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2014年3月 6日 (木)

石川啄木伝 東京編249

  時として私は新橋なり上野なりの停車場(ステエシヨン)に行つて、急しく出つ入りつする人々を見ながら何時間を過すことがある。又、用もないのに電車に乗つて町々を乗廻してる事がある。又時として、下宿の催促に居たヽまらず、頭を下げて社から前借した金を以て、とある処に柔かい腕に抱かれて凝然(じつ)として目を瞑(つぶ)つてゐる事がある。――凡ては私の卑怯なる性質の反映だ。痛ましき我が姿を白地(あからさま)に見ねばならぬ恐ろしさに、私はさうして耳を塞ぎ目を瞑つて逃げ廻つてゐるのだ。

  これはこの5月4日起稿の小説断片「追想」の一節である。
 「凡ては……」以下はわたくしが繰り返して指摘してきた「ローマ字日記」のモチーフそのものである。ここの叙述はある意味で去年4月22日に大島流人宛てに書いた書簡と本質は同じとも言える。
 「私の卑怯なる性質」とは何か。「白地(あからさま)に見ねばならぬ」「我が姿」とは何か。それをまる1年経った今も相変わらず直視できないのだと告白する。この1年間の悪戦苦闘よりもこちらの直視の方がつらいとは!
 しかし、フィクションの中でではあれ、ここまで書いたことの意義は大きい。1年間の長く苦しい闘い途上のたしかな戦果ではある。
 しかし、これほどにも直視できないものとは何か、なぜそれほどにもできないのか、そこには常人の理解を超える事情が横たわっていること、すでに見た。だからこの「ローマ字日記」の世界はまだまだつづく。

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