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2014年1月

2014年1月30日 (木)

石川啄木伝 東京編 232

 Ah ! Kesa hodo Yo no Kokoro ni Shi(死) to yu Mondai ga chokusetsu ni sematta koto ga nakatta.
 また「持薬」を飲んでいる(死ぬことを思っている)。
 今日は社に行こうか行くまいか、いやそれよりもまず死のうか死ぬまいか。そして台町の湯屋に行く。からだを洗い湯につかっているうちに、死のうか死ぬまいかの問題はいつしか、湯から出ようか出まいかの問題に移っている。
  Mizu wo kabutte agatta toki, Yo no Kokoro wa yohodo karokatta.
 「持薬」の効果はてきめんだ。
 湯屋を出ると「Kaku no da !」という気が起こる。往生際が悪いというべきか、不撓不屈というべきか。
 書く気を起こして部屋に帰って間もなく、今度は宮崎郁雨からの手紙。
  Yo wa ………… !  Miyazaki kun wa, 6gwatsu ni nattara Yo no Kazoku wo Tokyo ni yokoshite kureru to yu.  Ryohi mo nani mo shinpai shinakute mo ii to yu.
 金と家族上京というパンチが今日は左右のボディを襲う。それでも出社はする。
 このような事態が起こって、しかも少々の金がある。またその金は帯に短したすきに長し、遣い道がない(!?)半端な額だ。こういうとき啄木はどんな行動をするか、先が見える。

2014年1月28日 (火)

石川啄木伝 東京編 231

 4月26日
  Me wo samasu to Hibachi no Hi ga kiete ita.  Atama no naka ga jime-jime shimette iru yo na Kokoromochi datta.
 貧乏な詩人はわずか7円の金を手にして気もそぞろになり、昨夜は吉原見物をしたのだったが、欲求不満がのこる。今ある6円なにがしのうちから、”大金”何円かをはたいて、吉原は無理でも千束町で欲望をはらしてくるとしたら、自分の現在の事情からして、どんなに無謀かつ罪なことかを、一往は知っている。踏ん切りがつかぬ。それで「じめじめ」しているのであろう。
 そこへ並木からのはがきがついた。今月中に入質中の例の時計を返してほしいという。
  Sore wo miru to Yo no Atama wa sukkari kuraku, tumetaku, shimeri-kaette shimatta.
 並木もきのうが給料日だと知っているから、このはがきを出したのだろう。8円+利子がなければ請け出せぬ。もう6円なにがししか手持ちがないことであろう。2円か3円工面しなければ請け出すことはできないが、そんな工面の余地はどこにあろう。いやいや下宿代の催促が耐えられぬほどになされるであろう。10円や20円入れなければ、なにをいわれどんな待遇を受けることになるか。それどころか、もうすぐ家族が上京してくる!「暗く、冷たく、湿りかえ」るのももっともだ。

2014年1月26日 (日)

石川啄木伝 東京編 230

 この感懐はつぎの歌に結晶する。 
  快きあはれこの疲れ息もつかず仕事をしたる後のこの疲れ
 五月に出た「莫復問」から数首引いてみよう。
  森の奥より銃声聞こゆあはれあはれ自ら死ぬる音のよろしさ
  空家
に入り煙草のみたることありき独り在りたき切なる願ひに
  そことなく蜜柑の皮の焼くる如きにほひ残りて夕となりぬ
  うら悲しき夜の物の音
(ね)洩れくるを拾ふが如くさまよひ行きぬ
  ひとならび泳げる如き家々の高低
(たかひく)の軒に冬の日の舞ふ
 4月24日
 金田一が書けと励ましてくれるが興がわかない。
 下宿・女中からの「虐待」はあるものの、この数日間は少々平穏である。そろそろ何かが起こりそうだ。
 4月25日
 25日は給料日だ。現金7円と18円分の前借証とを受けとる。7円とはいえ金がはいった以上落ちつかなくなるのは必定だ。7円があるうちは金をもったときの逃避行動のパターンがどこかで出るはずだ。金田一を誘って散歩へ。生まれてはじめて、不夜城吉原の見物だ。金田一も隅に置けない。これは2度目か3度目の吉原見物だとのこと。ふたりは帰宅してからも興奮がさめず、きわどい話をし、妄想を語り合って、寝る。

2014年1月24日 (金)

石川啄木伝 東京編 229

 4月22日、23日
 この2日間は「スバル」のための歌を作ってすごす。つとめに出たのこりの時間が2日分あれば、「莫復問(ばくふくもん)七十首」にまとめ上げるのなど簡単なことだ。
  Yo ga jiyu-jizai ni Kushi(駆使)suru koto no dekiru no wa Uta bakari ka to omo(思う)  to ii Kokoromochi de wa nai.
 啄木という歌の天才は精神にかかる抑圧が大きいほど、歌が豊かに湧き起こるという特徴があること、すでに見た。そして歌作がストレス解消になることも。したがって歌作に集中したこの2日間の記述は楽しそうである。
 Nani ni kagirazu ichi-nichi Hima naku Shigoto wo shita ato no Kokoromochi wa tatoru(例うる) mono mo naku tanoshii.   Jinsei no Shin no fukai Imi wa kedashi Koko ni aru no daro !

2014年1月22日 (水)

石川啄木伝 東京編 228

 6月27日から東京朝日新聞に連載され始める夏目漱石の「それから」は、文学者が「国民生活(ナシヨナルライフ)」をその作品に取り込む一つの模範を示すことになろう。
 社からの帰宅後平出修から電話。「スバル」5月短歌号の原稿の催促だ。
 Iikagen na Henji wo shita ga, hm ! tsumaranai, Uta nado !
と思う。そして下宿を飛び出して、活動写真を見て、あてもなく1時間も電車に乗った。4月11日同様、歌など真面目に作っていられないのが今の啄木だ。たしかに「スバル」の連中とは生活条件が違いすぎる。
 4月21日
 朝の9時に、去年赤心館にいた頃いきつけていた湯屋に行く。一枚ガラスの窓には朝のすがすがしい日光に青葉の影がゆらめいている。そこでこの1年間の追憶にふけっていると……(ここで日記は突然英語に変わる。以下はその要旨)、もうすぐ家族がやってくる夏、つまりdreadful summer(恐ろしい夏)のイメージがうすれ、ある熱した若々しい明るさがよみがえってくる。そして人生はそんなに暗くも苦しくもないように思えてくる。太陽はかがやき、月はおだやかだ、と思う。記述が楽観的になってきた、読み手もほっとする。
 とたんに以下の記述(要旨)がつづく。
 もし自分が金を送らず、東京に呼ばなければ、母と妻は別の方法で食ってゆくだろうと思う。自分は若いんだ。下宿の催促がなんだ。下宿は東京にはいくらでもある。今持っているのは5厘だけだが、それがなんだ。
 エネルギーあふれる窓外の緑と夏近い朝の湯槽はこの日頃になく啄木の気分を大きくしてくれるらしい。責任回避の願望が大手をふるっている。
 社から帰ると今夜も平出修から原稿催促の電話。「スバル」同人間にあって啄木の短歌における存在感は「石破集」以来特別の重みをもっていたのであろう。

2014年1月20日 (月)

石川啄木伝 東京編 227

 この小説断片にはつぎのような興味深い記述がある。
 (しか)とは言へないが、何か知ら、吾々が平常(へいぜい)文学仲間と共に、無造作に使つてゐる「人生」といふ言葉について、恥づる様な気持も起つた。吾々日本人の国民生活(ナシヨナルライフ)には、まだまだ吾々末流作家の想像も及ばぬ、広漠たる亜米利加(アメリカ)大陸がある。小使豊吉! 彼も其大陸の住民の一人だ、と、こんな考へも浮んだ。或はこれは、近頃吾々が土耳其(トルコ)の政変に関する倫敦(ロンドン)なり伯林(ベルリン)なりの電報を読んで――日本の現状と何の関係なき他国の内情に対して起す興味なり熱心なりと、同じ様なものかも知れぬ。
 新聞社勤務がもともと広大な啄木の視野を一層広めかつ深めていること、すでに「島田君の書簡」(3月24日起稿)で見た。かれの視野は釧路新聞で連日十数種の新聞を読むことで飛躍し、あの卓越した論説諸編となった。今や「国民生活(ナシヨナルライフ)」というカテゴリーを獲得したようである。そうして文学者としての自分が「国民生活(ナシヨナルライフ)」と関わりがあるとの認識を持ち始めたようだ。

2014年1月18日 (土)

石川啄木伝 東京編 226

 4月19日
 下宿の虐待はいたれりつくせりだと、くやしそうに記す。もちろん何をされても啄木はがまんする。
 この日も小説に挑戦する。「小使豊吉」改め「坂牛君の手紙」と題して書き出す。5行も書かぬうちに12時になって出社。返って「坂牛君の手紙」をローマ字で書き出すが、疲れて10時には寝る。
 4月20日
 朝早く新来の女中が火鉢に火を移しに来る。うす目をあけて床の中から見ると、渋民の郵便局の娘に似ている。再びまどろむ。
 Te araku Shoji wo akete Otsune ga haitte kita : soshite Hibachi no Hi wo motte yuku.  Yo ga Me wo aku to,
    “ Anata no tokoro e wa ato de motte kimasu.”
    “Gyakutai shiyagaru ja nai ka ? ” to, Yo wa Mune no naka de dake itta ga, tsui Kuchi ni dete shimatta.  Otsune wa Kao-iro wo kaeta : soshite nan to ka itta.  Yo wa “ mnya mnya ” itte Negaeri wo shita !

 今日も虐待される啄木。自業自得か。
 5年前「大空地と断て、さらずば天(あめ)よ降りて/この世に蓮充(はしみ)つ詩人の王座作れ」(「沈める鐘」)と言い放った詩人、三年前でさえ「われこそは天才なり(雲は天才である)」と豪語した詩人は、今寝床の中だ。
 起き出して「坂牛君の手紙」2枚を書く。(まだ書こうとする!)そして出社。

2014年1月16日 (木)

石川啄木伝 東京編 225

 4月18日
 節子からはがきが届く。啄木は息をぬく間もなく、金と家族に責めたてられる。今日は家族だ。京子が近ごろまた具合がわるいという。夫がいないので心細い、手紙がほしいという。今日は11時ころまで床の中で、社に行こうか行くまいかと迷っていた(!?)啄木だが、「To-ni-kaku Sha ni yuku koto ni shita.」。節子のはがきを読んで、気をとりなおしたのと、女中どもに「今日も休んでる」と思われたくなかったからだ。でも、「Nani, Iya ni nattara Tochu kara dokka e asobi ni iko !」。朝日新聞社もとんだ社員をかかえたものである。
 文学のデーモンにとりつかれている当の啄木にとっては、老母も愛妻もいとし子さえも束縛なのだ。会社など、それ以下であっても不思議はない。しかしまた「社」こそ森鷗外が言ってくれたように「パンの木」であって、文字どおり命の素であることも啄木は分かっている。だからこの日から28日まで一度も休みをとらないで、出社する。
 社では校正の合間に、小樽で新聞を起こすことを空想し、ロシア領の北樺太へ行っていろいろの国事犯に会うことなどを妄想する。北海道旭川でイギリス人女性の下で「神のため」に働いている妹の光子からの長い手紙に接し、「awarenaru Imoto wo omo no jo(思うの情) ni taenu.」と記す。そして父母、光子、妻子で一緒に晩餐をとることができたら……と思う。

2014年1月14日 (火)

石川啄木伝 東京編 224

 そしてまた「茂吉イズム」というのを書こうとする。啄木の「弱点」の「頑強」さに舌をまくしかない。昨夜のこともあり、金田一が『独歩集第二』をもって部屋に来てくれる。かれが部屋を出て行くと「mata iya na kangae-goto wo tsuzukenakereba naranakatta.」。
 「嫌な考えごと」とは何か、おそらく並木に返すべき金のことであろう。「Sha ni wa Zenshaku(前借)ga aru si ……………」がつづいているから。「soshite, kakenu !」
 今日は「金がない」にはじまって「書けぬ」にひとまずおちつく。が、再び書こうとする。しかしだめだ。
  Naki-tai ! Shin ni naki-tai !
    “ Danzen Bungaku wo yame yo. ”to hitori de itte mita.
    “ Yamete, dosuru ?  Nani wo suru ? “
    “Death !
(死!)” to kotaeru hoka wa nai no da.
 啄木は文学(=小説)か死かという二者択一から抜けだせない。「書けない」という事実の直視はかれにとって生存理由の崩壊に直結しているとの妄念から抜けだせないからだ。
 苦しまぎれに田舎への逃亡を考えることで、深刻な問題の追求を回避する。「Itsuso Inaka no Shimbun e de mo iko ka !」「Shikashi……」とすぐ理由にならない理由をつけてその線をうち消す。田舎へ行っても家族を呼ぶ金は容易にできないから、……と。
 「Sonnara, Yo no Dai-ichi no Mondai wa Kazoku no koto ka ?」 こう問いをたてるが、再び問題を回避しすりかえる。「To-ni-kaku Mondai wa Hitotsu da.  Ika ni shite Seikwatsu no Sekinin no Omosa wo kanjinai yo ni naro ka ? ――kore da.」
 なにが「とにかく」で、何が「これだ」だ。ローマ字日記そのものが逃げ場になっている。

2014年1月12日 (日)

石川啄木伝 東京編 223

 4月17日
 10時ころ並木武雄に起こされる。ズーンと深い不快感を感じる。かれの時計を入質してあるのだ。請け出して返すべき当の相手がきたわけである。4月7日に5円しかなく、その後も「やめろ、やめろ」という心の声を聞きつつ、あるいは「馬鹿な」と思いつつ、また日常の用に迫られて、出費した。きのうは宮崎への手紙に同封して母に1円送った。8円を返すアテなどどこにある。
 今日の悩みは家族上京のことではなく、金のことではじまった。社を休んで、「赤墨汁(インク)」 というのを書こうとする。自分が自殺することを書くのだ。ノートに3枚ほど書いた。
   …… soshite kakenaku natta !
   Naze kakenu ka ?  Yo wa totei Yo-jisin wo Kakukan
(客観) suru koto ga dekinai noda.  Ina.  To-ni-kaku Yo wa kakenai ――
 今日も「書けぬ」ことを痛感するとともに、なぜ書けぬかをうっかり考えそうになる。「予はとうてい予自身を客観することができない」からだと思う。自身を客観することがなぜできないのか。客観すべき自己自身の核心は何か。それは分かっている。「連想」「赤痢」「足跡」でそれなりに触れようとした、避けようとした。いや去年4月22日大島経男宛書簡を書いた時すでに分かっていた。避け続けて来たのだ。昨夜うっかりそれを書いたために狂気を発したのだった。「否、とにかく予は書けない」と考えることを打ち切る。

2014年1月10日 (金)

石川啄木伝 東京編 222

 啄木は立ち上がって金田一の部屋にゆく。そこで数限りの馬鹿真似をする。
 soshite Saigo ni Yo wa Naifu wo toriagete Shibai no Hito-goroshi no Mane wo shita. Kindaichikun wa Heya no soto ni nigedashita !  Ah ! Yo wa kitto sono toki aru osoroshii koto wo kangaete itatta ni Soi nai ! 
 Yo wa sono Heya no Dento wo keshita, soshite Tobukuro no naka ni Naifu wo furiagete tatte ita ! 

 どうしても自分の正体と向き合えない啄木が、その苛立ちを友人にぶつけることはこれまたわれわれに周知の行動の型であった。もっともおそろしいものを思わず引きずり出してしまった啄木は、この夜もっとも激烈な狂気を発した。以後この正体を日記の中に引きずり出すことはない。

2014年1月 8日 (水)

石川啄木伝 東京編 221

 しかし、家族上京のための具体的段取りが問題となり、それに対応せねばならなくなると「死にたくな」るのだ。「書けない」という事実がささやきかけてくる恐ろしい結論を何としても封じ込めようとして、必死の形相で抵抗している啄木には、事ここに至っても家族を迎える精神的余裕はない。かれが闘っているのが幻想上の敵、錯覚にもとづく敵であったとしても、当の啄木にとっては、自分の生存理由の根幹を断ち切ろうとして迫ってくる最強最大の敵なのである。家族3人を自分にしがみつかせてどうして闘いを続行しえようか。こう感ずるから「死にたくなった」と記すのだ。そして、
  Yo wa Sakuya no Tsuzuki ―― ‘ Hana no Oboroyo ’ wo utsushite, Sha wo yasunda.
 夜金田一が励ましに来てくれる。あらん限りの馬鹿まねをして金田一を部屋にかえした。
 Soshite sugu Pen wo totta.  30pun sugita.  Yo wa Yo ga totei Shosetsu wo kakenu Koto wo mata Majime ni kangae neba naranakatta. Yo no Mirai ni Nan no Kibo no nai koto wo kangaeneba naranakatta.
 とうとう呼び出してしまった、「小説を書けぬ自分」という正体を。「ローマ字日記」全体で正体をこんなにあからさまに呼び出すのはここだけである。この正体を直視するか。しない。

2014年1月 6日 (月)

石川啄木伝 東京編 220

 この日の朝も下宿代の催促。書ける作家なら奮起もしよう。書けない作家に催促は「Nani wo suru Ki mo」なくさせる。どこまでもやさしい金田一がまさかの時にはこれを質に入れて遣えと言ってくれたインバネスで2円50銭つくった。前の質の利子を50銭入れ、2円持って上野の方へ足を伸ばす。広小路の商品館の中を歩いているうちに「Baka-na ! to omoi nagara, sono naka no Yoshoku-ten e haitte, Seiyo-ryori wo kutta.」
 4月16日
 この日の日記によると昨夜は例の春本を3時頃まで筆写していたのだという。書けないのだ。もう書けないのだ。昨日の逃げ場は西洋料理であったが、昨夜の逃げ場は春本の筆写だった。「ah , Yo wa ! Yo wa sono hageshiki Tanoshimi wo motomuru Kokoro wo seishi kaneta ! 」…… そして「Iyo naru Kokoro no Tsukare wo idaite」起きた。
 枕許に、宮崎郁雨からの手紙! 
  家族上京の件に決まっている。返事を書く。
 Yo no Seikwatu no Kiso wa dekita, tada Geshuku wo hikiharau Kane to, Uchi wo motsu Kane to, sore kara Kazoku wo yobi-yoseru Ryohi  !  sore dake areba yoi ! Ko kaita.  Soshite shini-taku natta.
 最後のセンテンスを読むまではついに啄木は年貢をおさめるのか、とも思う。虫のよい、甘ったれた条件を羅列してはいるけれど。

2014年1月 4日 (土)

石川啄木伝 東京編 219

 光子は旭川に行ったから、今函館では節子・カツ・京子の3人暮らしである。代用教員という勤務があり当直もある節子はある程度家を空けることができた 。そうした事情はカツの先ほどの手紙にもうかがえる。上京・別れの日も近づいている。節子と郁雨の関係が飛躍する日は遠くないだろう。
 夫はそれも知らずに、ひとまず賛歌を書いた。そして他の女性たちとのさまざまな関係があっても、節子への最愛を確認する。
  hito no Tsuma to shite Yo(世)ni Setsu-ko hodo kaaiso na Kyogu ni iru mono ga aro ka !?
 しかし節子をそれほど「可哀相な境遇に」追い込んでいるのは、自分の身に合わない野望(修練もなしに作家になろうとする)と家長としての無責任である。それを直視することは怖いから避けてこうつづける。
  Genzai no Fufu-seido ―― subete no Shakwai-seido wa Machigai darake da. Yo wa naze Oya ya Tsuma ya Ko no tame ni Sokubaku sareneba naranuka ?  Oya ya Tsuma ya Ko wa naze Yo no Gisei to naraneba naranuka ?
 悪いのは自分ではない。夫婦制度その他の社会制度が悪いのだ。まちがいだらけの制度のために妻子老母の扶養という束縛を自分は受けるのだ。妻子老母が自分の犠牲になるのは自分が悪いのではない、制度が悪いのだ。
 この無責任男の妻「ほど可哀相な境遇にいる者があろうか!?」 無責任の付けを啄木は死ぬまで払いつづけることになろう。

2014年1月 2日 (木)

石川啄木伝 東京編 218

 4月15日
 「Ina ! Yo ni okeru Setsu-ko no Hitsuyo wa tan ni Seiyoku no tame bakari ka ?  Ina ! Ina ! 」
 母のことをきのう書いたが、もう一人の気になってしかたがない存在、妻節子のことを思う。
 結婚すれば恋は必ず褪めるものだ。たしかに節子への恋はさめた。しかし、
 Setsu-ko wa Makoto ni Zenryo na Onna da.  Sekai no doko ni anna Zenryo na, yasashii, soshite Shikkari shita Onna ga aru ka ?  Yo wa Tsuma to shite Setsu-ko yori yoki Onna wo mochi?uru to wa doshite mo kangaeru koto ga dekinu. 
 たしかに節子は善良でやさしくてしっかりした女性だ。これは節子賛歌である。しかし節子が他方できわめて自律的な女性であることを啄木は忘れている。彼女は自分自身で立てた規範に従って行動する人なのだ。だからこそ少女時代に父をあざむいてなんども石川一とはげしいあいびきを重ねのだ。父母・友人・知己の反対を押し切って啄木と結婚したのだ。

2014年1月 1日 (水)

謹賀新年

 あ け ま し て お め で と う ご ざ い ま す 
 
昨年6月初め、突然石川啄木伝の仕事を横に置いて『最後の剣聖 羽賀凖一』という本を書き始めました。東大剣道部時代からの親友に「お前しか書ける者は居らんぞ。書け」と酒席で煽られたのがきっかけでした。
 この転轍に際して、研究者としてのわが残り寿命を本気で測定しました。石川啄木伝とこの仕事と、何とか間に合うだろうとの結論に賭けました。  
 
四百枚ほど書きました。早く仕上げたいのに、新しい問題が絶えず湧いてくる。石川啄木伝と同様の、わが菲才に因る泥沼化が始まっています。

みなさまにはご平安の新年でありますよう。

 2014年元旦   近   

 

 今年出した年賀状をご訪問下さったみなさまにも差し上げました。
 1月2日から昨年12月30日を引き継いで、石川啄木伝東京編を載せてゆきます。ご訪問下さい。干支とは無関係ですが猛虎のように、今年も石川啄木の読者を求めて行きます。お力添えをお願いいたします。

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