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2013年10月 4日 (金)

石川啄木伝 東京編 174

 昼飯をくつて電車で数寄屋橋まで、初めて滝山町の朝日新聞社に出社した、
 「朝日新聞社」は東京朝日新聞社(大阪の大阪朝日新聞社が母体)。当時東京屈指の大新聞。しかも池辺三山、佐藤北江、弓削田精一、杉村楚人冠そして新しく入社した渋川玄耳らを軸に紙面改革が飛躍的に進み、いよいよ大発展の時を迎えた新聞社であった。
 佐藤真一は雅号「北江(=北上川)」が示すように、岩手県盛岡の人。盛岡中学中退、17歳ころには文章に天稟を現し、自由民権運動・自由党の運動に深く関わるようになる(そしてこの思想傾向は脈々として一生を貫く)。一八歳のとき岩手県自由民権運動の先駆者伊東圭介(親友伊東圭一郎の父)らの紹介で自由党星亨の「めさまし新聞」に入社し編集者となる。入獄中の星から大阪朝日新聞の村山龍平が「めさまし新聞」を買収、東京朝日新聞社を創業したが(1888年〈明21〉7月)、19歳の佐藤は編集者としてそのまま同社で敏腕を振るう。啄木が入社したころは東京朝日新聞社最古参かつ名編集長として多くの社員の敬意を集め、同社の大幹部中でもひときわ声望が高かった。佐藤は「徳」の人で、その徳は同郷の人にも及び、「佐藤かぶれ」の青年たちがかれを頼ってきた。石川啄木もその1人である。 (ただし啄木がどうして急に佐藤を頼って手紙・履歴書・「スバル」2号を送ったのか今ひとつ分からない。1月6日に伊東圭一郎が遊びに来たが、その時の会話の中にヒントになるものがあったのかも知れない。)
 さて日記の続きを引こう。

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