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2013年8月

2013年8月30日 (金)

石川啄木伝 東京編 157

 ところで啄木は前掲の日記に「作家の苦痛」と書いていたのであった。これは主として、小説末尾の叙述を指すのであろう。そこには代用教員時代の夏に小説を書き始め、その努力が全く実らず、自信喪失がその頃から始まった、と書き、ついで自家の洗うがごとき赤貧をすこし書いた。このときに感じた「苦痛」なのであろう。
 27日、平野万里は驚いた。「スバル」の2月号は短歌が六号活字に組まれていたのである。他の脚本・論文・詩・小説等はより大きい五号活字であった。
 万里は創刊号では短歌も五号でゆったりと組んだのであった。
 編集された短歌の数は、創刊号では約550首、計37ページ分。2月号では約370首、計24ページ分である。活字の件も含め短歌はあきらかに継子扱いを受けている。しかも平野がこの号に寄稿したのは1年前に死んだ恋人玉野花子への痛哭の歌々を含む「我妹子」(52首と短詩1編からなる)だったのである。
 万里は仰天し憤懣やるかたなく、平出修のところに訴えに行った。平出は啄木の味方だった。万里は自分の原稿「文字の起源」の余白に「抗議」を入れた。

2013年8月28日 (水)

石川啄木伝 東京編 156

 これもほぼ「事実」なのであろう。しかし「雲は天才である」の新田耕助は生徒に対して「天皇陛下」ではなかった。生徒たちとは「同志」の関係であった。
 「亭乎(すらり)とした体を真(まつ)(すぐ)にして」などを読むと、きっとまた「ナポレオンの眼」が現れるぞ、と思う。
 作者石川啄木はそれでも面はゆさはある。自分(石川啄木)が自分(千早健)をあんまり賛美するのは気恥ずかしい。そこで並木孝子に賛美の主な部分の語り手になってもらう。
 そして孝子には、万事(よろづ)に生々とした健の烈しい気性――その気性の輝いてゐる、笑ふ時は十七八の少年の様に無邪気に、真摯(まじめ)な時は二十六七にも、もつと上にも見える渠の眼、(それを孝子は、写真版などで見た奈勃翁(ナポレオン)の眼に肖(に)たと思つてゐた)――その眼が此学校の精神(たましひ)でゞもあるかの様に見えた。健の眼が右に動けば、何百の生徒の心が右に行く、健の眼が左に動けば、何百の生徒の心が左に行く、と孝子は信じてゐた。そして孝子自身の心も、何時しか健の眼に随つて動く様になつてゐる事は、気が付かずにゐた。
 これもほぼ「事実」なのであろう。しかし、あまりと言えばあまりなナルシシズム……。

2013年8月26日 (月)

石川啄木伝 東京編 155

 しかし、である。われわれは「葬列」「漂泊」「菊池君」「病院の窓」などで石川啄木自身の分身らしき人物が現れると、自己賛美が始まるのを見てきた。近いところでは「鳥影」の吉野満太郎にもそれを見た。
 今回は主人公が自分自身でしかも「出来るだけ事実を」書こうというのである。止めどもない自己賛美が始まることは目に見えている。「連想」で見たように、啄木は今自信を喪失している。だからこそ過去の自分の中に自信の源を見出したい。この思いも啄木を自己賛美へと駆り立てる。かくて「足跡」ではナルシスト啄木の自己賛美オンパレードとなる。
 冒頭の主人公の登場はこう言う調子である。
 新学年始業式の日なので、S村尋常高等学校の代用教員、千早(ちはや)(たけし)は、平生より少し早目に出勤した。白墨(チヨオク)の粉に汚れた木綿の紋付に、裾の擦切れた長目の袴を穿いて、クリクリした三分刈の頭に帽子も冠らず、――渠(かれ)は帽子も有(も)つてゐなかつた。――亭乎(すらり)とした体を真(まつ)(すぐ)にして玄関から上つて行くと、早出の生徒は、毎朝、控所の彼方(かなた)此方(こなた)から駆けて来て、敬(うやうや)しく渠を迎へる。中には態々(わざわざ)渠に叩頭(おじぎ)する許(ばつか)りに、其処に待つてゐるのもあつた。その朝は殊に其数が多かつた。平生の二倍も三倍も……遅刻勝(がち)な成績(でき)の悪い児さへ其中に交じつてゐた。健は直ぐ、其等の心々に溢れてゐる進級の喜悦(よろこび)の想うた。そして、何がなく心が曇つた。
 渠はその朝辞職願を懐にしてゐた

2013年8月24日 (土)

石川啄木伝 東京編 154

 この小説は啄木小説ベスト5編を選ぶなら、そのうちの1編に入るであろう。なにがすぐれているのか。
 1、日本一の小学校教員石川啄木の1906年(明39)秋以後の教育実践およびそれをめぐるエピソードが大量に描かれていること(ことに秋の「朝読(あさよみ)」、冬の生徒を自宅に集めての塾形式の学習指導は感動的である)。したがってこの限りでは、「雲は天才である」の前半(この部分は傑作なのであった)を継承する小説という意義を持つのである。
 2、それは取りも直さず「雲は天才である」(前半)とならんで、10年後いや40年後の日本に出現する進歩的・民主的教師像の最初の文学的形象化でもあった。
 3、明治40年の東北の一寒村渋民村の尋常科新入生の入学手続き時の教師と生徒父母とのやりとり、新年度学齢児童数の就学歩合の活写等は「国民皆教育の実像をえがきだして」おり、「農民の疲弊がじかにきこえてくるようである」 。
 4、小学校教員と村役場の具体的な関係の描写も資料的価値がある。

2013年8月22日 (木)

石川啄木伝 東京編 153

 21日に起稿した小説「足跡(そくせき)」は26日には書き上げた。
 午後五時、(足跡)その一(今度の号へ出す分)脱稿。
 (足跡)は予の長篇――新らしい気持を以てかいた処女作だ。予はこれに出来るだけ事実をかいた。
 作家の苦痛。

 この小説を見ておこう。「(足跡)は予の長篇」だという。すなわち自己のこれまでの人生の「足跡」を長編小説として構想しており、脱稿分は「その一」なのだという。
 「その一」の舞台は「S村」すなわち渋民村の尋常高等小学校。時は「明治四十年四月一日」の1日。啄木が「明治四十丁未歳日誌」の4月1日の分に書いた辞表提出事件を枠にして、その枠の中に石川啄木の教育実践・「雲は天才である」以後をはめ込んだもの、と言える。 
 主人公は代用教員千早(ちはや)(たけし)、もちろんモデルは石川啄木自身。女性教師並木孝子は堀田秀子、安藤校長は遠藤忠志校長、検定上がりの秋野訓導は秋浜市郎訓導、村会議員・学務委員東川は渋民村助役・学務委員畠山亨、がそれぞれのモデルである。「予はこれに出来るだけ事実をかいた」とあるように、事実をそのまま小説化したと見てよい。

2013年8月20日 (火)

石川啄木伝 東京編 152

 1月20日。
 七時頃二畳の室で目さめた。昨夜の話が朧ろ気に思出されて、異様な感じが起つた。罰金、三度で六円、換刑――つとめにゆく――不幸、荒める生活、放恣、底をはだけた悲哀……。
  八時半に帰つた。

 朝帰りである。昨夜Masaから彼女の悲話を聞かせてもらったらしい。この女性とこの夜のこと(?)をわれわれはローマ字日記の中で再び見るであろう。
 この日は「スバル」の編集に余念が無い。原稿は連日快調に集まってくる。
 金田一は先日の「束縛」の件で相当不快を感じたらしく「遠からず三省堂の方をよして、大学国文研究室助手(二十円)になるといふ。二月になつたら此下宿から引こすと言つてゐた。」啄木のショックはさぞ深かったことであろう。もし実行されたら、啄木は大館光のとき同様下宿を放逐されることになるかも知れない。季節もおなじ一月だ。
 21日夕方平野を訪い、かれの洋書8冊を借りて菊坂の質屋に行き4円に換金した。それで「袷と羽織をうけ、ズボン下をかひ、一円二十何銭あまつた」。どういう風の吹き回しで8冊もの洋書を借りだしたのか。月末には「スバル」2月号を見た平野を仰天させ、嘆かせる手はずを今は整えているはずなのに。この8冊の洋書(質屋が4円も出したのだから高価なものだ)結局質流れとなり、平野の手に戻ってくることはない。

2013年8月18日 (日)

石川啄木伝 東京編 151

 この夜白秋と別れ、電車で一緒に来た杢太郎とも別れて、10時頃に春日町で一人になった。蓋平館に向かわずに、こんな夜遅くに浅草に向かう。杢太郎や白秋と楽しく過ごした日の終わりになぜ下宿にかえらなかったのであろうか。
 一人になったとき言いしれぬ悲しみと寂しさがかれを襲ったのであろう。
 杢太郎はかれ自身の理念を貫いて戯曲「南蛮寺門前」を仕上げた。かれは着実に自分の道を歩んいる。白秋には先月敗北宣言したばかりだ。かれの第一詩集「邪宗門」は絢爛たるものになりそうだが、その出版も間近だ。小説に賭けていながら一編の会心作すら書けないでいる自分とはなんたる違いぞ。
 いや甘ったれの啄木は小説を書けないのを、自分のせいにはしない。境遇のせいにする。杢太郎も白秋も家が豊かで仕送りも十分だ。それに引き替え自分は仕送りを受けるどころか自分が稼いで養うべき家族が三人もいる。ああ、自分の「最も深い弱み」は「結婚したつてこと」だ。だから太田や北原に負けているのだ。こう考えるから、悲しくなる。寂しい。人がたくさんいる蓋平館には帰りたくない。この悲しさ寂しさは「束縛」の金田一君にも打ち明けられない。部屋で一人っきりになったら寂しさに耐えられないような気がする。幸いなにがしかの金が懐にある。そうだあの街へ行こう!
 かくて、Masaという女性を買う。

2013年8月16日 (金)

石川啄木伝 東京編 150

 さて、啄木の1月中旬の主たる活動は「スバル」2号の編集である。
 1月19日杢太郎が「スバル」2月号の原稿「南蛮寺門前」を持ってくる。杢太郎は去年夏に最初の原稿を書き、この1月に入って2度書き直してから持って来たのだ。ふたりは一緒に原稿を読み、それから白秋を訪ねる。昼飯は「ガス鍋の牛肉で御馳走になつた」。3人は与謝野宅に向かう。寛と白秋と杢太郎を前に啄木は「一人でイロンナ事を喋つた」。7時頃晶子の原稿「損害」をもらって辞す。
 四谷で電車を降りて、とある天プラ屋で三人で飲んだ。この二人と一緒にのんだのは今夜が初めて。北原は酔うと不断よりもモット坊ちやんになる。別段口をきくでもなく、嬉し相にしてゐる。太田はその恋――片恋のあつたことを仄めかした。予と太田は頻りに創作や思想について語つた。(僕の最も深い弱みを見せようか?)と予はいつた。(何だ?)(結婚したつてことよ!)
 自分に原因があって小説が書けないのに、それを結婚のせいにしている。自分の弱みを直視しないだけでなく、一家の主としての無責任をも直視しないし、節子の窮境をも直視しないのである。

2013年8月14日 (水)

石川啄木伝 東京編 149

 日記は続く。
 そして、予は、今夜初めて真の作家の苦痛――真実を告白することの苦痛を知つた。その苦痛は意外に、然り意外につよかつた。終日客のあつた金田一君は十一時頃に一寸来た。予はその書かむと思ふことを語つた。予は彼の顔に言ひがたき不快と不安を見た。
……あゝ情誼の束縛! 遂に予は惨酷な決心と深い悲痛を抱いて、暁の三時半までにやつと二枚半許りかいた。
 予は勝たねばならぬ。

 なんという甘ったれ。直視できぬことからはそれがなんであれ逃げまくる。その付けは父母と妻から始まってもっとも身近な友人たちに持って行く。
 「暁の三時半までにやつと」書いたという「束縛」二枚半を覗いてみよう。
 金田一がモデルの尾形はたとえばこんな風に書かれる。 
  ……友人の十が八までは髯を立てたのを見て、近頃売薬の毛生薬を密乎(こつそり)買つて来て、朝晩怠らずに塗(つ)けてゐる。貼箋は綺麗に剥いで了つてあるから、薄い褐色の液を湛へた其瓶が机の上にあつても、それと気の付くものは誰もない。
 本気でこんなことを書いたとしても、活字にする気はなかったであろうが、恩知らずも極まっている。こんなことも書く。文中の「工藤」は啄木ご本人。
 尾形と工藤の友情――と言ふよりは寧ろ、尾形が工藤に対して有(も)つてゐる厚い好意――は、知つてる人々の間に深い感動を以て伝へられてゐた。
 いい気なものだ。去年の9月6日の友情も金田一の一方的な「厚い好意」の結果だと言いたいらしい。これでは忘恩の徒だ

2013年8月12日 (月)

石川啄木伝 東京編 148

 10日の日記。
 今日は誰も来なかつた。半日想をかまへてかの六日のことを書かうとした。十枚も最初の一枚を書き損じて、題を(束縛)とあらためた。そして予は十一時すぐるまでにやつと一枚半かいた。
  束縛! 情誼の束縛! 予は今迄なぜ真に書くことが出来なかつたか!?
  かくて予は決心した。この束縛を破らねばならぬ! 現在の予にとつて最も情誼のあつい人は三人ある。宮崎君、与謝野夫妻、そうして金田一君。――どれをどれとも言ひがたいが、同じ宿にゐるだけに金田一君のことは最も書きにくい。予は決心した。予は先づ情誼の束縛を捨てて紙に向はねばならぬ。予は其第一着手として、予の一生の小説の序として、最も破りがたきものを破らねばならぬ。かくて予は(束縛)に金田一と予との関係を、最も冷やかに、最も鋭利に書かうとした。

 「赤痢」でもまったく自分を告白できなかった啄木は、卑怯にもこれまでもこれからもつまり生涯を通してもっとも恩をうける金田一京助との「関係」を書くのだという。今度も自分は陸(おか)に上がるのだから暴露の被害を受けるのは金田一に決まっている。

2013年8月10日 (土)

石川啄木伝 東京編 147

 さて9日の日記の結びはこうだ。
 金田一君は今夜原君の宅の加留多会へ行つた。女中には(大臣の家へよばれた)と言つて行つたさうな。予は愍然な気がした。大臣の家!
 予の新しい気持――少しもヒケをとらぬ此頃の気持は、よほど周囲の関係を変化させた。予はこの友――恩のある友を憐むの心の日に日に(2つ目の「日に」-くの字の踊り字)強くなることを悲む。

 「原君」は原敬(芝公園七号地-四二年日誌住所録)の甥の原達(とおる)(本郷追分町-四二年日誌住所録)。盛岡中学における金田一の1年先輩である。「大臣の家へよばれた」と言ったとしても目くじらをたてるほどのことでもあるまい。
 吉井にぶつかり、平野と争い、今度は正真正銘の恩人に牙をむく。

2013年8月 8日 (木)

石川啄木伝 東京編 146

 9日。
 一時頃に太田君が赤い顔をして元気よく入つて来た。……予は、予の編輯する号は君と北原には蹂躙にまかせると言つた。三時まで話した。……
 前年11月初旬から始まった木下杢太郎との交誼は今ますます濃やかである。「スバル」は間もなく耽美派の雑誌になって行くが、その方向に舵を切った功績は石川啄木とかれを支持した平出修に帰するであろう。もっとも他人からの援助や下宿代の未払いや原稿料等でどうにか維持し得た啄木自身の耽美的傾向は、東京朝日新聞への就職と家族扶養の義務とによって、存立し得なくなる。かなしい耽美派との別れは間もなくやってくる。
 9日の日記の続き。
 森先生の会だ。四時少しすぎに出かけた。門まで行つて与謝野氏と一緒、吉井君が一人来てゐた。やがて伊藤君、千樫君、初めての斎藤茂吉くん、それから平野君、上田敏氏、おくれて太田君、――今日はパンの会もあつたのだ。
 題は十一月からの兼題五、披露が済んで予が十九点、伊藤君が十八点、寛、高湛、勇の三人は十四点、その他――
 斎藤茂吉が観潮楼歌会に初参加。啄木とも初対面。
 十時散会、雪が六七分薄く積つて、しきりに降つてゐた。予は伊藤君の傘に入つて色々小説の話をしながら森川町まで来た。傘につもる雪がサラサラと音がする。

 ちなみに与謝野寛・吉井勇と並んで14点をとった「高湛」とは源高湛(たかやすまたはたかしず)こと森鷗外。傘なしの啄木が「野菊の墓」の作者で9月から「アララギ」の主宰者となる伊藤左千夫の傘に入れてもらい小説の話をしながら帰ってくるなど、楽しい絵になっている。(三年半の後伊藤は啄木短歌への深い理解を表明する 。)

2013年8月 6日 (火)

石川啄木伝 東京編 145

 7日、「新年の諸雑誌をあさ」り、読みまくった。「スバル」の次号の編集は啄木の当番である。そのための情報収集なのであろう。
 8日、午後4時頃、平出修宅でスバルの編集会議をやるとの電話。
 すぐ行つた。平野吉井平出、アトから川上君、与謝野氏、栗山君、都合七名で九時ごろまでやつた。意見はすべて予の言ふことが通つた。平野は大分予が物をいふ度に不快な顔をしてゐた。
 予は勝つた。編輯担当者はその号に全権をもつことにした。そして平野がやると言つてゐた短歌の添削までもとりかへした。平野の言ふことは皆やぶれた。
 「与謝野氏」が出席しているのは「スバル」を「明星」の後継誌にしたいからだろう。平野万里はその意を体して創刊号を編集した。啄木はその動きを徹底的に封じようとしている。啄木の編集基本方針の1つは廃刊になった「明星」の轍を踏まないこと、である。その啄木を支持した中心人物は「スバル」の出資者平出修である。
 ここに石川啄木と平出修の新しい関係が始まった。

2013年8月 4日 (日)

石川啄木伝 東京編 144

 4日、平野が夏目漱石を訪れないかと、誘ってくれた。行かなかった。今の啄木には漱石の前に出る自信はないであろう。風葉の前には出られても。
 5日、橘智恵子から封書が届いた。「函館時代こひしく谷地頭なつかしくとかいてあ」った。
 6日、橘智恵子に手紙を書く。伊東圭一郎が遊びに来る。啄木はユニオン会から「除名」されたかのごとく後に言われるが、伊東とだけは交誼がつづいている。
 この日の日記「摘要」覧は面白い。
 小日向台の下、水道町に救世軍の女三人(一人はハタ)男一人ゐた。「いまわが心は雪より白く……」ト見ると大館光!
 1903年(明36)の真冬、石川一少年を着の身着のままで追い出した、あの大館光だ。下宿代30円は未払いのままである。啄木はさぞ肝を冷やしたことだろう。

2013年8月 2日 (金)

石川啄木伝 東京編 143

 3日にもこう書く。
 長い事、然り、長いこと何処かへ失つてゐた自信を、予は近頃やうやう取戻した。昴は予にとつて無用なものでなかつた。予はスバルのおかげで、今迄ノケ者にしておいた自分を、人々と直接に比較する機会をえた。
 「人々」とは「スバル」に(小説などを)執筆する人々であろう。
 ……せつ子から封書の賀状が来た。大晦日に室料を払つて五厘残つたと! そして賀状のかげには予が金をおくらなかつた事に対するうらみが読まれる。予は気まづくなつた。あゝ、金は送らねばならなかつた。然し金は送りえたのであらうか? 今日は予の賀状がついて、いくらか我がいとしき妻も老いたる母も愁眉をひらいた事と思ふ。
 小説に自己の真実を書けない啄木は日記にも真実を書けない。「金は送りえたのであらうか?」というが、最初に入った原稿料の内から浅草の女たち延べ8人ほどに使った金はいくらになるのだろう。2度目の原稿料の内から「女中共」にくれてやった「二円」と今日妻と老母が受け取ったであろう金は同額である。そうしたことは書かないで、嘆いてみせる。日記は微妙に自己の真実から目を逸らせている。だから「我がいとしき妻も老いたる母も」云々にもかすかにしらじらしさが漂う。
 節子は夫からの仕送りがあるはずだからと、郁雨に援助を頼まずに年越しを試みたのであろう。その結果が「五厘」だった。夫は不実である。

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