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2013年9月

2013年9月30日 (月)

石川啄木伝 東京編 172

 就職決定を知っても、節子の手紙は無い。代わりに郁雨から「久振の手紙」があった。内容は母カツに関する事情を記したものらしい。他方で母はすぐにでも「一人上京する」という。函館では節子とカツの間に繕いようのない対立が生じ、カツは函館に一日もいたくないと思い極めているらしい。
 以下は先の日記のつづきである。
 二十円の為替を受取つて三秀舎まで歩いて行つた、中西屋でオスカーワイルド論(アート エンド モーラリチー)を三円半に買つた! 何年の間本をかはぬ者の、あはれなる、あはれなる無謀だ! ……
 今日はパンの会なので先にゆく、――両国へついたのは五時半だつた、誰も来てゐない、やがて太田が来、石井柏亭君が来、山本鼎君が来た、そして飲み且つくらひ、且つ語つた、そして九時半にそこを出て小雨の中を電車で浅草に行つたが、活動写真はもうハネてゐた、そして四人奥山の第三やまとでビールをのんだ、
 そして帰りに四丁目で太田と二人スシを食つた、今日は太田と二人前はらつたのだ。
 十二円五十銭許りしか残つてなかつた、
 北原からハガキ、明日九時までに鈴木氏も来るから来いとのこと、

2013年9月28日 (土)

石川啄木伝 東京編 171

 2月24日佐藤真一から手紙が来て、東京朝日新聞社に校正係で入らぬかとのこと。月給25円、夜勤一夜につき1円、都合30円以上。早速承諾の返事を出す。
 25日函館の妻と母および友人知人数人へ就職決定を知らせる手紙を書く。そして小奴と堀田秀子に借金申し込みの電報をうつ。啄木のつもりとしては家族上京に伴う費用の算段だったのであろうか。小奴からは翌日電報為替で20円が届く。この金の遣い方に今の啄木そのものが表れるであろう。
 そのまた翌日つまり2月27日の日記。
 九時半出かけた、出かける前に母からと郁雨君から久振の手紙、郁君は病気がよいとのこと、そして母からの手紙のことについて書いてあつた、予の心は鉛――冷い鉛でおしつくられて様になつた、ああ母! いとしい妻! 京子!
 母は三月になつたら何が何でも一人上京すると言つて来た、

2013年9月26日 (木)

石川啄木伝 東京編 170

 昨日春陽堂から受け取ったのは22円75銭。記述にしたがって計算すると、啄木は昨夜から今朝にかけて8円75銭はつかっている。妻子老母に誠実な責任感を抱いていないから、こんな事ができるのだ。それにしても啄木の金銭感覚は父親譲りの異常である。
 スバル3号の編集は吉井勇が投げ出したので、木下杢太郎が引き継いだらしい。その木下に原稿を頼まれて、啄木は即答できない。当面の啄木の創作の泉は「足跡」で枯渇したのだ。
 なすことのない(今のなすべき事は小説執筆だ)日々が続く。
 2月19日になって木下から原稿催促の手紙が来る。
 22日は原稿締め切りの日だったが、「とうとう出来ず」「太田君へ詫びのハガキを出」す。

2013年9月24日 (火)

石川啄木伝 東京編 169

 2月6日。
 隣りへ泊つた北原君に六時頃おこされ、六時半二人で出てあるところで朝飯をくつた、腹がへつたといつてシンコを食つた男があつた、それから手拭をかつて湯にゆき、公園で新聞をよむ、吾妻橋から両国まで川蒸気にのる、面白かつた! 二人は時々すみ子をほめた、予の心にはいろいろの感情がゴチヤゴチヤしてゐた、
 飯代わりに「シンコ(漬け物)」を食べる男の来る店である。いわゆる一膳飯やのたぐいでは無かろうか。啄木はホームレス経験があるからなれている。柳河のお金持ちの坊っちゃんにも美味かったのだろうか。 
 北原の宅へゆき、休む、六円しか残つてゐなかつた、午後同君から八円を受取つて髪を刈つてかへる、並木来る、太田来る、昨夜の話をして大笑ひ、太田からスバル三号の原稿たのまれた何れアトで返事することにする、
 夕方金田一君かへつて来た、七時頃共に夕めし、(それまで予に飯を出さなかつたのだ)ところへ女中が談判に来た、六円は金田一君へやつたので、残りのうちから五円やつて一三日までのばして貰ふことにする、残り二円と少し、

2013年9月22日 (日)

石川啄木伝 東京編 168

 

末広屋といふへ行つて、四人で二時頃までのんだ、実に不思議な晩であつた、そして妹のすみ子(けい)は美人で気持ちのよい程キビキビした女、十八、実に不思議な晩であつた、
二人とも酔つてゐた、そしてとんだ宿屋へとまつてしまつた、

 このところ「鳥影」の件で非常にお世話になっているので、その「お礼」の意味もあったのか。以前から現代日本第一の青年詩人北原白秋は「恋を知らない」と言っていた啄木だから、「お礼」に「恋」も教えてやろうとしたのか。
 「普通近代詩史の上では……白秋・啄木時代のあったことが忘れられている」と山本健吉の言った 、その当代最高の青年詩人ふたりが「実に不思議な晩」を今すごしている。

2013年9月20日 (金)

石川啄木伝 東京編 167

 「例の葉書一件」とは、今年1月10日浅草公園第五区99、分吉野やつや子という女から東京毎日新聞社経由で「葉書」が来た。石川啄木の住所が知りたいと。啄木は分吉野やが植木貞子の妹すみ子のいるところだと知っていたので、貞子が啄木の居所を知ろうとしてつや子に出させた手紙と判断していた。
 今その分吉野やに二人を呼びにやったというのである。
 と、つや子は病気だといつてすみ子一人来た、そして予なことを察して女中をひそかやつて姉貞子をよんだ! 貞子は米松と名告つて芸者になつてゐた!
 貞子という人はよほど啄木に惚れていたのだ。そして啄木はもてあまして「捨てた」のだが、今焼けぼっくいに火がつこうとしている。それどころか女性の前に出てものを言うだけで顔を赤らめたいううぶな白秋が男になろうとしている。

2013年9月18日 (水)

石川啄木伝 東京編 166

 2月8日は「多事な日であつた、十時半起床、すぐ出かけて貸室をみて」歩いた。家族を迎える準備だろう。しかしこの日の「多事」を見て行くと、それがどこまで本気なのか疑わしい。心から家族を迎えようというのではない。その不誠実は函館の節子をますます郁雨の側に追いやっていることだろう。
 十二時頃春陽堂に行つて編輯の本多といふ人にあひ一時間談判の結果、嘗てやつておいた(病院の窓)稿料二十二円七十五銭(一枚二十五銭に値切られた)を貰ひ、すぐ北原君へゆき、喜んで貰ふ、又すぐ二人で永田町二ノ二十七に鈴木鼓村氏をとひ、初対面、面白い人、(鳥影)のことを頼み、四時間遊び、朝飯も昼飯もくはぬところへソバを御馳走になつて夕方辞す、
 とうとう「病院の窓」の原稿料を手に入れた。「一時間談判」が示しているように、とても活字にできない原稿に金を払うのは春陽堂としてはその金をどぶに捨てるに等しい。鷗外の口利きでなければ原稿を突き返したところであろう。
 さあ、金が入った。遣わずにいられないのが啄木だ。家族のことは意識の外に行ってしまう。
 それから北原と二人で浅草にゆき、新松緑でのみ、ハヅミで或ソバ屋へつや子すみ子をよぶ、(例の葉書一件の女、顔を見ようぢやないかといふので)

2013年9月16日 (月)

石川啄木伝 東京編 165

 そして貸本屋がもってきた艶本(男女の性交渉を絵や文章で表現した本-大辞泉)「当世小紋帳」に読みふけり「夜はくだらぬことに時間をつひやして二時電燈がきえたまで」。
 2月5日、北原を訪うも留守。もちろん「鳥影」出版の件だ。
 2月6日「近頃下宿からの督促が急だ」。北原が来てくれたのに女中のまちがいで帰してしまう。朝日新聞社にゆき、佐藤北江と明日の会見の約束をし、観潮楼歌会は欠席して浅草へ。この日はめずらしくも活動写真と馬肉屋での夕飯で帰宅。「北原を待つたが来ず、十一時頃寝る。」
 2月7日。
 昼飯をくつて出かけて北原君をとひ、天プラを御馳走になる、今日は鈴木氏が不在だからといふので、辞して春陽堂にゆくと日曜で休み、約の如く朝日新聞社に佐藤氏をとひ、初対面、中背の、色の白い、肥つた、ビール色の髯をはやした無骨な人だつた、三分許りで、三十円で使つて貰ふ約束、そのつもりで一つ運動してみるといふ確言をえて夕方ニコニコし乍らかへる、此方さへきまれば生活の心配は大分なくなるのだ、
 金田一はこれを祝し、「フロツクその他」を質に入れて、天ぷら屋で夜中の12時まで飲ませてくれた。
 また啄木は昨日送られてきた綱島梁川の書簡集を古本屋で50銭で売ってしまった。『あこがれ』時代に心酔し、一昨年9月札幌で「綱島梁川氏を弔ふ」を書いた啄木であるが、その後の小樽・釧路の生活および上京後の生活は、かれの中から梁川の浪漫主義を逐い出してしまったのだ。

2013年9月14日 (土)

石川啄木伝 東京編 164

 あの「鳥影」が本になると思うのは『あこがれ』がドンと売れると思い込もうとした時と同様、都合の悪い事態を直視しない啄木の悲しい弱さである。
 ご馳走になって7時に白秋宅を辞して「マツスグに浅草へ」。
 活動写真はおもしろかつた、」それから、  そして十一時頃かへつた。
 下宿料が払えないのに、「鳥影」が本になると自らを欺きつつ思い込み、さらにそれで金が入ると妄想を進め、金が入るのだから「浅草へ」、となる。
 『あこがれ』のころから4年、ずいぶん社会経験も積んだのに、精神構造は何も変わっていない。
 それでも間もなく家族が上京する。いくら無責任の権化とは言え、定収入なしに家族を迎える事はできない。そもそもが去年の4月段階で「二三ケ月の間」に家族を迎えるとの約束だったのだ。それがそろそろ1年だ。
 2月3日「朝日新聞の佐藤北江氏へ手紙と履歴書スバル一部おくる」。ようやく就職することを少し本気に考えたらしい。
 2月4日北原がはがきをくれた。鈴木鼓村が「鳥影」の出版先を世話を快諾してくれたと、その上新聞小説の口もさがしてくれることになったと。鼓村は白秋の話を聞いて「快諾」したのであって、「鳥影」を読んだ上での「快諾」ではあるまい。
 しかしこの手紙に啄木の妄想はふくれあがったらしい。「神経衰弱にかゝつた時の様な気持で、何も書く気になれず、いろいろな空想許り浮んだ。

2013年9月12日 (木)

石川啄木伝 東京編 163

 すなわち「足跡」の「その二」はもう書けないのだ。そうであろう。故郷を出て函館に来た経験は「漂泊」ですでに書いて中断した。釧路の経験は「病院の窓」「菊池君」その他で幾度も書いては失敗している。札幌や小樽の経験も自己賛美しかできない啄木には書けないことは、間もなく明らかになる。
 真実の自分を見るのが怖い石川啄木にとって「足跡」の続きは無いのである。従来、啄木がこの小説を書けなくなったのは「早稲田文学」3月号の中村星湖の酷評(後述)のせいだと言われてきた。ちがう。「足跡」が活字になった瞬間にもう書きつげなかったのである。いや脱稿した時それを自覚したのかも知れない。付言の結びにこうあった。「他日になつたら、また、この作をも忘れたく、忘れて貰ひたくなる時があるかも知れぬ」と。すでに怪しげである。
 2月2日。
 (樗牛死後)をついでゐると、下宿料の催促、午後四時、(鳥影)をもつて北原君をたづね、鈴木鼓村氏に本屋の周旋をたのむことを頼む、明日行つてくれるはず。

2013年9月10日 (火)

石川啄木伝 東京編 162

 

その主婦といふのは、鼻のひしやげた、何時でも口元に泡を溜めてゐる――喋る時それを吹散らかす――だらしの無い四十恰好の女で、いかなる日でも優しい口一つ利(き)く事なく、朝は僕等よりも遅く起きて、寝巻の儘で長火鉢の前に座つては、歯吃したくなる様な可厭な声で、当(あたり)散らしてゐた。 僕等が何か言つたとて碌々(ろくろく)返事して呉れた事もない。尤も僕等は、謂はゞ小林の室の居候で、室代も食費も出さぬ、野良犬の様な者であつた。
 僕は其前の年、十七の秋の十月末に、郷里の中学の五年級を二学期で罷(よ)して、上京したのだ。それは、家(うち)が段々困つて来たところへ、飯米だけ出して泊つてゐた姉……
 これはどうしたことか。今日発刊の「スバル」二月号の石川啄木「足跡」の結びはこうなっているのだ。「(その一、終)」と。
 さらにつぎの付言もある。
 (予が今までに書いたものは自分でも忘れたい、人にも忘れて貰ひたい、そして、予は今、予にとつての新らしい覚悟を以てこの長編を書き出してみた。他日になつたら、また、この作をも忘れたく、忘れて貰ひたくなる時があるかも知れぬ ――啄木
 これらによると「足跡」は自伝的「長編」の「その一」に当たることになる。「スバル」三月号に向けて書く小説の原稿は「その二」のはずであろう。であるならば「その二」は小学生を率いて行った「ストライキ」、その結果故郷を追われ、北海道函館へ渡り……といったことが描かれるはずであろう。
 ところが「樗牛死後」でさらに四年も時をさかのぼってしまった。

2013年9月 8日 (日)

石川啄木伝 東京編 161

 2月1日啄木は小説「樗牛死後」 を書き始める。
 思出せば隔世の感がある。日露戦争前の事で、僕が十八の歳――今から六七年も前だ。神田錦町のとある処に、入口の格子戸だけ真新らしい、古い穢い二階建の下宿屋があつた。入口に掲げた止宿人の人名札は大抵裏返しになつてゐて、名前の出てるのは四枚か五枚――その数少き止宿人の中に、京橋辺の或鉱業会社の分析課に務める小林某といふ人があつた。僕は先の下宿から逐出されて了つて、行処に塞(つま)つた揚句、真鍋六郎といふ同年配少年と共に、その人の室に二十日足らずの間置いて貰つた事がある。時は一月末から二月の中旬まで。其間に一度大雪が降つて、市中の電話が不通になつた事を記憶してゐる。下宿屋の名は長盛館とか言つた。顔は忘れたが亭主は此上もない無気力者(いくじなし)で、朝から晩まで主婦に我(が)鳴立(なりた)てられながら、赧顔(あからがほ)の女中を対手に飯炊をしてゐた。

2013年9月 6日 (金)

石川啄木伝 東京編 160 番外編

  わたくしの「石川啄木伝」には書いていない、いわば番外編を贈ります。

 啄木の死後に与謝野晶子が詠んだ。

  ありし日の万里と君のあらそひを手をうちて見きよこしまもなく

 以下の歌は桜井健治「啄木における万里と『スバル』」(「啄木研究」創刊号、1976) に拠る。貴重で興味深い論文である。ご一読をお奨めする。

 啄木没して32年後の昭和19年(1944)4月10日平野万里は「啄木を憶ふ」と題して10首を詠んだ。昭和19年と言えば大日本帝国滅亡の前夜。日本国民は史上最悪の時期を迎えようとしていた。

 5首を紹介しよう。

  啄木の岩手なまりを思ひ出づ山鶯を聞くかのやうな

  菊坂の下宿の電話おそれつつ小説書きし若き啄木

  金田一京助君を頼りとし頬円かりし若き啄木

  啄木の辛さを知らずその無知や測るべからず当時の青年

  後年の窮迫したる啄木を知らねば彼の豊頰笑ふ

 

 

 

 
  

2013年9月 4日 (水)

石川啄木伝 東京編 159

 この「ケンカ」は評判になったらしい。
 「新声」3月号では「東北翁」が「スバル 短歌を六号に組んだと云つて、平野万里がムキになつて、抗議をしてゐる。それを啄木が又突きまぜてゐる。一寸面白い話だ。……」と言い、「道聴庵」が「スバル 随分遠慮なしに内訌をブチまけたものだ。歌を六号にしたといふことが、どの位歌そのものを傷けたらう。六号にされて拙くみえるやうな歌なら四号活字にしたらどうだらう。兎も角、アンなことを同じ雑誌で言ひあふのは第一見ツトモなくもなるし、読者の信用にもかゝはる。……」と。東京毎日新聞四月一五日が「二月の雑誌界」で「万里、啄木二氏が編輯の出来栄えについて喧嘩をしてゐるが可愛いものだ。『僕一箇の作物に付て云つてみても、僕は多少の新らしい試みをやつた積だ』と云ふ人の歌は一向に面白くない。」
 啄木の編集方法が功を奏したのか、「ケンカ」が評判を呼んだのか、2号は6月には売り切れているが、万里の創刊号は9月になっても売れ残っている。
 2人の若き俊秀の小気味よくおもしろい「ケンカ」ではあった。

2013年9月 2日 (月)

石川啄木伝 東京編 158

 

……短歌を六号にした事に就ては僕は一言の相談も受けなかつた。組んで来たのを見て僕は驚いて了つた。……相応の労力を致して作つた短歌を六号に組んだからとていくら紙数が減るであらう……。いくら僕が怒つた所が仕方がない。……寄稿者諸君の悪く思はれざらむことを僕から願つておく。……僕一個の作物に就ていつても僕は多少の新らしい試みをやつた積りだ、少なくともこの雑誌に五号に組んである他の作物より甚しく劣るとは僕は思はぬのである。終りに今月短歌を作らなかつた諸君の幸福を祝しておく。(万里生)
 啄木は消息欄でこれを一蹴した。
◎万里君の抗議に対しては小生は別に此紙上に於て弁解する所なし。つまらぬ事なればなり、……
◎活字を大にし小にする事の些事までが、ムキになつて読者の前に苦情を言はれるものとすれば、小生も亦左の如き愚痴をならべるの自由を有するものなるべし。
◎小生は第一号に現はれたる如き、小世界の住人のみの雑誌の如き、時代と何も関係のない様な編輯法は嫌ひなり。……
◎小生は此第二号を小生の思ふ儘に編輯せむとしたり。小生は努めて前記の嫌ひなる臭
味を此号より駆除せむとしたり。……

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