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2013年7月

2013年7月30日 (火)

石川啄木伝 東京編 142

 2日、平野が「明星」後継誌のような編集をおこなった「スバル」創刊号をめぐって啄木がものを言い始め、平野がそれを気にする。啄木は「スバル」を「公開的にすること」で上田敏の支持も得た。吉井は編集において無力。その上「鳥影」で初めての印税をかせぎ、「スバル」という小説発表の場を得て、啄木の鼻息は荒い。
 2日の日記の結び近くでこう言う。
 何といふことなく予の心に頼むところが出来た。そして今迄平野を散々罵倒しゐたが今夜、それがあまりに小供染みてると感じた。ツマラヌ。一雑誌スバルの為に左程脳を費すべきではない。予は作家だ!
 「予は作家だ!」といえる実質は何も創り出していないのに、この気炎。実質は見ない。こう思いたいのだ。その願望にしがみつく。

2013年7月28日 (日)

石川啄木伝 東京編 141

 1909年(明42)元旦の日記。
 今日から二十四歳。
 前夜子の刻すぎて百八の鐘の鳴り出した頃から平野君と本郷の通りを散歩し、トある割烹店で食つて二時頃帰宿、それから室の中をかたづけて、寝たのは四時近くだつたから、目をさましたのは九時過。
 ……
 満都の士女は晴衣を飾つて巷に春を追うた事であらう。予は一人室に籠つて北海の母に長い手紙を認めた。予は其手紙に、今年が予の一生にとつて最も大事な年―― 一生の生活の基礎を作るべき年であるとかいた。そして正月の小遣二円だけ封じた。

 午後3時半に外出。与謝野家に年始。「与謝野氏はスバルの前途を悲観してゐた。主要なる話はスバルに関した事であつた。」それから平出修宅へ。「話はこゝでもスバルの事。」
 さて、その「スバル」の創刊号は年末の30日夜遅くに製本了。めでたく元旦に間に合った。年末の平野と啄木は編集と校正に大わらわだった

勝手な釈明 2

 学生時代の剣道の師「羽賀凖一先生の事を書け、啄木の研究を一時中断しても書け、書けるのはお前しかおらんぞ」が親友の檄でした。30年間塵をかぶっている貴重な資料を忸怩たる思いで、眺め暮らしてきた私に火がつきました。突然「最後の剣聖羽賀凖一」執筆にとりかかったのです。6月9日のことでした。それからはこの仕事と中断した石川啄木伝とを抱え、だれかが言った言葉「人生の逆算をまちがえるな」が私の脳裏を絶えず去来する日々です。逆算をまちがえたのなら、石川啄木伝は未完に終わります。
 さて、きのう久しぶりにブログのアクセス分析を見ました。1ヶ月近い中断にもかかわらず、1日平均のアクセス数41・訪問者数24。外国からの訪問も英語・中国語・ドイツ語・フランス語・韓国語の各圏から計74件ありました。折角来て下さる方々のためにブログを再開しようと思いました。
 今日からまた偶数日に載せて行きます。よろしくお願いします。コメントまたはTweetでご感想を寄せていただけると幸甚です。
 
 
 

2013年7月27日 (土)

勝手な中断の釈明 1

7月4日の「石川啄木伝 140」で中断したまま今日7月27日を迎えました。緊張して載せ続け1908年(明治41)が終わると、気が緩みました。1909年分をつづけて載せるかどうか、迷いました。そこへ思いがけない仕事が生じました。石川啄木とは全く関係の無い仕事です。でもこちらは啄木研究よりもはるかに早い時期に(23、4歳ころから)志した仕事でした。20年間資料を収集しつづけ、聞き取り調査を行い、いざ執筆というところまで漕ぎ着けたのでした。そのときわたくしの啄木研究が始まったのです。それから30年間は啄木研究に明けくれました。ところが6月10日に東大剣道部の元主将・元朝日新聞記者の親友と飲んだことで、急展開が起こりました。(以下次回)

2013年7月 4日 (木)

石川啄木伝 東京編 140

 こうして豊かな文学上の交誼を新たに得、かつ復活した。北海道とは天地の差のある文学的環境だった。
 天才意識喪失の恐怖と戦いつつ小説を書く啄木の逃避先は、セックスだった。すでに道念の融けたかれは初めて妻以外の女に通じた。植木貞子である。
 歌は天性と感性があればよく、構築力はいらなかった。歌も逃避先の一つだった。
 6月下旬突然歌人啄木が誕生した。秋にかけて、小説が書けない分、歌の進歩は著しかった。栗原元吉のおかげで初めて小説の仕事が舞い込んだ。自信のないまま、驚喜して引き受けた。ますますの自信喪失と原稿料収入が浅草塔下苑へ通わせることとなった。
さらには上京した小奴ともいとも簡単に関係をむすんだのだった。
 その反面「スバル」創刊において事実上中心的役割を果たしてもいる。
 失職中の小樽の正月に始まり、海凍る釧路での新聞記者生活・初めて馴染んだ芸者と酒の日々、釧路脱出、東京は本郷、蓋平館の日々まで、なんという一年間であろう。
生活上は多事多端、内面生活は波瀾万丈。

2013年7月 2日 (火)

石川啄木伝 東京編 139

 この1年間についても振り返っておこう。
 1月は冬の小樽で失職中だった。家族は極貧のなかにあえいでいた。節子のただ1本の帯さえ質屋にあった。啄木は西川光次郎の社会主義に惹かれつつ、東京に展開する新文学思潮・自然主義に最大の注意をはらった。東京に引かれつつ釧路新聞に就職した。流氷が湾を閉ざし、零下30度にもなり、大風雪も襲来する釧路。そこではすぐれた論説を次々とものし、敏腕をふるったが、他方柳暗花明の巷に出入りすることを覚えた。道念は融けていった。
 釧路生活で心身症のような症状を呈し始めた啄木はそこを脱出した。老母妻子を函館の宮崎郁雨にあずけ、単身で上京した。
 思想が核にあってこそ、構築力を要する詩や小説を生み出しうる啄木が、天才主義という思想上の核を失い、今や文学的構築力を失っていた。思想とは言えない自意識としての天才意識があるだけだった。啄木にとって天才意識を失うことは命を失うに等しかった。だからこの意識とそれに関連する自己の諸側面を直視することだけは、絶対に出来なかった。ところが悪いことに日本的自然主義の最高の価値は自己凝視・自己告白にあった。天才意識を清算できない啄木に自然主義的作品を書くことは不可能であった。
 それなのに自然主義をまねつつ、闇雲に小説を書いた。売れなかった。金が入らなかった。下宿を幾度も追い出されそうになった。金田一京助の友情と援助で日々をごまかした。森鷗外をはじめ白秋・勇・万里・杢太郎・左千夫・信綱等、また森田草平・栗原元吉・生田長江等との新しい出会いがあった。旧知の上田敏・与謝野寛・晶子夫妻はじめ・平野万里・・・等々との旧交も復活できた。

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