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2013年10月

2013年10月30日 (水)

石川啄木伝 東京編 187

 失敗した小説断片がおそるべき予言となっている。この予言を大気汚染というレベルでくくるなら、現在の地球温暖化の予言ですらある。まことに啄木端倪すべからず。
 たとえば釧路新聞で示されたようなグローバルな視野を持つ眼そしてこの未来を予見する眼、この超凡の眼があっても、自己の弱点を直視する眼のない啄木には「あゝ、それと予との間に何の関係がある」とならざるを得ないのである。
 虫のいい望みをいだいて啄木は27日、29日と大学館を訪れる。
 そして3月30日。
 約の如く今日こそはと大学館へ行つた。二時間も待たされてゐるうちに出社の時間はパッスした。そして「鳥影」の原稿を返された!
 面当に死んでくれようか! そんな自暴な考えを起して出ると、すぐ前で電車線に人だかりがしてゐる。犬が轢かれて生々しい血! 血まぶれの頭! あゝ助かつた! と予は思つてイヤーな気になつた。……

2013年10月28日 (月)

石川啄木伝 東京編 186

 あゝ、その時になつて其煙突を見上げる人々の心地は甚麼(どんな)であらう! そして其都会の中(うち)、其煙の風下に当る区域は、劇しい煙毒の為に害(そこな)はれ、如何なる健康者でも其区域に住んで半年経てば、顔に自(おのづ)と血の気が失せて妙に青黒くなり、眼が凹んでドンヨリする。男も女も三十以上の齢は保てなくなる。随つて家賃は安い。幾十万の貧乏人はそれを知り乍ら其区域に住み、秋の木の葉の落つる様に片ツ端から死んで行く。人類の未だ曾(かつ)て想像した事のない大悪魔の様な黒煙が、半天を黒うして其都会の上に狂つてゐる。
 ……………此処まで考へて来て、僕は名状し難い快感に襲はれて思はず身慄ひした。そして再び砲兵工廠を望んだ。彼の煙突と彼の煙とは、其時、児戯にも等しい位小さく見えた。

 この壮大な幻影は日本の高度経済成長期につくられた15もの石油化学コンビナート(1957年〈昭32〉~60年代末〉)によって現実となる。それどころか1950年代のイギリス・ロンドンで、1970年代カナダ・オンタリオ州で、1980~90年代のチェコスロバキア(当時)のモストで、90年~2000年代の中国で……(枚挙にいとまがない)、啄木の幻影は現実となった。

2013年10月26日 (土)

石川啄木伝 東京編 185

 3月10日の日記と共通の内容だが、はるかに生き生きして臨場感のようなものさえ感じさせる。白秋や杢太郎や勇がもし東朝に就職して同じ仕事をしてもこのような刺激を受ける事はありえないだろう。世の中の出来事にこれほど鋭敏に反応できる文学者は当時の日本にもほとんどいないであろう。啄木の天才的感受性だ。
 その感受性は啄木を予言者にする。
 君も知つてる如く、下宿の僕の窓から砲兵工廠の三本の大煙突が見える。四五日前の或朝、僕は何時になく早く起きて窓に倚つて居た。と、彼の大煙突が一本の薄い煙を吐き出した。僕は其時初めて今迄煙の出てゐなかつた事に気が付いた。薄い煙は見る見る濃くなつた。大きい真黒な煙の塊が、先を争ふ様に相重つて、煙突の口の張裂けむ許りに凄じく出る。折柄風の無い曇つた朝で、毒竜の様な一条の黒煙が、低く張詰めた雨雲の天井を貫かむ許りの勢ひで、真直に天に昇つた。僕は我を忘れて一心に其壮景に眺め入つた。其何分かの間、僕は呼吸してゐる事を忘れてゐた。軈(やが)て僕は、更にそれよりも壮大な光景を欲するの情を起した。そして恁麼(こんな)事を考へた。――何(いづ)れの都会も、有りと有る工場を其中央に集める。幾千百本の煙突を合して唯一本の巨大な煙突を立てる。其煙突は現在見てゐる砲兵工廠の煙突より何百倍何千倍太く且つ高く、それから吐出す煙も現在見てゐる煙より何百倍何千倍太く且つ凄じい。そして都会と都会とは各々其煙突をより太くより高くせむことを競争する。(以下次回につづく)

2013年10月24日 (木)

石川啄木伝 東京編 184

 「足跡」以来作家としては無為のうちに過ごして来たが、吉井にたのまれた「スバル」4月号のための原稿を3月23日に考えた。締め切りは25日だ。
 24日「夜スバルの為に『島田君の書簡』をかく、亢奮して亢奮して」「三時までに漸く十一枚」。そして翌日「到々間にあはなかつたので朝に吉井に詫のハガキ」。
 「島田君の書簡」は二百字詰め11枚の断片だが、東朝入社が啄木に与えた刺激の新鮮さを示している。「島田君」は「同県出のU――新聞の編輯長の世話で其新聞の校正課に入つた」男で、「石川君」という友人に宛てた書簡の形式で展開する。島田君は入社の後の感想をつぎのように述べる。
 それよりもそれよりも急がしいのは頭脳(あたま)の中の生活だ。君、何と言つたら可(よ)かろらう! 見るもの、聞くもの、今までは我々と何の縁もゆかりも無かつた様な事件や問題までが、何時か浅草の活動写真で見た、手品師の手に随つて何処からともなく降つて来る赤い箱や白い箱の様に、僕の頭脳の中に飛び込んで来る。今迄僕の住んでゐた世界は何時の間にか消え失せて、遽かに広い、広い、一望坦として際涯なき戦場に自分の身を見出した様だ。社会のあらゆる事、物、それが四方八方から僕に挑戦してる様に見える。唯もう凝然(ぢつ)として居られない。何といふ事もなく一日電車に乗つて市中を飛び廻りたい様な気持がする。

2013年10月22日 (火)

石川啄木伝 東京編 183

 勤めに要する時間は午後の約4時間と往復の通勤時間だけなのだから、小説を書く時間は保証されている。その時間を啄木は貸本屋から借りた小説を読んだり、ジャーマンコースでドイツ語をやったりしてつぶしている。
 そのくせ与謝野寛が「創作の事について真面目になつてゐる」のを見ると、「あゝ、与謝野氏は、小説のために真面目になつてゐるのではない! 生活の為に!」などとピンぼけの批判をしている(日記3月13日)。自分だって生活のために小説を書くべく上京したのだ。
 3月16日「……財布には鐚一文ない」。そしてもう借りるところもほとんどない。19日「平出によつて一円かりる」。
 20日島崎藤村の『春』を貸本屋から借りて読んだ。啄木には共感するところの非常に多い小説であっただろう。翌21日藤村を浅草新片倉町に訪ね、歓談している。なおこの訪問の前の昼過ぎ与謝野宅で上田敏に会い、「(足跡)の女教師が面白い」と言ってもらった。鷗外の葉書にもあったが、「足跡」はこの両大家が賞めてくれるほどの作品ではあったのだ。

2013年10月20日 (日)

石川啄木伝 東京編 182

 啄木の言う「生きた世の中」は間もなく啄木に「国民生活(ナシヨナルライフ)」という一つのキイ概念を生み出させるであろう。
 しかし自己を対象化(直視)できない今の啄木には「生きた世の中」と自己との関係を対象化することなど思いも寄らない。「あゝ、それと予との間に何の関係がある」に落ち着く。
 「今日も大学館によつてみたが、昨日と同じ返事。」これは当然だ。そこで「仕方なく佐藤氏に前借のことをたのむと、面倒だからと言つて、自分で二十五円かしてくれた」。
 もう金の泉の尽きた金田一に代わって、今度は佐藤北江が頼られることになるだろう。
 帰宅し蓋平館に20円払って、5円残った。この5円遣わずにはいられない。それが啄木の金銭感覚だ。「九時頃出かけて、あゝ浅草に行つた。雨の浅草! つかれて腹がへつたので、馬肉屋でめしをくつて車でかへる、十二時半。」
 3月12日「せつ子から手紙」とあるが、啄木はその手紙になんの感想も記さない。心を動かす内容でなかったのであれば、節子の心はもう夫を離れたのかも知れない。

2013年10月18日 (金)

石川啄木伝 東京編 181

 3月10日。
 七時頃に起きた。雨。今朝の新聞は面白かつた。昨日の議会の三税廃止案の舌戦も愉快だ。多数党の横暴! それが却つて反語的に面白い。監獄から出た許りの或る男が八銭の飲食代に困つて小刀をふり回し、ランプをたゝきおとして火を放ち、そこからノコノコ出てトある橋の上で十二になる女の児が子供を負つて子守唄を唄ひ乍らくると、エヽ面倒臭いといつてそれを河の中につきおとしたといふ。一方には大学生で行方不明になつたのがある。又一方では奉天会戦の時一軍医が繃帯まきのいそがしさに発狂して、何をいひつけてもニヤニヤ笑つたといふ話がある。また実子をしめ殺した話がある。……生きた世の中の面白さ。あゝ、それと予との間に何の関係がある。予は戦ひたくなつた。
 小樽日報・釧路新聞で養われた世の中を見る眼が開かれた。これは文学者の狭い世界にこもったこの1年は閉じられていた眼であった。東京朝日新聞社に務めたのでこの眼がよみがえったのである。

2013年10月16日 (水)

石川啄木伝 東京編 180

 3月9日。
 出社の途中大学館へゆくと、急がしくてみないでゐるからアト五六日たつたら来てくれとの返事。
 「鳥影」はとても単行本にできる作品ではない。大学館はもてあましたのだろう。これから何度も先延ばしし30日に原稿を帰してよこす。先延ばしの度に啄木の苛立ちは募る。家族を呼ぶとて金を作り、借り、浪費する。もし大学館で出版したとしても(よほど目のない編集者でなければ出版はありえないが)、その金はまた浪費するに違いない。ともあれ、10日までに下宿代を入れる約束をさせられて啄木は大学館を金づると考え、そこから入る金を今一番当てにする。
 同9日の日記つづき。
 社で中村蓊といふ人と話した。生田森田辻村君らの友人で文学士、予は忘れてゐたが、以前二三度逢つたことのある人だ。
 中村蓊(しげる)は漱石門下である。森田(草平)は言うまでもない。啄木の「鳥影」を東京毎日新聞に世話してくれた栗原元吉も漱石門下である。そしてこの年1月25日から漱石は朝日文芸欄を開いて主宰している。啄木が特に親しく目をかけてもらうことになる朝日新聞の渋川玄耳・弓削田精一・池辺三山・杉村楚人冠らは漱石と親しい。
 その上啄木は経済的理由がきっかけとなって今観潮楼歌会から離れ始めている。「スバル」に拠る良家の子弟木下・北原・長田らは耽美派を形作りつつあり、啄木はこの運動に疎隔を感じ始めている。
 東朝(とうちょう)(東京朝日新聞の略称。以下時に応じてこれも用いる)就職と経済的・文学的理由によって、啄木は今森鷗外の圏内から夏目漱石の圏内に居場所が移りつつある。

2013年10月14日 (月)

石川啄木伝 東京編 179

 

御書状拝見とにかくパンの木御発見被遊候由珍重々々、先月の「足跡」処々の評に不拘好き出来と存候、先日上田敏にも相話候事に候。新聞のシゴトの許[す]限り著作に御努力所祈に御座候
 啄木日記からの引用であるが、正確に筆写された鷗外書簡と見なしうる。ようやく就職した啄木への鷗外の目は温かい。注目すべきは「足跡」の評価である。「処々の評に不拘」は「早稲田文学」3月号「小説月評」の中村星湖の酷評が主に念頭にあろう。このようなものであった。
 これは長篇の書き出しださうだから、作者に対する礼として何も言はない方がよからうが、読んだから思ひ付いた所だけを言つて置く。誇大妄想狂式の主人公を書くのは好い、作者まで一緒になつてはたまらない。
 「誇大妄想狂式の主人公」は間違っている。時代に先んじたこういう小学校教師が実在し、その教師とかれを中心に展開する岩手県の一寒村の教育現場をかなり鮮やかに形象化したのである。中村星湖にこれは理解できなかった。しかし形象化にあたってナルシシズムにおぼれてしまった点を、「作者まで一緒になつ」たと批判した。これは当たっている。
 鷗外は自信をなくしている啄木を励ます意味もあろうが、星湖の批判した部分は措き、この作品の価値ある部分を見て「好き出来と存候」と評価したのであろう。
 啄木は励ましと評価に感謝してこれを筆写したのであろう。

2013年10月12日 (土)

石川啄木伝 東京編 178

 3月6日は観潮楼歌会だが、夜勤のため欠席。森鷗外に申し訳の手紙を書く。「スバル」2月号における短歌軽視の編集は観潮楼歌会を主宰する鷗外への事実上の批判になっているので、言い訳の文面はきわめて鄭重である。末尾に「若し何日か池辺主筆にお逢ひの折も候はゞよろしく御申添置を奉願上度、さすれば小生の幸ひこれに不過候」と付け加えることも忘れない。
 3月8日、届いたばかりの「スバル」3月号で鷗外の「半日」を読んで「……恐ろしい作だ――先生がその家庭を、その奥さんをかう書かれたその態度!」と記す。鷗外十数年ぶりの小説が「半日」であった。明らかに自然主義を摂取しているが、そこに留まらない鷗外の高さがある。自己と妻と母と子とその全関係としての家庭を、さらに時代の風潮までを正確に対象化する冷静沈着な目がある。
 それらが全く出来ない啄木が「恐ろしい」と思うのは当然であろう。その鷗外が6日の手紙への返事をくれた。

2013年10月10日 (木)

石川啄木伝 東京編 177

 3日の手紙からは、平野とのケンカ以後について書いてある部分を引いておこう。
 ……その後ホントの喧嘩になつた。その平野の尻押をしたのは与謝野氏だ。然し喧嘩は全然僕の勝利に帰した。平出君(出資者)は全然雑誌の方針に於て僕の意見に賛   成だと公言した。そして平野が僕によこした喧嘩の手紙があつたのを、『スバルはアノ平野君の手紙を何人も認めないから』とまで言つた。
 勝つた! 勝つた予は、平出君に対する友情によつて、?一二ヶ月だけ署名人に僕の名を貸すことにして、そして三号は太田にやらした。

 スバルの発行・編集の中で啄木・平出の相互理解は急速に深まり、今は「友情」にまで発展した。この関係の発展は翌年発覚する大逆事件に際して極重要の意味をもつことになるであろう。
 同じ3日の日記によると水野葉舟の「ある女の手紙」(中央公論3月号)を「おもしろく、感心して読ん」でいる。何人もの女をもてあそぶ大学生とその大学生におぼれて行く若い女の性欲を、書簡体で書いたもの。これに惹かれる「作家」啄木のセンスは小栗風葉に惹かれるのと同様、「批評の根柢」の欠如を示している。
 3月5日には7銭しかない。2日に質屋で借りた8円のうち、1円は並木に渡した。あとの遣い道は天宗への払いと、雑誌と電車の50回券と名刺代と煙草代等々で消えたのらしい。そこで北原のところに行って1円借りて出社。

2013年10月 8日 (火)

石川啄木伝 東京編 176

 2日並木武雄の所に行ってかれの虎の子の懐中時計を借り、8円で質に入れる。その金で(天ぷら屋の)「天宗でのんで、先に北原と行つた時の借を払ふ」。また8円の借金だ。雪だるまのように膨らむ借金。
 3月2日3日郁雨宛に長い長い手紙を書く。
 2日の末尾に「三月末までに何とかして金を送つて家族をよびたいと思つてる。家の方頼む」とある。この気持ウソではないが本気でもない。この1年のなりゆきとしては家族を呼ぶのが当然とは思っている。しかし頭の中の半ば以上を占領しているのは、小説が書けない焦燥と自信喪失の恐怖。それが具体的にどう現れるかは、春陽堂・小奴からの計42円75銭の遣いぶりに見た。

2013年10月 6日 (日)

石川啄木伝 東京編 175

 

佐藤氏に面会し二三氏に紹介される、広い広い編輯局に沢山の人がゐる、一団づゝ、方々に卓子と椅子がある、そして四方で電話をかける声がしつきりなしに広い室内に溢れる、――つかれた、無理に張上げた声だ、――その中で予は木村といふ爺さんと並んで校正をやるのだ。校正長の加藤といふ人が来た、目の玉が妙に動く人だ、――校正は予を合せて五人、四人は四人ともモウ相応の年をした爺さんで、一人は耳が少し遠い、合間合間(2つ目の「合間」=くの字の踊り字)に漢詩の本を出して読んでゐた、モ一人の経済の方の校正は俺はモリ(ソバ)なんか喰はぬと言つてゐた。
 社会部の主任渋川玄耳といふ人は、髯のない青い顔に眼鏡をかけてゐた、
 五時頃初版の校正がすんで、帰つてもよいといふ、電車で帰つた、

 佐藤の親切が、発展中の大新聞社の活気が伝わってくる。佐藤は以後啄木の庇護者となる。どれほどかばってくれ、面倒を見てくれることか。
 校正係の人々を「爺さん」と呼んで馬鹿にしているが、これからずいぶん迷惑をかけ、助けてもらい、「木村といふ爺さん」からは金を借りたりもする(ただし利子付で)。
 玄耳渋川柳次郎は国民作家夏目漱石の朝日入社に際して、弓削田精一とともに重要な役割を果たしたが、一年後に国民詩人石川啄木を見出して伯楽にもなった。
 朝日新聞入社は啄木の生涯おける最大の事件の一つである。

2013年10月 4日 (金)

石川啄木伝 東京編 174

 昼飯をくつて電車で数寄屋橋まで、初めて滝山町の朝日新聞社に出社した、
 「朝日新聞社」は東京朝日新聞社(大阪の大阪朝日新聞社が母体)。当時東京屈指の大新聞。しかも池辺三山、佐藤北江、弓削田精一、杉村楚人冠そして新しく入社した渋川玄耳らを軸に紙面改革が飛躍的に進み、いよいよ大発展の時を迎えた新聞社であった。
 佐藤真一は雅号「北江(=北上川)」が示すように、岩手県盛岡の人。盛岡中学中退、17歳ころには文章に天稟を現し、自由民権運動・自由党の運動に深く関わるようになる(そしてこの思想傾向は脈々として一生を貫く)。一八歳のとき岩手県自由民権運動の先駆者伊東圭介(親友伊東圭一郎の父)らの紹介で自由党星亨の「めさまし新聞」に入社し編集者となる。入獄中の星から大阪朝日新聞の村山龍平が「めさまし新聞」を買収、東京朝日新聞社を創業したが(1888年〈明21〉7月)、19歳の佐藤は編集者としてそのまま同社で敏腕を振るう。啄木が入社したころは東京朝日新聞社最古参かつ名編集長として多くの社員の敬意を集め、同社の大幹部中でもひときわ声望が高かった。佐藤は「徳」の人で、その徳は同郷の人にも及び、「佐藤かぶれ」の青年たちがかれを頼ってきた。石川啄木もその1人である。 (ただし啄木がどうして急に佐藤を頼って手紙・履歴書・「スバル」2号を送ったのか今ひとつ分からない。1月6日に伊東圭一郎が遊びに来たが、その時の会話の中にヒントになるものがあったのかも知れない。)
 さて日記の続きを引こう。

2013年10月 2日 (水)

石川啄木伝 東京編 173

 かくて小奴から届いた大枚20円は1日で12円50銭になった。洋書も欲しかったろう、パンの会で騒ぎたっかったろう。遣った7円50銭のうちの5円でも送られていたなら、節子もカツもどんなによろこんだであろう。いや、節子の方の気持はもう切れていたであろうか。
 他方啄木の金銭感覚を異常といっても、遣ったのは本代とパンの会のいわば参加費だ。本はすぐ読み終わって2日後には1円30銭で売ってしまう。啄木がパンの会に参加するのはこのときが最後となる。第3回目であるこの会はまだ内輪の会合のようだ。
 パンの会が最初の高潮に達するのは4月10日のことだ。そのとき啄木はローマ字で日記を綴っているだろう。
 28日ハガキにしたがって北原宅に行き、鈴木鼓村に付き添われて大学館に「鳥影」を売り込みに行く。夕方下宿に10円払った。「百十何円へ十円!」と日記。
 3月1日初出勤の日だ。20円は45銭になっている。「嚢中四十五銭これではならぬとアート エンド モーラリチー」を売る。

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