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2013年11月

2013年11月30日 (土)

石川啄木伝 東京編 202

 こう記してからかれは出勤する。帰宅してこうつづける。
  Kesa kaite oita koto wa Uso da, sukunaku to mo Yo ni totte no Dai-itigi de wa nai.
「今朝書いたこと」のうちのなにを「噓だ」というのか。「それ〈理想〉なしには生きられぬ」をめぐるくだりであろう。
 それは「噓」ではないまでも「予にとっての第一義ではない。」人生上のあるいは文学上の「理想」など、いったいなにするものぞ。なんの偉さや尊さがそこにあるというのか。自分は日頃そう思っているではないか。(4月7日にも書いている。「Ningen no saigo no Hakken wa, Ningen sore jisin ga tittomo eraku  nakatta to yu koto da !」と。)
 「理想なしには生きられぬ」というのは啄木の本音だ。けっして「噓」ではない。しかし釧路時代以来「理想」がすっかり壊れたことも事実である。だから自然主義に接近したのであった。    旧本音と新建前の間で啄木はさまよっている。これは消耗するだけである。これに気づいたのであろう。突然論を転ずる。

2013年11月28日 (木)

石川啄木伝 東京編 201

 4月10日
 近頃人生観としての自然主義哲学の権威がだんだんなくなってきた。そして自分は自然主義の傍観的態度に満足できなくなってきた。作家の人生にたいする態度は傍観ではいけぬ。作家は批評家でなければならぬ。などと記す。
 この立場で書いたのが「足跡」であった。あの程度の「批評家」であれば、あのような作に結果し、それ以上の展開は不可能であったこと、すでに見たとおりである。しかし啄木が自然主義の行きづまりを直観していることはたしかである。
 つづけて理想に言がおよび、こう書く。
 Riso sono-mono wa yahari ‘ Life illusion’ da to site mo, sore nasi ni wa ikirarenu no da ―― Kono hukai Naibu no Yokyu made mo suteru to nareba, Yo ni wa sinu yori hoka no Miti ga nai.
 啄木は「理想」すなわちロマンチック(究極的にはかれの場合それは「天才」意識)を捨てられないのだ。

2013年11月26日 (火)

石川啄木伝 東京編 200

 そして真夜中おきよが京大生の部屋に夜這いに来たのを、障子に映った影によって知る。息をひそめて気配を聞く。 
  Rinsitu kara wa,toi tokoro ni Sisi(獅子)de mo iru yo ni、sono sewasii, atatakai,Hukisoku na Kokyu ga,kasukka ni kikoeru.Mi mo Kokoro mo torokeru Tanosimi no Mas-saityu da.
 金田一の嫉妬のてんまつの詳しい描写そしてこの夜這いの前後の描写、まるで出来のよい短編小説の一節のようだ。
 4月9日
 札幌の橘智恵子からの手紙をよろこぶ。意地わるくも昨夜のことを金田一に話し、金田一を苦しめてよろこぶ。忘恩の徒だ。
 社からの帰りの電車で京子に似た子を見る。
 初蛙を聞いてこう記す。
  Toku de Kawadu no Koe ga suru.  Ah, Hatu-Kawadu !  Kawadu no Koe de omoidasu no wa, 5 nen mae no Ozaki Sensei Sinagawa no Uti no Niwa, sore kara, ima wa Kunohe no Kaigan ni iru Hotta Hide-ko san !
 「Ozaki Sensei」は尾崎行雄。『あこがれ』は尾崎に捧げられたのであった。「Kunohe no Kaigan」は岩手県九戸郡種市村を指す。
 この3日間は思うさま表現できる場を得たよろこびで、向こうから飛び込んできたものをたのしそうに書き留めている。しかしこういうことを書くのがこの日記の目的ではなかった。

2013年11月24日 (日)

石川啄木伝 東京編 199

 4月8日
 下宿の女中は、下宿料がとどこおり、いぎたない啄木に対して相変わらず侮辱的態度をとる。腹を立てるが、もちろんがまんする。社の帰り工学士(東京帝大の卒業生)である友人と電車の中で一緒になる。向かいに腰かけている2人の老女に聞こえがよしに、東京のおばあさんはきらいだといい、いわずもがなの皮肉を友人に放ち、当惑するのを見て「kasuka na Shori(勝利)」(!)を感ずる。
 夜8時頃着物の裂けたのを縫うために針と糸を買いに出かける。そして針と糸を買わずに「yamero yamero」という心の叫びを聞きながら、今この日記を書いている洋横罫の「Tyomen(帳面)」と足袋とサルマタと巻紙と三色菫の鉢2つを買って帰る。
 「社から前借した残り五円が気になってしようがない」啄木は一番必要な品は買わずに、こういう買い物をした。
 Yo wa naze Hituyo na mono wo kau toki ni made 'yamero'to yu Kokoro no Koe wo kikaneba naranu ka? 'Iti-mon-nasi ni naru zo'to,sono Koe ga yu:'Hakodate dewa komatteru zo."to sono Koe ga yu!
 このあと金田一京助から、かれが好意をもっている女中のおきよが、ある京大生といちゃいちゃするのに嫉妬していると告げられる。

2013年11月22日 (金)

石川啄木伝 東京編 198

 「ツマリ コレワ フウフカンケイ ト イウ マチガッタ セイドノタメニ オコルノダ。フウフ! ナントイウ バカナ セイドダロウ!」といって妻子を捨て去るほどの「キョウシャ(強者)」ではない。「ソンナラ ドウスレバ ヨイノカ?」 自分はこの「馬鹿な制度」の被害者として生きるしかない。「カナシイコトダ!」
 
 ペンはまだまだ走っている。外に出ると東大構内の桜も一日で半分咲いてしまった。花見の人々が着飾ってぞろぞろ歩いている。蓋平館の隣室には京都大学のテニスの選手たちが騒いでいる。日記は自らのことよりも周囲の描写に主として向けられている。
自分の問題を書くのでなければペンは快調に走る。

2013年11月20日 (水)

石川啄木伝 東京編 197

 啄木のつぎのような思いをはさまないと理解できない。妻を「アイシテル」のも事実だが、妻の束縛に自分が苦しんでいるも事実である。右記の「束縛」などはまだいい方だ。今年一月一九日に杢太郎とこんな話をしたのだった。「(僕の最も深い弱みを見せようか?)と予は言つた。(何だ?)(結婚したつてことよ!)」
 以前にも書いたが、当時女の近代的職業は小学校教師と看護婦くらいしか無い。それらに就ける人はごく少数である。都市で暮らす女の大多数は、結婚し妻になることでしか生きて行けないのだった。あとは芸者・妾・娼婦……等になるか。
 節子も夫に自分の生涯を託した。結婚すれば子供もできる。妻・主婦・母・嫁の役割を果たしつつ、自分と子供は夫の稼いでくる収入で生活する。生きる道は基本的にはこれしかないのだ。ところが啄木はその妻子が自分の文学的人生の最大の障害・束縛つまり「最も深い弱み」だと思っている。(母はもっとも近い血縁であって、もともとは他人である妻とは同列ではない。)

2013年11月18日 (月)

石川啄木伝 東京編 196

 論理はさらにそれて、二つ目の「Sonnara」が出てくる。
  Sonnara Yo wa Jakusya ka ?  Ina, Tumari kore wa Huhukwankei to yu matigatta Seido ga aru tame ni okoru no da.  Huhu ! nan to yu Baka na Seido daro !  Sonnara do sureba yoi ka ?
    Kanasii koto da !

 このころ啄木が抱いていた「ジャクシャ(弱者)」の概念はこうである。他人の思惑、束縛、因襲など一切を顧慮せず、自らの思いのままに生きるのが「強者」で、それができないのが「弱者」である 。
 浅草で女を買った時の告白を愛する妻に読ませたくない、などと考えるのは「ジャクシャ」だ。どうして妻に自分の思うこと、書くことまで束縛されねばならないのか。
 それが「ソンナラ ヨワ ジャクシャカ?」となったのであろう。
 しかし「イナ」以下がすぐに続く。いきなり「フウフセイド」が出てくる。日記なのだから何を書いてもいいにしろ、まことに非論理の文章である。

2013年11月16日 (土)

石川啄木伝 東京編 195

 啄木は問題をすりかえる。啄木に似合わぬ非論理的な文章となる。先の「Mondai wa kore da……………」にすぐ続くのはつぎの文章だ。「Sonnara」に注意されたい。これは一体何を受けているのか。
 Sonnara naze kono Nikki wo Romaji de kaku koto ni sitaka ?  Naze da ?  Yo wa Sai wo aisiteru ; aisiteru kara koso kono Nikki wo yomase taku nai no da. ――Sikasi kore wa Uso da ! Aisiteru no mo Jijitu, yomasetaku nai no mo Jijitu da ga, kono Hutatu wa kanarazu simo Kwankei site inai.
 家族を呼ぶ準備ができない自分の問題を、日記をローマ字にした問題にすりかえた。
 「妻を愛してる」、だからこの「日記を読ませたくない」のだという。しかしすぐに打ち消す、「これはウソだ」と。
 論理は立ち消えになった。しかし文中に一片の真実はある。先に書いたように啄木はローマ字でなら自然主義者流の自己告白も可能と判断したらしい。ここにローマ字でなら書けるかも知れない告白の内容が暗示されている。それはたしかに妻には見せられないものだ。
 しかし四月一〇日に吐き出してしまうであろう。

2013年11月14日 (木)

石川啄木伝 東京編 194

 すると「表の中から……母や妻のことが浮かんで」きたのであった。つづきを読もう。
  “Haru ga kita, Sigatu ni natta.  Haru !  Haru !  Hana mo saku !  Tokyo e kite mo itinen da …………Ga, Yo wa mada Yo no Kazoku wo yobiyosete yasinau Junbi ga dekinu !” Tika-goro , Hi ni nankwai to naku, Yo no Kokoro no naka wo atira e yuki, kotira e yuki siteru, Mondai wa kore da……………
 家族上京の準備をまだ本気になって考えていない。日記に向かっていかにももっともらしく悩んでみせているにすぎない。
 なぜならかれはすでに東京朝日新聞の社員である。月給は夜勤込みで三〇円が保証されている。この定収入は四人家族の最低限の生活を保証する額である。蓋平館はこんな払いの悪い下宿人は出ていってもらいたいであろうから、将来の償却を約束すれば下宿を出られるであろう。新しい家を借りる金や当座の家族の生活費はどうするか、宮崎郁雨などに援助してもらえばよいであろう。地道につましく生活し、臨時収入の道を講じてゆけば明治末の東京人のごく一般的な生活はゆくゆく可能となるであろう。こうして、啄木が本気で家族を呼びよせようとすれば、二ヶ月後に――いやおうなしにだが――それができたように四月の今でもそれはできるのである。
 「Sonnara」、なぜそうしないのか? こう問題を立てれば一気に問題は解決に向かいうる。ローマ字の日記も不要になるかもしれない。ただしその場合矢は深く真っ直ぐに自分の胸に立つ。

2013年11月12日 (火)

石川啄木伝 東京編 193

葛藤の動因は単純である。
1、自己の現状を直視できぬ
2、事実が直視を迫る

APRIL. 
TOKYO 
7TH. WEDNESDAY.
HONGO-KU  MORIKAWA-TYO  1 BANTI.
SINSAKA 359 GO.  GAIHEI-KAN-BESSO NITE.

と記されておもむろに本文がはじまる(4月7日、水曜日) 。
 Hareta Sora ni susamajii Oto wo tatete, hegesii Nisikaze ga huki areta.
 字数に制限がないから、さしあたり何を書いてもよいのだ。風が巻き上げる砂埃も、午後には落ち着いた。暖かい春の一室に貸本屋のおやじが入ってきた。桜の開花と人出を話題にする。昨日社から前借した残り5円が気になってしようがないという。
 Siyo koto nasi ni, Roma-ji no Hyo nado wo tukutte mita. Hyo no naka kara, toki-doki, Tugaru-no-Umi no kanata ni iru Haha ya Sai no koto ga ukande Yo no Kokoro wo kasumeta.
 ローマ字の日記を始める前に「ローマ字の表」を作るべきであろう。書き始めてから表を作るとはどうしたことか。
 先に見たようにこの「帳面」を買って来たのは翌日の8日なのであった。だから実際には7日に「ローマ字の表」を作ってローマ字書きの準備をしていたのである。そしてこの7日の日記は8日に書いているのである。

(啄木の「ローマ字日記」は必ずローマ字で読まれるべきものである。そうすれば間もなく一語一語紙面に刻むペンの軋みが聞こえて来だろう。やがてそれはペンが魂に刻む軋みとなって聞こえて来るであろう。)

(このブログでは、長音符を表記できないため、例えば、「表」のローマ字表記は「Hyo」のようになる。文脈の中で字義を読み取られたい。)

2013年11月10日 (日)

石川啄木伝 東京編 192

 この11ヶ月間啄木はほとんど他人の金で生きてきた。その金の泉はほぼ枯渇した。金田一には十二分に援助したもらった。金田一はもう結婚資金もないほどである。小奴からはもう25円も借りた。堀田秀子は何かの事情で金を貸すのが難しいらしい。春陽堂からは森鷗外をバックにして22円75銭巻き上げた。大学館の「鳥影」出版計画は潰えた。あとは、平野の洋書を借りだして質に流してしまうとか、平出から1円、太田から1円、北原から1円といった借り方をするだけである。
 就職して月給が入るようになってもすぐに「前借(ぜんしゃく)」してしまった。あとは前借の繰り返しはできても、それは月給の使い込みの繰り返しでしかない。蓋平館には百何十円かの負債がある。これ以上滞ると食と住を失う。家族を迎えるどころではない。
 ところで啄木はこの5ヶ月間少しでも金が入ると、女を買うか、活動写真を見るか、酒や食事に走るか、洋書を買うか等々をした。これらは小説を書けない苦しみを紛らわすための「逃げ場」であった。金が入らなければそれらの「逃げ場」は無くなったに等しい。
 「逃げ場」を短歌や詩に求めた時期もある。それもいまや失せた。短歌は遊戯分子が多くて本気になれない。詩はもう書く気がしなくなっていたところへ『邪宗門』が届いた。詩を書く気など起こりようもない。こうして詩歌という「逃げ場」も無くなった。
 「逃げ場」は今やほとんど無い、これが4月7日の啄木の現実である。小説が書けなくて呻吟する啄木を小説に向かわせる惨酷な動力が一つ加わった。『邪宗門』である。最高のライバルとして競った天才北原白秋の輝かしい成功。もう一人の「天才」が『邪宗門』に匹敵する小説を書けなくてはあまりに無残な敗北ではないか。自信の無いかれの胸中で負けじ魂だけがのたうつ。負けぬためにも、「天才」を証明するためにも、小説を書かねばならぬ。
 かくて「ローマ字日記」はほとんど唯一の「逃げ場」となり、小説を書けない啄木の精神の葛藤のほぼ全てがここに注ぎ込まれることになる。
 

2013年11月 8日 (金)

石川啄木伝 東京編 191

  ローマ字日記の世界  
 

 さて、これからローマ字日記の世界に入り込むわけであるが、書き手の生活条件が上京以来のこの11ヶ月間で二進(にっち)も三進(さっち)もゆかなくなったことを確認しておきたい。
 この11ヶ月間家族の上京を引き延ばし引き延ばししてきた。宮崎郁雨の援助と妻節子の健気な代用教員就職が辛うじてそれを可能にした。しかし今や先延ばしは許されなくなってしまった。啄木は家族を迎えるためにも東朝に就職した。そこで郁雨にも約束した。「三月末までに何とかして金を送つて家族をよびたいと思つてる」と。母カツは完全に本気になっている。函館にはいたくない深刻な理由もできたらしい。家族の近々の上京は必至となった。家族の上京引き延ばしという「逃げ道」はほぼ遮断された。

2013年11月 6日 (水)

石川啄木伝 東京編 190

 この試みを実行するには現在用いている当用日記では不都合である。毎日の記入部分が制限されているからだ。その日その日思う存分書き込める日記帳でなければならない。
 そこでかれはローマ字日記用のノートを用意することにした。4月7日は思うようなノートが見つからなかったらしい。4月7日分の記述は何らかの形でメモしておいたらしい。そして8日にようやく気に入った「Tyomen(帳面)」を買って来た。そして4月7日分からローマ字日記を始めた。これが4月6日、7日、8日の啄木の動きと思われる。
 買って来た「Tyomen(帳面)」は背革黒クロース装の豪華堅牢なもので、洋横罫、1ページ23行、紙数231枚、寸法は縦20、5センチ、横15、9センチである。
 小説に行き詰まった啄木のこの実験に対する意気込みの察せられる買い物ではある。

2013年11月 4日 (月)

石川啄木伝 東京編 189

 出勤し社で18円前借りした。金ができたので浅草へ行って活動写真を見、お定まりコース塔下苑へ。12時に帰って下宿へ10円納め、残りは5円。
 この6日間ローマ字で日記をつけてみて、つぎのことを実感したと思われる。
 漢字仮名交じり文は書いた内容が反射的に紙面から返ってくる。これに反しローマ字で書いた文章は、1字1字読み直すことを要求する。つまり書いた瞬間に視覚的印象から相対的に独立した一つの世界になってしまう。別な言い方をすれば、書いたものは紙面に吸収されてゆく一方で、書くほどに向こう側(紙面)に堆積してしまう。書きたいけれどその書いたものは読み返したくないという書き手には、これはありがたい作用である。
 啄木はこれまで見てきたようにたとえば「連想」や「足跡」で、自然主義者にならって自己告白しようと試みた。できなかった。しかしローマ字でならそれが可能ではないかと判断したらしい。

2013年11月 2日 (土)

石川啄木伝 東京編 188

 

……あゝ三月も末だ、そしてアテにしてゐた大学館がはづれて、一文なしの月末!
 4月3日、啄木に敗残の現実を否応なく映し出す鏡が届いた。北原白秋の絢爛たる第一詩集『邪宗門』(易風社)である。そしてこのときから日記はローマ字表記となる 。
   Kitahara-kun no Oba-san ga kita. Sosite kare no Sin-Shishu “Jashumon”  wo 1satu moratta.
   Densha-tin ga nainode Sha wo yasumu. Yoru 2ji made “Jashumon” wo yonda. Utukusii, sosite Tokushoku no aru Hon da. Kitahara wa Kohukuna Hito da !

  Boku mo nandaka Si wo kakitai-yo na Kokotomoti ni natte neta.
 4日、白山御殿の木下杢太郎を訪ねて1円借り、通勤電車代を確保。
 6日、白秋に『邪宗門』の感想を書き送った。その内容は日記によると以下のようである。
   “Jashumon”niwa mattaku atarasii futatu no Tokucho ga aru: sono hitotu wa “Jashumon” to yu Kotoba no yusuru Renso to itta yo na mon de, mo-hitotu wa kono Sishu ni afurete iru atarasii Kankaku to Jocho da. Sosite, Zensha wa Shijin Hakusyu wo kaisuru ni mottomo hituyo na Tokushoku de, Kosha wa Kongo no atarasii Si no Kiso to naru-beki mono da. ………

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