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2014年3月

2014年3月30日 (日)

石川啄木伝 東京編 261

 概念の形成過程は遠く盛岡高等小学校、盛岡中学校時代の親友伊東圭一郎との出会いにまでさかのぼりうる。啄木の文明批評家としての力量は高山樗牛と出会った中学時代から片鱗を見せはじめた。日露戦争を契機に書きはじめた時評、文明批評、天才主義を振りかざして書いた力作「古酒新酒」等、「詩人」になって以後高踏的ではあるが評論家としての力量を発揮した。釧路新聞時代には視野がグローバルになりはじめ、すぐれた数々の論説をものした。
 上京後その資質も力量も当時の文学者の小世界に閉じ込められることになった。というよりも啄木自らが、売れる小説を書くため、いい小説が書けないため、閉じこもってしまったと言うべきであろう。
 啄木を大きな世界に引き戻したのは、東朝への就職であった。3月24日起稿の小説断片「島田君の書簡」はその一証左である。
 そして4月20日の小説断片「坂牛君の手紙」で「国民生活(ナシヨナルライフ)」に至ったのである。これは日本全土で、そこに住む人々すべてによって、営まれる生活の総体である。ここには当然政治的生活、経済的生活なども含まれる。

2014年3月28日 (金)

石川啄木伝 東京編 260

 この夜の啄木に合わせて要約すると談話の骨子はつぎの3点になる。
 1、評論と小説とは現代文芸二大様式である。にもかかわらず日本においては評論の発達が遅れている。もっと評論独自の意義を認識すべきである。
 2、自分の言う評論とはEssay(「試験」を意味する)またはCriticism(ギリシャ語で「審判する」に由来する)のことで、「人生其のもの」「実際に存する人生」のCriticism、「生ける社会其のもの」の批判を意味する。
 3、自然主義はどこまでも評論の精神によって働きかつ戦わねばならぬ。評論の精神のない自然主義は「死(デツス)」そのものである。
われわれは4月20日起稿の小説断片「坂牛君の手紙」において、啄木が「国民生活(ナシヨナルライフ)」という概念を創出したのを見た。
 この概念の生成を振り返っておこう。

2014年3月26日 (水)

石川啄木伝 東京編 259

 5月17日
 今日も田舎の新聞の経営や編集を考えてくらす。
    Kyo mo Yo wa Inaka no koto wo kangaeta.  Soshite sore dake no koto ni Hi wo okutta.  “ Ika ni shite Inaka no Shimbun wo Keiei subeki ka ? mata, Hensyu subeki ka ? ”  Sore da !
 この3日間東京朝日新聞には二葉亭関係の記事が載った。これは啄木に小さくない影響をもたらした。1つは、田舎にゆくことを、二葉亭のペテルブルグ行きと照応させることで正当化出来そうな気にさせたこと。もう1つは、二葉亭が政治、経済など社会の問題に広く目を向け、一新聞記者として活動しようとした点に、自分の田舎での新聞経営、編集という逃げ道を重ねて、ばくぜんと共通性を見ていたらしいことである。これは啄木の今後の評論活動への通路になってゆく。
 夜啄木は「新小説」を読んでいて重要な談話に出会う。
   Yoru Makura no ue de ‘ Shinshosetsu ’ wo yonde sukoshi omoi-ataru koto ga atta.  “ National life ! ” sore da.
 田中喜一談「近世文壇に於ける評論の価値」である。

2014年3月24日 (月)

石川啄木伝 東京編 258

 5月16日
   Yugata Kindaichi kun ni Genzai no Yo no Kokoro wo katatta.  “ Yo wa Tokwai Seikwatu(都会生活) ni tekishi nai.” to yu koto da.  Yo wa majime ni Inaka-yuki no koto wo katatta.
      Tomo wa naite kureta.
   Inaka ! Inaka ! Yo no Hone wo uzumu beki tokoro wa soko da.  Ore wa Tokwai no hageshii Seikwatu ni tekishite inai.  Issho wo Bungaku ni !  Sore wa dekinu. Yatte dekinu koto de wa nai ga, Yo suru ni Bungaku-sha no Seikwatu nado wa Kukyo na mono ni suginu.
 わずか1年前、田舎(北海道)の新聞なんかにいられるか、東京だ東京だと熱に浮かされて、上京したのだ。東京で作家になれなかったから(二葉亭のロシア行きをヒントに、しかし似ても似つかないのだが)田舎行きをかんがえるのである。小説家失敗を、今や率直に認めなくてはならないのである。しかし啄木はそうは言わない。「予は都会生活に適しない」からだと!そしてさいごの文句がいい。「一生を文学に!それは出来ぬ」と負け惜しみ、「やって出来ぬことではないが」とまた負け惜しみ、二葉亭がいったように「要するに文学者の生活などは空虚なものに過ぎぬ」とまた負け惜しみ! 三段構えの負け惜しみにはイソップのキツネも黙るだろう。
 啄木の弱点の頑強さ、自己の正体の直視だけはどうしてもしないこのねばり強さ、精神力、裏側から見ていて驚嘆のほかない。これだけ事実をみとめようとしない啄木はどうやって、小説の、より正確には「天才」の悪霊をふりおとすのであろう。

2014年3月22日 (土)

石川啄木伝 東京編 257

 『平凡』の末尾には「文学上の作品にはどうしても遊戯分子(ゆうげぶんし)を含む。」などのくだりがある。「答辞」には「文学は私には何(どう)も詰らない、価値が乏しい。で、筆を採つて紙に臨んでゐる時には、何だか身躰に隙があつて不可(いけない)。遊びがあつて不可。そうも恁(か)う決闘眼(はたしまなこ)なつて、死身(しにみ)になつて、一生懸命に夢中になる事が出来ない。……国際問題……これならば私も決闘眼になつて、死身になつて、一生懸命に没頭して了へえさうである」、あるいは「私は文士ではない。それを文士と見られるのが実は心外で、私の自から見てゐる様に世間からも認めて貰ひたい」といった箇所がある。これらは啄木の印象に残っていたとみられる。
 啄木は二葉亭の死が気になって夜の11時頃金田一の部屋に行き語り合う。二葉亭が文学をきらい、文士と言われるのをきらったことを、金田一が理解できないことに失望する。
 この時期の啄木が、二葉亭の人物に惹かれ、共感する要素は多分にあったと思われる。まず二人とも文壇内部や身辺の世界ばかりを見てくらすには、あまりに広い視野と遠くを見る目を持っていた。二人とも政治や経済になみなみならぬ関心を持っていた。二人とも行動的であった。
 そして二葉亭の「文学嫌い」という点は、啄木が自己にひきつけて考えたとすれば一見共通しているのであった。二葉亭は立派な小説が書けるのに、「文学嫌い」である。啄木は書けないから今は「文学嫌い」である。結論だけは似ている。

2014年3月20日 (木)

石川啄木伝 東京編 256

  5月14日
  Sha wo yasunde iru Kutsu mo narete shimatte sahodo de mo nai. Sono kawari Atama ga Sanman ni natte nani mo kakanakatta.  Nan da ka Iya ni Heiki ni natte shimatta. 
 「何も書かなかった」とは、意識をなくした戦士のうわごとのようである。ついに、ここでこそ精根尽きた、と言ってよいかも知れない(ただし、やはり、一時的に)。
   Ni-do bakari Kuchi no naka kara obitadashiku Chi(血) ga deta.
 女中はのぼせだろうと言い、啄木自身もさほど気にしていない。
 5月15日
 気息奄々の啄木に1本のカンフル剤が打たれる。
    Kyo no Shinbun wa Hasegawa Tatsunosuke shi (Futabatei Shimei) ga Kicho(帰朝) no
To(船),Fune no nakade shinda to no Ho wo tsutae, kisotte sono Toku wo tatae, kono nani to naku erai Hito wo oshinde iru.
 東京朝日新聞の池辺三山の談話では、二葉亭四迷の志は文学ではなく政治経済にあったこと、「其面影」や「平凡」を書いても怏々とし、朝日新聞の特派員としてロシアに行けることになって初めてうれしそうであったこと、などが語られている。
 啄木は1908年1月には『其面影』を、4月には『平凡』を読んでいる。同年7月号の「趣味」で二葉亭の「送別会席上の答辞」も読んだと思われる。

2014年3月18日 (火)

石川啄木伝 東京編 255

 しかしまだ「Atama ga chitte nanimo kakenu.」などと書きとめる。もう書かぬ、とはいわぬ。読み手の方までくるしくなる。「もうだめだ、やめろ、狂うぞ、死ぬぞ!」と叫びたくなる。メフィスト-フェレスとともにこう言ってやりたくなる。
  
  ……考えごとは一切やめて、
  まっしぐらに世間へのりだしましょう。
  申しておきますが、思索などやるやつは、
  悪霊に引きまわされて枯野原のなかを、
  ぐるぐる空回りしている家畜みたいなもんです、
  その外側には立派な緑の牧場があるというのに。    ゲーテ「ファウスト」

 まことに小説という悪霊にとりつかれた、いや正確には、「天才」という悪霊にとりつかれた啄木はただただ、枯野原の中をぐるぐる歩きまわるばかりだ。
   Yo wa ima Yo no Kokoro ni nan no Jishin naku, nan no Mokuteki mo naku, Asa kara Ban made Doyo to Fuan ni ottatererete iru koto wo shitte iru.  Nan no kimatta tokoro ga nai.  Kono saki do naru no ka ?   
 しかし、「ローマ字日記」の底はこの6日間だ。「緑の牧場」への細い細い道を、啄木は四日後横目に見る。

2014年3月16日 (日)

石川啄木伝 東京編 254

 暗い球形の部屋があるとする。真ん中にすわる人に向かって内側の面が全方向からひしひしと圧迫してくるとしたら、どんなにおそろしいであろう。啄木の心境はそのようなものではなかったかと思われる。
   Kagiri naki Zetubo no Yami ga toki-doki Yo no Me wo kuraku shita.  Shino to yu Kangae dake wa narubeku yosetsukenu yo ni shita.   Aru ban, do sureba ii no ka, kyu ni Me no Mae ga Makkura ni natta.
  「ローマ字日記」の白眉は4月10日の記述だという。皮相な読みだ。この日記の一字一字を追い、啄木の内面に沿って読みすすんでくるなら、「ローマ字日記」は4月13日からモチーフが明確になりはじめ、この5月8日――13日にクライマックスに達するのであることが分かるはずだ。そうだ、この6日間こそ「ローマ字日記」76日間中の最大の苦境、底の底、であった。さすがの啄木も、この時ばかりは一時的に精根尽きる。そして底に横たわっている。その啄木に最後の一打が振り下ろされる。
   Haha kara itamashii Kana no Tegami ga kita.  Sengetsu okutte yatta 1 yen no Rei ga itte aru.  Kyoko ni Natsu-boshi wo kabusetai kara Tsugo ga yokattara Kane wo okutte kure to itte kita.
 金田一がごちそうしてくれ、気をひきたててくれる。精根尽きたと、わたくしはいった。

2014年3月14日 (金)

石川啄木伝 東京編 253

 5月8日――13日
  Kono muika-kan Yo wa nani wo shita ka ?  Kono koto wa tsui ni ikura asette mo Genzai wo buchi-kowasu koto no dekinu wo Shomei shita ni suginu.
 現在をぶちこわすために何をしていたのか。書いていた。おそらくひたすら書く闘いをつづけていた。2人の少年たちの所へ行って「一握の砂」を書き続けた。そしてペンは「その後一年!………………」で止まってしまう。「その後一年」とは今、現在のことだ。
 それから「札幌」というのを書いた。50枚ばかり(二百字詰め原稿用紙)書いたが13日現在でまだまとまらぬ、という。「いくらあせっても、現在をぶちこわ」せぬことが分かったというのだから、「札幌」もまた失敗に終わったのだ。
岩本らのところに行ってみると下宿料の催促に弱っている。社の校正係主任加藤四郎から出社するよう言ってくるが、仮病の届けを出し、その上、岩本を使いにやって加藤を通じ、佐藤北江から5円借りてもらう。なんという甘ったれ社員だ。だがその金は岩本らに与えて下宿代を肩代わりしてやるためのものだ。
 自身もこうじはてて、白秋から送られた『邪宗門』を売ってしまう。
 が50枚もの原稿紙にペンを走らせてもついにまとまらなかったのであれば、そしてここ1年間の悪戦苦闘さらにここひと月の、信じがたいほどにねばり強い、くりかえして、くりかえして、くりかえした創作への挑戦を考えてみれば、さすがの啄木も地べたにたたきつけられて起き上がれぬ思いであった。その上、苦境をもたらしている諸条件は悪化の一途をたどっている。

2014年3月12日 (水)

石川啄木伝 東京編 252

  Kyo kako to omoi tatta no wa, Yo ga genzai ni oite tori-uru tada hitotsu no Michi da. So kangaeru to kanashiku natta.  Kongetsu no Gekkyu wa Zenshaku shite aru.  Doko kara mo Kane no hairi-yo ga nai.  Soshite Rai-getsu wa Kazoku ga kuru…………………
 今日も全く同じ発想によって「書かねばならぬ、書こう」そして結果は「書けない」だ。しかしたしかにこれほどの窮境はかつてなかったかも知れない。このローマ字の日記をつけ始めた時、すでにすべてがどん詰まりに来ていたのだった。それでもしぶとく金を手に入れ、女を買いもした。しかし「今月の月給は前借してある。どこからも金の入りようがない」のは確かだ。もっとも小説を一時断念すればいろいろ方途もあるはずだが、それは今の啄木にはまだ論外なのだ。
 5月7日
 今日も創作に挑戦。岩本たちの下宿で、おしゃべりしては、それでも「宿屋」を10枚ばかり書いた。この小説断片には「小樽駅頭の所だけで、後が伝はつてゐないが、題目から見て旭川を中心に述べられるのであつたらう、完結しないでしまつたのは惜しいことである 」。白石社長の「青き寐顔 」を軸に構想しようとしたのであろう。「疲労」を書いた国木田独歩の技倆があれば、傑作が生まれる好材料にみちたテーマなのに、惜しいかな今の啄木には猫に小判だ。
 「宿屋」は中断、「一握の砂」を書き出す。「足跡」のつづきを書こうとするもののようである。しかし構想もなく書き流してゆく。自己告白のようで、「私の卑怯なる性質」にも「白地(あからさま)に見ねばならぬ」「我が姿」にも迫らない。
 5月8日からの5日間は日記を書かない。13日になって6日分をまとめて記す。6日間も何をしていたのだろう。

2014年3月10日 (月)

石川啄木伝 東京編 266

 こうして5月も過ぎた。6月の日記は
「JUNE./ TOKYO ./ 1 TH, TUESDAY.」を3段に記して、堂々とはじまる。ちなみに「1TH」は「1ST」の誤りであろう。
  Gogo, Iwamoto ni Tegami wo motashite yatte, Sha kara Kongetsu-bun 25 yen wo Maegari shita. Tadashi 5 yen wa Sat? shi ni haratta no de Tedori 20 yen.
 6月は31日間ある。このうち啄木はたった1日(5月1日)しか働いていない。比較的よく働いた4月分の給料は4月はじめに18円前借し月末に7円を受けとった。そしてたった1日しか働いていない5月分の給料25円は5月1日に前借した。今日また前借したのは、6月分である。6月は1日も出社しないであろう! 
 啄木の天才を開花させる上での恩人はたくさんいる。節子は妻なので別格としよう。
 金田一京助、宮崎郁雨、土岐善麿は特筆されるべき恩人であろう。しかしもう1つ、これらの人のほかに東京朝日新聞社の名を逸することはできない。とくにこのたびの言語道断とも言うべき欠勤があってもクビにならなかったのは、佐藤北江の庇護があったからであろう。これからも北江を初め社会部長渋川玄耳、主筆池辺三山、杉村楚人冠、弓削田精一ら、そして編集部校正係の人たちにお世話になるであろう。それはしかし一方的なものではない。啄木の卓抜した能力、傑出した勤務内容、愛すべき人柄が人々の庇護・愛護・敬意を誘ってやまなかったことにもよる。ともかく、この1910年晩秋から1911年6月にかけて創造される啄木文学の豊穣は、東京朝日新聞社なしにはありえない。

石川啄木伝 東京編 251

 さっそく実行にうつす。当然のことながら、真に実行されたのは2人の下宿へゆくことだけだった。そこでかれらの話を聞いてやり「Kikeba kiku hodo kaaiku」なる。清水という少年は朝鮮の京城に2年ほど行っていたので、その話をする。はじめ啄木は「Atama  no Soko ni uzumaite iru iro-iro no Kangae-goto wo Muri ni osaetsukete oite, Hutari no Hanashi wo」聞いていたのに、「Yo wa itsu-shika sore wo Nesshin ni natte kiite, “ Ryohi ga ikura kakaru ? ” nado to tote(問うて) mite ita.  “ Aware ! ”」
 朝鮮という新しい逃避先が見つかったように錯覚し、旅費のことなどを聞いたのだ。自分のその心理に気づいて記す、「憐れ!」。結局この日は何も書けず下宿に戻る。

2014年3月 8日 (土)

石川啄木伝 東京編 250

 5月5日
  Kyo mo yasumu. 
    Kaite, kaite toto matome kanete “手を見つつ” to yu Sanbun wo hitotu kaki-ageta no ga mo Yugata : Maebashi no Reiso-sha e okuru.
 今日も「書いて、書いて」「まとめかねて」……。
 5月6日
  Asa Iwamoto, Shimizu no Futari ni okosareta.  Nani to naku shizunda Kao wo shite iru.
    “ Kono mama de wa do mo naranai ! Do ka shinakereba naranu ! ”
 自分がどん底にあるのに、2人の青年を救うことを考える。やさしい啄木。
 そこで考えた案は、社を1週間休み岩本たちの下宿のあき間に行って、朝から晩まで書きまくる、ことだった。2人の青年を救おうとする気持はほんとうに美しいのだが、そこにもう1つの動機が交じっている。2人のために「金を得なければならない」は「小説を書くことによって金を」に短絡する。つまり小説執筆の動機にしてしまうのだ。

2014年3月 6日 (木)

石川啄木伝 東京編249

  時として私は新橋なり上野なりの停車場(ステエシヨン)に行つて、急しく出つ入りつする人々を見ながら何時間を過すことがある。又、用もないのに電車に乗つて町々を乗廻してる事がある。又時として、下宿の催促に居たヽまらず、頭を下げて社から前借した金を以て、とある処に柔かい腕に抱かれて凝然(じつ)として目を瞑(つぶ)つてゐる事がある。――凡ては私の卑怯なる性質の反映だ。痛ましき我が姿を白地(あからさま)に見ねばならぬ恐ろしさに、私はさうして耳を塞ぎ目を瞑つて逃げ廻つてゐるのだ。

  これはこの5月4日起稿の小説断片「追想」の一節である。
 「凡ては……」以下はわたくしが繰り返して指摘してきた「ローマ字日記」のモチーフそのものである。ここの叙述はある意味で去年4月22日に大島流人宛てに書いた書簡と本質は同じとも言える。
 「私の卑怯なる性質」とは何か。「白地(あからさま)に見ねばならぬ」「我が姿」とは何か。それをまる1年経った今も相変わらず直視できないのだと告白する。この1年間の悪戦苦闘よりもこちらの直視の方がつらいとは!
 しかし、フィクションの中でではあれ、ここまで書いたことの意義は大きい。1年間の長く苦しい闘い途上のたしかな戦果ではある。
 しかし、これほどにも直視できないものとは何か、なぜそれほどにもできないのか、そこには常人の理解を超える事情が横たわっていること、すでに見た。だからこの「ローマ字日記」の世界はまだまだつづく。

2014年3月 4日 (火)

石川啄木伝 東京編 248

 5月4日
  Kyo mo yasumu.  Kyo wa ichi-nichi Pen wo nigitte ita.
 「鎖門一日」を書いてやめ、「追想」を書いてやめ、「少年時の追想」を書いてやめた。「Sore dake Yo no Atama ga Doyo shite ita.」のだという。きのう1日伏せっていて考えたのは結局「書こう、書いて金を得よう」だったのだろう。これはこの4月になってからさえ、くりかえしたパターンだ。たとえば13日に母の手紙を受けとった時、26日27日新松緑と日本橋で浪費したあと、「書けるかもしれない。そうしたら金が手に入る」という妄想にしがみつくことで、二重の逃避をこころみる。現在の窮境と自己の正体の直視からの逃避を。
 とはいえ、啄木はこの時期になってくると自分の苦しみの根源が何であるか、問題をかなり明確に理性の前にひきづり出して来るようになる。ただし、ひきづり出した以上それを吟味するはめになる日記の中にではなく、一往はフィクションの体裁をとっている小説の原稿の中に。

2014年3月 3日 (月)

石川啄木伝 東京編 247

 4月27日に前借を申し込みかねて、時計が4時を打ってホッとした啄木、翌日麻布の佐藤北江の家までお願いにいった啄木、5月1日「首尾よく」25円の前借に成功し、ついに一夜の「安心」を得られた啄木。その翌朝20円の下宿料をとりたてられ、残りは2円になった昨日、その虎の子は岩本と清水のために消えた。一瞬にしてもとの金欠地獄に放り込まれたのだ。   今月1ヶ月をどう暮らすか。来月の家族の上京は確定的だ。何の準備もできていない。岩本と清水のめんどうもみてやらねばならぬ。もう悩みを書きとめる気もしないのではないか。気息奄々として横たわっているのではないか。その床の中で何を考えているのか。

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