« 2013年5月 | トップページ | 2013年7月 »

2013年6月

2013年6月30日 (日)

石川啄木伝 東京編 138

 上田博のつぎの言は、わたくしとは切り口が異なるが、卓越した指摘である。
 「赤痢」にみられる民衆把握の弱さは、実は啄木のこの時期の自己把握の方法的弱点と表裏一体のものであったのである。
 であるならば、啄木が「自己把握の方法的弱さ」を克服する時は、「民衆把握の弱さ」を克服する時でもあろう。
 せっかく発表の場を得ても書けたのはこの程度の小説であった。そして何よりもショックだったのは「鳥影」連載をこの歳末をもって打ち切られたことである。軽んじた新聞小説の作家としても落第の烙印が押された。もっと切ないのはまたしても無収入になったことである。
 こうして啄木の1908年は終わった。大晦日の夜は「スバル」の出資者・経営者・平出修が自宅で平野と啄木の労をねぎらったらしい。

2013年6月28日 (金)

石川啄木伝 東京編 137

 たしかに「横川松太郎」はまさに「憐むべき軽薄なる虚言家であ」り、「汝青木松太郎、乃ち予」である。実際の「青木松太郎」はどこから来たのか。ロマンチツク啄木・天才主義者啄木から来たのであった。啄木は「横川松太郎」をロマンチツク啄木・天才主義者啄木ともっとも遠い・対極にある青年像にしてしまった。こうして自己との接点をあえて切断したのである。
 啄木は「病院の窓」において、植木貞子との関係に表れた自分の「羞づべき内面、自己のいはゆる『醜なる心』を赤裸々に描」く事はできなかった。「社会的体裁を捨てて、自己の真の姿をみつめようと」はしなかった。釧路で再会した佐藤衣川をモデルにして自己と無関係の主人公野村の「肉霊の争ひ」を書こうとしたのだった。
 まったく同様のことをやっている。ただしあの時と今ではごまかした事柄の内容が本質的に違う。あの時回避したのは自己内部の「肉霊の争ひ」の直視であった。今度回避したのは自己の中に潜む「空想家」・「憐むべき軽薄なる虚言家」としての「汝青木松太郎」の直視であった。
 作者は相変わらず「天才」啄木に留まり、その位置から見下ろされる主人公は「天才」の対極の人物となり、村人たちはその卑小な人物にやすやすとだまされる愚昧な人々となる。

2013年6月26日 (水)

石川啄木伝 東京編 136

 この安易に得た天理教観から生み出される、理念のない、熱意のない、自信のない布教師横川松太郎。この松太郎が村人の赤痢への恐怖につけ込んで、布教に少しばかり成功する。そしてすぐに失敗する。ただこれだけの話である。この小説の結びを引こう。
 寝床の中の松太郎は手足を動かすことを忘れでもした様に、ビクとも動かぬ。あらゆる手頼(たより)の綱が一度に切れて了つた様で、暗い暗い、深い深い、底の知れぬ穴の中へ、独ぼつちの魂が石塊(いしころ)の如く落ちてゆく、落ちてゆく。そして、堅く瞑(つぶ)つた両眼からは、涙が滝の如く溢れた。滝の如くとは這麼(こんな)時に形容する言葉だらう。抑へても溢れる。抑えようともせぬ。噛りついた布団の裏も、枕も、濡れる、濡れる、濡れる。…………
 信念の無い布教師・虚言家・弱小俗物・横川松太郎が、自分の噓・まやかしが暴露したからといって、なんと大げさに泣くことか。
 啄木がこの小説で書こうとした主題は何なのか。
 「横川松太郎」という主人公名からすぐ浮かんでくるのは小説断片「連想」の「汝青木松太郎、乃ち予」である。啄木はこの「予」についてこう述べていたのだった。「遂に予は空想家である。遂に予は空論家――否、虚言家である。憐むべき軽薄なる虚言家である。?つきである。常に、而(しかうし)て、凡てに於て!」この自己告白を誠実に作品化していれば立派な小説になったことであろう。  
 しかし実際にはみじめな失敗に終わった。なぜか。

2013年6月24日 (月)

石川啄木伝 東京編 135

 お由は飲んだくれの厄介者だった。
 二百十日(9月1日ころ)に赤痢患者が発生し、隔離病舎に収容された。遂に全村に蔓延した。1ヶ月もしないうちにお供え水の需要が多くなり信者も11軒になった。松太郎はお供え水を呉れてやる代わりに葡萄酒を買ってこさせることを思いついた。それをお供え水にたらしてやり、残りは自分が飲んだ。
 お常も赤痢で隔離病棟に送られた。その夜お由も赤痢になって烈しい腹痛と下痢が始まった。お由は怒鳴る。「畜生奴! 狐! 噓吐者(うそつき)! 天理坊主! よく聴け、コレア、俺ア赤痢に取付かれたぞ。畜生奴! 噓吐者! 畜生奴! ウン……」
自分の部屋に逃げ込んだ松太郎は布団をかぶって泣く。

 新興宗教天理教の布教と当時猖獗を極めた赤痢との結びつきを小説化しようとした観点は新鮮である。しかし啄木は天理教を研究したわけではない。増田からの耳学問と、「新小説」08年10月~12月号に載った碧天生「天理教の研究」くらいが情報源であったらしい。
 1年数ヶ月後大逆事件が起こるや、日本語で書かれた(つまりすぐに安く買える)無政府主義・社会主義の文献を渉猟読破した啄木と同一人物とは思えない安易さである。

2013年6月22日 (土)

石川啄木伝 東京編 134

 さて、「スバル」創刊号の製本は12月30日夜遅くにできたようである 。この雑誌についてはあとで見ることにして、啄木が「鳥影」と平行して書き上げ、この号に載った「赤痢」を見ておこう。梗概は以下のようである。

 赤痢の襲来を被った岩手県山間の荒れ村。時は10月末の宵。村は静まりかえっている。北のはずれに鍛冶屋がある。となりに住むのは寡婦のお由。お由の家の障子に神楽歌をうたいつつ、踊る人影が。そこへ入って行くのはお申(さる)(ばばあ)
 
 横川松太郎は岩手県南方のある村の出身である。父母は村で五指に入る田地持ちだった。松太郎はそこの一粒種。父母は家屋敷を売り払って天理協会○○支部の大会堂を建てた。松太郎は父母と共にそこに住んだ。父母は間もなく相次いで死んだ。大和の本部で「教師」の資格をもらって帰った松太郎は布教に派遣された。
 8月10日夕方この村に来た。三国屋に泊まった。(松太郎は奮発心のない、気の弱い、自信のない24歳である)
 主人に人を集めて貰って、布教をした。鍛冶屋の重兵衛が入信した。お由の家を紹介されて下宿することになった。お由も入信した。
 2、3日後(8月の14日)村を散歩して小さな東山に登り、ここに会堂を建てることを夢想する。山を下ってくる途中お常(15、6歳)にちょっかいを出され、肉体関係を結ぶ。それからは外で逢ったりお由の留守に家に引っ張り込んだり。
 

2013年6月20日 (木)

石川啄木伝 東京編 133

 

ところへ以て来て、吉井は、平野嫌ひな蒲原有明君から油をかけられて、僕へ不平を打明けた。吉井の言分では、『明星がスバルに変り、消息のアトの与謝野生が平野生に変るだけだ。こんな雑誌なら僕はイヤだ。これでは明星と何の変化がない。』といふ意味であつた。つまり平野の専横を憤慨したのだ。実際また吉井は北原太田に対して恥かしくなつたのだ。
 是より先き、僕は毎日一緒にゐる間に、平野を研究し尽した。彼は決して其表面に見えるやうな大人風な男ではなかつた。彼は、ウソは言はぬ代り決してホントの事も言はぬ男だ。そして陋劣な、女々しい、感情的な、偽善家だ。そして其文学観が僕と全然一致しなかつた。従つて、雑誌に対する考へもまるで違つてゐた、僕から見れば、平野はスバルを自分の雑誌にしようとしてゐることが明白で、そして其性格は到底僕と合はず、其主張主義共に何の根柢がなく、古いコンベンシヨンに捉はれてゐた。――即ち僕は、僕一人でスバルと絶縁する機会あることを信じてゐた。で吉井が不平を言ひ出すと、僕は一方にそれを煽り立てると共に、一方にそれを牽制してゐた。これは頗る狡猾な態度で、その事は平野初め何人にも知らせずにゐた。そしてこれによつて、予は全く、嘗て敵であつた吉井を自分の思ふまゝにあやつつてゐた。そして一方に於て、予は心中に於て平野を蹴つた。

2013年6月18日 (火)

石川啄木伝 東京編 132

 

十二月になつて愈々いそがしくなると、何しろ三人のうちで雑誌編輯上の事務をやれるのは僕一人だ。其処で編輯の大体は平野の独擅でやつてゐたが、平野と吉井は毎日僕の三畳半に来た。つまりこの室が編輯局だつた。当時僕は、毎朝十時頃平野に起され、話をしながら毎日の小説を十二時頃までに書いて送り、のこる半日半夜を全くそのために費した。三人中最も熱心だつたのは無論平野だ。何故といへば彼は「自分の雑誌」といふ気でゐたのだ。その熱心は然し、余り度を過してるので、「雑誌一冊に恁麼に無中(ママ)にならなくてもよささうなものだ」と思はれる位、却つて滑稽に見えた。
 吉井は無論、熱心な平野も、紙が一聯何百枚あつて、一枚から何頁とれるかも、又活字の号数も、薩張
(さっぱり)知らなかつた。推して知るべし。
 或時こんな会話があつた。
  平野『口語詩なんて詰らない。僕の方の雑誌では毎号攻撃してやらうぢやないか。』
  吉井『ああ、僕等の方の雑誌で』
  石川『僕は然し、口語詩はいゝと思ふ――理論上はいゝと思ふ。最も、今迄に出た作物の価値は別問題だが…………』
  平野『それアさうさ、理論上はさうだが、アンナ作物を出して威張つてるから癪にさはるんだ。』(と不快な顔をした。平野はすぐに不快な顔をする男だ)
  石川『アハハ……やるサ、大いに。』平野の「僕の方」と吉井の「僕等の方」とを比較し、更に僕の第三者的態度を見れば、当時の三人の関係が分る。そして平野は最も熱心で、僕は熱心でなくてゐて一番役に立ち、吉井はチツとも役に立たなかつた。(吉井君は、やる気がなかつたといふよりは、やれない人なのだ。)

2013年6月16日 (日)

石川啄木伝 東京編 131

 翌日の12日第1回パンの会が両国橋に近い第一やまとで開かれた。
 パンの会は木下杢太郎が中心となり、今創刊準備中の「スバル」に結集してくる北原白秋・吉井勇・平野万里ら青年詩人と美術文芸雑誌「方寸」に結集する石井柏亭・森田恒友・山本鼎ら青年画家がはじめた、耽美主義的文芸運動である。啄木ももちろん出席した。
 8日の日記に(吉井と)「話をし乍ら(九)の一を書いて送つた」などとあるように、「鳥影」は書き流している感じである。
 小奴とはその後も1、2回は逢っているようである。
 12月24日の第2回パンの会にも出席している。つまり啄木はパンの会創立メンバーの一人ということになる。
 12月の啄木のもっとも重要な活動は「スバル」創刊の仕事である。09年3月3日の郁雨宛書簡によってその様を確認しよう。
 「スバル」の創刊に最も熱心だったのは平野万里である。(出版を)「約束した金尾文淵堂は十一月末になつても何ら準備をしなかつた。(金がなくて)平野は一人で奔走して平出君に金を出させることにした。僕と吉井はアトでその報告をうけただけだ。」

2013年6月14日 (金)

石川啄木伝 東京編 130

 12月11日。朝平野が来て、出京中の上田敏訪問に誘う。訪ねて「今後毎号昴にかく約束」をもらう。<鷗外・敏の支援を得て、白秋・杢太郎・勇・万里そして啄木ら若手執筆者が目白押しの、スバル>
  帰つてくると、北原白秋君。――予は今日虚心坦懐で白秋君と過去と現在とを語つた。実に愉快であつた。北原君の幼時、その南国的な色彩豊かな故郷! そして君はその初め、予を天才を以て自任してる者と思ひ、競争するつもりだつたと!
  戦は境遇のために勝敗早くついた。予は負けた。

 どんなに負けても、空想を駆使して負けを勝ちにしてきた啄木であった。この世で負けることほどきらいなものはない啄木であった。その啄木が兜を脱いだのは生まれてこの方この時が初めてであろう。(山本健吉のいう「邪宗門新派体」7編への感服。)
 
 (12日からの日記はない。ただ12月3日から25日まで23日分の紙片メモが残っている。この日以後今月の啄木の動向を知らせるものは、このメモとその間の「鳥影」執筆分および09年3月3日の郁雨宛書簡などである。)

2013年6月12日 (水)

石川啄木伝 東京編 129

 12月7日。
 日本橋から今日来てくれとの電話。予は先頃から電話をかけることをおぼえた。どうも変なものだ。
 夕方一寸平野君。
 飯がすむと日本橋へ行つた。(お待兼で厶います。)と女中が階子口で言つた。奴は八畳間に唯一人、(逸身氏は大坂に行つて了つたのだ。)寂し相に火鉢の前に坐つてゐた。イキな染分の荒い縞お召の衣服。
 共に銀坐に散歩した。奴は造花を買つた。
 それからまた宿に帰つて、スシを喰ひ乍ら悲しき身の上の相談――逸身の妾になれ、と勧めた。
 十一時、言ひがたき哀愁を抱いて一人電車で帰つた。

 逸身豊之輔の経営する大阪炭山鉱業所は逸身家の同族会社大阪鉱業株式会社の一部であるから、豊之輔は大阪の本社に用があって上京し、小奴を置いて大阪に向かったのであろう。
 「夕方」から「十一時」まで、たっぷり時間がある。昨日同様の時間があったことはたしかである。「言ひがたき哀愁を抱いて」のくだりにはそれを含む色々のことが暗示されている。
 12月8日。
 吉井君に起された。昨夜”獣の女”と芝浦の宿屋に泊つて飲んだといふ。(君に一昨日あゝやられて飲む気になつたんだよ!)
 吉井には6日の情事は見え見えである。啄木はここでも「!」。
12月10日。
  十時かへる。
  坪仁ちやん、不在中に来て空しく帰つたとのこと。

 とうとう親しみが高じて「仁ちやん」になった。小奴とはいろいろ相性がいいと見えて、貞子の時の様なうっとうしさはまるでないようだ。

2013年6月10日 (月)

石川啄木伝 東京編 128

 小奴は旦那の目がなくなったので、さっそくやって来たらしい。経験十分の吉井は察してすぐに帰る。「二時頃」から「夕方まで」は水入らずの時間となった。植木貞子とのことを記した日記では、こういう時間は情交の時間である。この時間もその時間であろう。
  それから小奴と二人、日本橋の宿へ電車で行つて、すぐまた出た。須田町から本郷三丁目まで、手をとつて歩いた。小奴は小声に唄をうたひ乍ら予にもたれて歩く。大都の巷を――。俥で鈴本に行つて、九時共に帰宿、金田一君を呼んで、三人でビールを抜き、ソバを喰つた。
 十二時に帰した。通りまで送つた。

 一旦日本橋に行ったのは逸身が大阪に向かった事を確認しに、であろう。在京ではないことを確認したふたりは羽目を外す。日本橋の蓬莱屋に小奴が着くのは、何時になるのだろう。蓋平館に12時過ぎに帰る石川啄木よりも、もっと上手の女客である。

2013年6月 8日 (土)

石川啄木伝 東京編 127

 12月3日。(八)の一を書き、「赤痢」を書き、午後に外出。
 今日は平出君の宅に”昴”の談話会。……
 二時間許り楽しく話して帰つた。平出君の宅には、石井柏亭君、  君、太田君、北原君、平野君、あとで吉井君も来た。予は六時に辞して帰つた。何のため?
  昨夜の気持をくり返した!

 「”昴”の談話会」のメンバーはそのまま、「パンの会」創立期の主要メンバーである。パンの会はこの月の12日に第1回が催される。
 啄木は「六時に辞して帰つた」。「何のため?」 小奴との逢瀬が待っているかも知れないからである。残念「昨夜の気持をくり返した!」
 4日、「赤痢」を脱稿した。この日は阿部次郎を初めて訪い、「スバル」の原稿を依頼、「面白く話して」来た。
 12月6日。
 午後一時、三秀舎へ行つて、少し直すところがあるので”赤痢”の原稿を持つてきた。門の前で、吉井君。入つて話してると、二時頃、女中が来て”先夜の方が”といふ。小奴だ。別室に通しておいて室に戻つてくると、吉井はすぐ帰つた。奴をつれて来て、夕方まで話す。

2013年6月 6日 (木)

石川啄木伝 東京編 126

 翌10月2日。
 (七)の三。
 昼食がすむと、日本橋に坪仁子の宿を訪うた。座にゐたのは大坂炭鉱の逸身豊之輔、函館の奥村某――小奴は予の後に座つてゐた。三時頃異様な感情を抱いて帰つた。
 小奴の旦那はかぞえ年で当年27歳。かぞえ23歳の啄木は精力絶倫の青年実業家に圧倒されたことであろう。しかも小奴をはさんで逸身とはずいぶん生々しい関係にある。「異様な感情を抱いて帰つた」のも不思議はない。
 この日の日記にこうも記す。
  夜、アテにならぬ約にほだされて、殆んど何も手につかなかつた!
  予の心の平和は攪乱された。ああ、予はこの日終日顔が上気してゐた。そして、何となく落付かなかつた。

 「アテにならぬ約」とは、小奴がうまく時間を作れたら、逢いに来るという約束であろう。時間は作れなかったらしい。啄木は一日中顔を「上気」させて待った。「九時頃遂に堪へがたくなつて一人出て、パラダイスで麦酒を一本のんで、赤くなつて来て寝た。」

2013年6月 4日 (火)

石川啄木伝 東京編 125

 こうした例を勘案すると、浅草にもそういう「蕎麦屋」があって不思議はないと思われる。吉井勇という浅草の塔下苑の奥まで熟知している先達がいる。そんな「蕎麦屋」を聞ていて啄木が最初から浅草へ誘ったと考えると、日記全文の筋が通る。
 「予の心は陶とした!/唯、陶とした!」(「陶とする」は「うっとりする」)のもそう考えるとよく分かる。
 啄木は「陶とした!」まま小奴と手を取り合い、上野まで歩いてもどり、日本橋行きの電車に乗って、彼女を宿まで送りとどけ、それから蓋平館に戻った。
 その夜は「羽織の紐の鐶を一つ残した程酔つた」と言う。明晰な啄木にしては意味不明のセンテンスである。S字鐶一つを残して、羽織の紐ともう一つのS字鐶をなくしたというのであろうか。銚子二本でそれほどうっとりしていたのか。まさか。
 こうして「ソバ屋」のある時間こそ、二人の「宿願」達成の時だったのであろう。とすれば「ああ、何といふ日であらう!!!」と三つの感嘆符をうったワケもよく分かる。

2013年6月 2日 (日)

石川啄木伝 東京編 124

 伊藤整の自伝小説『若い詩人の肖像』にこんな叙述がある。1923年頃の小樽である。「私」は小樽高等商業学校の学生、「根見子」は恋人の女学生である。二人はこの夏から秋にかけてくり返し「逢う」関係であった。「逢う」場所は野外にいくらでもあった。冬になった。野外は雪に埋もれた。
 私は彼女と何とかして、どこかで逢いたいと思つて相談した。根見子は、蕎麦屋へ行くことを提案した。蕎麦屋というのは、この地方で淫売屋の異名であり、町のある部分には蕎麦屋のノレンをかけた船員相手の淫売屋が何軒も続いていた。でも、そんな家でない本当の蕎麦屋もあるらしい、ということが彼女の話で分つた。
 次の日の午後、私と根見子と、そういう場所から離れた所にある蕎麦屋へ入つた。そこは二階に座敷があり、注文したテンプラ蕎麦を持つて来ると、そのあと店の者は私たちを放つておいてくれた。そして私たちは、時々そこで逢うことができるようになつた。
 
また啄木の10月4日の日記にこんな記述もあった 。
 (本郷)四丁目の藪でまたビールを飲んで蕎麦。例の天プラ屋の娘が淫売だと女中が話したので、金田一君少し顔色が悪かつた。
 「女中」は蕎麦屋の店員であろう。「天プラ屋の娘」の「淫売」は店の(二階などの)部屋でおこなわれたのであろう。

« 2013年5月 | トップページ | 2013年7月 »