を書くことは可能であろうが、そうは問屋が卸さない。過去のことだから小説にここまで書けるのである。現在の自分のことになると、もう書けないこと「病院の窓」ですでに見た。自分と貞子のことは書かないで、他人事として「霊肉の争ひ」を書いたのだった。今も浅草に通う自分のことなど小説にできはしない。七月七日岩崎宛手紙で見たように、正宗白鳥なら「箱崎町へ淫売を買ひに」行ってそれを小説「世間並」に書いてしまう。
 自己の真実(性欲も含めて)の直視は、自然主義のもっとも偉大な文学的実践の一つであった。これが出来なければすぐれた自然主義作家にはなれない。まして自然主義を超える作家(たとえば漱石や鷗外のような)になることなど論外である。
 かくてこの日もまた無内容な「鳥影」(四)の六を書く。真夏の7月に地主の家に大の大人が男女14人も集まって歌留多大会である。作者に書くことがなくて、マス目を埋めるための場面でしかない。「連想」を書けた能力に出番は無い。

2013年5月14日 (火)

石川啄木伝 東京編 115

 余程(よほど)以前(まへ)の話だ。汝の一家が或る市(まち)に住んでゐて、衣類を典じ、家財を売つて其日々々を過してゐた事があつた。神経衰弱に罹つてゐた汝は一家の柱石(ちうせき)たる境遇にゐた。そして、朝から晩まで「考へる」といふ事業(しごと)をしてゐた。成程汝は其時、胸の中(なか)で日に何回となく大著述を完成し、日に何回となく大栄誉を担(にな)つた将軍の心持で人なき室(へや)を睥睨(へいげい)し、日に何回となく家族を馬車に乗せて音楽会などへ遣つた。そして汝は、老いたる両親(ふたおや)の為に、別荘を建て、美衣美食を調へた。――そして、そして、汝自身は痩せた指で、「はぎ」といふ刻煙草を平(ひらうち)の煙管(きせる)に詰めて、苦い顔をして朝から晩まで燻(いぶ)してゐた。
 盛岡での新婚生活もだいぶ経った頃の自分自身の活写と考えてよい。「連想」は続く。
 或日の夕方、二度も三度も呼ばれて汝は漸く晩餐の席についた。食卓(ちやぶだい)の上の、大きい丼に山盛にされた物は何であつたか?
  (大層美味
(おいし)く漬(つ)かりました。)と汝の若き妻は賞めた。
  それは何であつた? 蕪菁
(かぶら)の漬物!
  汝の老いたる父だけは、別膳でチビリチビリと、二合の酒を嘗めてゐた。
  (松太郎や。)と汝の母が言つた。
  (奈何
(どう)しよう。お米は明日(あす)の朝までで少し足らない位だが、アレを売らうか、アノ台所で用(つか)つてる戸棚を。松太郎?)
汝が黙つてゐたので、母が再
(また)
  (外に……モウ大抵売つたから喃
(のう)!)
  と言つて、悲
(かなし)(げ)にホホヽヽと笑つた。
これも記憶によって再現された事実であろう。

2013年5月12日 (日)

石川啄木伝 東京編 114

 今年4月22日の大島経男宛の書簡をすでに見たが、そこでは「ロマンチツクの影」すなわち「天才意識」が「空想」を生み、その「空想」が「空想を生みて尽くる所なし」になる様を啄木自身が分析しているのだった
 今作家としてほとんど自信喪失している啄木の目の前に、二つの鏡が置かれていて否応なしに内なる自己像を写す。一つは『その前夜』である。
 もう一つはおなじくツルゲーネフの『うき草』(二葉亭四迷訳)である。こちらは10月31日貸本屋から借りて読んだ。主人公ルーヂンはある村の貴族の屋敷に現れた、弁舌さわやかな若い論客である。口先では理想を説くが、いざ実行となるとからきしだめである。だから「空論家」であるし、結局は「虚言家」でもある。節子が夫は「ゲザのたぐひではないかと思ふと何とも云はれません、世の悲しみのすべてをあつめてもこの位可なしい事はないだらうと思ひます。」と言ったあの「ゲザ」とも共通する人物である。
 啄木はルーヂンの中に自分が写っているのを見ている。
 そして流行の自然主義に沿って「連想」をさらに進める。

2013年5月10日 (金)

石川啄木伝 東京編 113

 こんなこと啄木は思いたくはなかったであろう。まして書きたくなどなかったであろう。しかし、かれの良心がうずいた。そして当たり障りの無い叙述から始めて、「連想」を書き連ねる中でとうとう、書きたくなくて書かねばいられなかったことを書いてしまったのであろう。これは当時の啄木が手本にしようとしていた自然主義の、自己の真実を直視する作家態度に揺さぶられたことでもあろう。
 啄木はこのあと社会道徳に対してさえ反抗できない自分を告白し、さらに「連想」を書き続ける。
  遂に予は空想家である。遂に予は空論家――否、虚言家である。憐むべき軽薄なる虚言家である。噓つきである。常に、而(しかうし)て、凡てに於て! 
  (さう言つて呉れるな。)と、予の頭脳
(あたま)の何処かの片隅で、果敢(はか)ない声がする!
  さう言つて呉れるな! 可哀相に!
  何故? 怎
(ど)うして? 実際噓つきぢやないか? 
  返事は出来まい! 弁解は出来まい!
  そんなら予が代つて弁解してやらう。

2013年5月 8日 (水)

石川啄木伝 東京編 112

 わたくしは啄木の連想をこう推理する。
 啄木が『その前夜』の骨組みを「鳥影」にそっくり借りようとしていることはすでに見た。
 『その前夜』の中心人物の一人インサーロフは、オスマントルコ(オスマン帝国)からの祖国ブルガリアの解放のために、一身を捧げている不撓不屈の若い革命家である。志操も堅固で誰かさんのように下宿に来た女性と情を交わし、少しの金があると浅草に走るような人とはワケが違う。
 啄木は筋の展開上そろそろインサーロフに相当する人物を考えねばならなかった。もちろんそのかっこいい人物のモデルになるのは自分しかいない。「雲は天才である」の新田耕助のモデル石川啄木は、正真正銘日本一の小学校教師であった。だから新田耕助を主人公とする小説(の前半)は輝いていた。新田耕助は生き生きと躍動していた。
 しかし、今の石川啄木はインサーロフの対蹠にある。鋭敏な啄木の頭脳に自分の現状が反射しないはずがない。あれはロシアの1860年の小説だ。今の日本とは違う。あんな人物は今の日本にはいない。こう思いたかったであろう。しかし今年6月に赤旗事件があった。

2013年5月 6日 (月)

石川啄木伝 東京編 111

 なぜこんな事を書き出したのだろう。
 大好きな煙草や茶「よりも所(す)(き)なのは」、陰謀、破壊、反逆、革命、旗、女、爆裂弾、秘密結社、暗号電報、眠り、だと言う。注の16、34、35、36、52で触れてきたが(このブログでは省略)、現在秘密裏に幸徳事件(大逆事件)が進行中なのである。もちろん啄木は知らない。しかし「陰謀、破壊、反逆、革命」はこれに通じるイメージである。「旗」は赤旗→赤旗事件に通じる。「女」は文脈上はいわゆる女であるが、「旗」との連想ととれば、すでに見た「菅野、木暮、二婦人(つまりは管野須賀子、神川マツ子)」にも通じる。「爆裂弾」この物騒な代物はまだ作られていない。しかしその試作に成功するであろう宮下太吉は、この11月10日活動を開始した(注54-このブログでは省略)。奇妙な連想をしているものである。そして連想はつぎの「赤裸々な自己解剖」へとつながる。   
 そんなら、汝(なんぢ)青木松太郎、乃ち予に、汝自身で社会を転覆する大革命を企て、且つ汝自身其一隊の先頭に立つて緑の旗を揮るの勇気があるか? 熱心があるか? (金さへあつたら、機会さへあつたら、必ず行(や)る。)――と言つてるのは噓だ。無い、悲(かなし)いかな無い。金の無い如く、其勇気も熱心も無い!
 「社会を転覆する大革命を企て、且つ汝自身其一隊の先頭に立つて緑の旗を揮る」は無政府共産の赤旗を持って街頭に飛び出し、徹底的に弾圧された事件すなわち赤旗事件の連想であろう。あの人達は今囚われて監獄にいる。あの人達のような「勇気も熱心も無い!」のが「汝(なんぢ)青木松太郎、乃ち予」だと言うのである。
 なぜ選りに選ってこんな事を連想したのか。一事しか考えられない。ツルゲーネフの『その前夜』である。

2013年5月 4日 (土)

石川啄木伝 東京編 110

 11月16日
  盛岡なるふきさんから手紙。
  “連想”と題する短篇七枚許りかいた。

 堀合家に「鳥影」の切り抜きを送っているので、礼状が来たのであろう。このころは堀合家との関係はわるくない。悪化するのは翌年からだ。
 「連想」は上京後に執筆したどの小説・小説断片でも、さらに翌年秋までに書くどの小説・小説断片でも、決して書きつけようとしない「赤裸々な自己解剖」 を書きつけるのである。
 その自己解剖部分を長くなるがいくつかに分けて引こう。
 身が決ると、人は安心だといふ。僕は詰らないと思ふ。実に詰らないと思ふ。一つ決ると一つ楽みが減る。二つ決ると二つ楽みが減る。一切万事決つて了つて、死!
  責任といふことは有難迷惑なもので、結婚は悲むべきことだ。僕は煙草と茶が所
(す)(き)である。それよりも所(す)(き)なのは、
  曰く、陰謀、曰く、破壊、曰く、反逆、曰く、革命、曰く、旗、曰く、女、曰く、爆裂弾、曰く、秘密結社、曰く、暗号電報、而
(しかうし)て眠(ねむり)
  それから、極端。
  それから、太田君。由井
(ゆゐ)民部(みんぶ)
  それから、野蛮。
  革命の思想は予に於て米の如きものである。其誘惑は常に絶えない。宛然(さながら)温かき飯を食はで居られぬ如く。
  革命を談じ、野蛮を説き、女の話をし、空中飛行艇を想ふ時、煙草と茶は甘露よりも美味(うま)い。太田君の顔を見てる時、女へ手紙書く時、時間が早く経つ。

2013年5月 2日 (木)

石川啄木伝 東京編 109

 11月14日に藤岡玉骨が来て話をしていった。
 天理教の話が興をひいた。天理教には、多少、共産的な傾向がある。もしこれに社会の新理想を結付けることが出来たら面白からう。
 "解剖図”外一つ(天理教)の想をえた。

 藤岡玉骨は奈良県五條市出身で三高・東大のエリートコースを歩み、在学中に高等文官試験にも合格という秀才。いわゆる銀時計組である。新詩社の同人でもあった。
 このころは東大法学部政治学科に在学中で、ひと月ほど前の10月17日に啄木を訪れ、奈良県大和高田市の雑誌「敷島」42年1月号に短歌の寄稿を頼んだ。啄木は引き受けていた。新年に創刊される「スバル」に啄木の小説「赤痢」が載るが、藤岡の話によって着想を得たのである。
 11月15日
 豊後の臼杵なる平山良子といふ女――芳子の友――から手紙、御光会の詠草を直してくれと言つて来た。二四になる独身の女だと。
 和歌をたしなむ独身の24歳の女。良子が実は男だとも知らずに啄木の好色心が動き出す。

« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »